対談

『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性

土居伸彰×藤田直哉 対談
土居伸彰×藤田直哉

『君の名は。』『天気の子』が大ヒットを記録、11月11日に公開された最新作『すずめの戸締まり』もすでに莫大な興行収入を上げている新海誠。新海はなぜ、「国民的作家」になり得たのか。評論家であり自ら代表を務める会社ニューディアーの事業を通じて海外アニメーション作品の紹介者としても活躍する土居伸彰氏が、世界のアニメーションの歴史や潮流と照らし合わせながら新海作品の魅力を解き明かしたのが、10月17日に発売の『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』である。
本記事では『すずめの戸締まり』を巡り、10月30日に『新海誠論』を刊行した批評家の藤田直哉氏と対談。最新作公開初日に収録された対話を通して見えてきた、新海作品に通底するテーマとはなにか。

(本記事は11月11日にNaked Loft Yokohama開催されたイベント「「新海誠」評論本の著者が語り合う!『すずめの戸締まり』最速批評」を再構成したものです)

新海監督のヒロイズム

土居 今回は皆さんお越しいただきありがとうございます。土居伸彰と申します。つい先月、集英社新書から『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』という本を出させていただきました。アニメーションの配給や製作を手掛けるニューディアーという会社を経営しつつ、去年までは新千歳空港国際アニメーション映画祭のディレクター、今年からはひろしまアニメーションシーズンという映画祭のプロデューサーを担当しています。

藤田 みなさんこんにちは。藤田直哉と申します。日本映画大学の准教授をやっていて、批評も書いています。自分は『新海誠論』という全作品を詳細に評論した本を出させていただきまして、せっかく同じ時期に新海誠について本を書いた2人がいるのだから、『すずめの戸締まり』も公開初日に語ってみようじゃないかというのがこのイベントの主旨です。

土居 そうですね。このイベント当日は2022年11月11日ということで『すずめの戸締り』公開初日なんですが、その日に「最速批評会」をするという内容です。今回、僕と藤田さんは同時期に新海誠についての本を出したわけですが、アプローチはかなり違っています。それは、新海誠が単独の視点では捉えきれない懐の深い作家であることが理由なわけですが、今回、新作の『すずめの戸締まり』が本当に驚くべき幅を持っている作品だったので、僕ら2人が別々の角度から新海誠や『すずめの戸締まり』を語ることで、より何かしら面白い発見が見えてくるんじゃないかと思います。

藤田 公開初日にイベントは、速すぎですよね(笑)。ダイレクトに本題にいっちゃいますが、『すずめの戸締まり』はどうでした?

土居 僕は集英社新書プラスでレビュー記事を執筆しまして、もともと編集者の方からは「3000から4000字でお願いします」と言われてたんですけど、書いていくうちに1万字以上になってしまい(笑)。それくらい書いてしまうほど熱い思いにさせられるというか、かなり驚いた作品でした。ここまでしっかりと、日本とその歴史にフォーカスしてくるんだなと。

藤田 僕は『新海誠論』という全作品を詳細に評論をした本を出したんですが、その本のなかで8月末に刊行された『すずめの戸締まり』の小説版を論じています。そのなかでは、民俗学の話や芸能、スピリチュアルの話を掘り下げているのですが、じつは映画本編を観るまで「ズレてたらどうしよう?」と思っていたんです。なので怖がりながら観たんですが、結論から言うと「間違ってなかったな!」って思ってます。

土居 劇場で配布されている「新海誠本」にも、新海監督が「縄文」について言及している箇所がありましたね。

藤田 そうですね。「新海誠本」では「芸能」や「能」という言葉も出てきますよね。既にいなくなってしまった存在が蘇って来ることの多い能や、日本における深層に触れるための装置としての「後ろ戸」に言及しながら、死と神と古典芸能を意識し『すずめの戸締まり』を作ってると新海さんは語ってます。だからなのか、今回の『すずめの戸締まり』が新海作品の中でも一番感動したし、一番泣いちゃったんです。何よりこの「新海誠本」で新海監督が「自分たちの作る作品に誰かを変える力があるなら、美しいことや正しいことに力を使いたいと思う」って書いてて、これ読んだときが一番感動したくらいです(笑)。

土居 なんだかヒーローみたいですよね(笑)。

藤田 新海監督は「君と僕の世界さえあればいい」といった、社会や現実を無視する志向を持った「セカイ系」の作家の代表者なわけですが、彼が、「閉じこもる」んじゃなくて、社会のことを意識して、社会を変えるために作品を作るようになる変化が、『君の名は。』『天気の子』と今回の『すずめの戸締まり』には大きくあって、ある意味大人になって成熟したんだなと感じました。それが、「オタクとして成熟すること」のロールモデルを示してくれるようで、感動しましたね。

『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』と『新海誠論』

『君の名は。』への応答

土居 僕自身も、藤田さんにも共通するところだと思うんですけど、『君の名は。』を最初に観たときには違和感を感じていて。何かすごいものを見てしまったっていうふうに圧倒されるとともに、同時に「災害をなかったようにする結末でいいのか?」っていうことはやっぱり思ったわけなんですよね。今回はそれに対してどストレートに打ち返して、本当に見事にやり切った作品になっているという。

藤田 『君の名は。』のときに、「死者をよみがえらせる」「災害はなかったことにして徹底的に装飾する映画だ」っていうことを言った批評家がいた、ということを新海さんが話しているんですが、その一人は僕なんですよ(笑)。そう思う人たちを怒らせるために『天気の子』を作ったというニュアンスのことを言ってましたよね。今回の作品でもその批判への応答はあるように感じられます。今回も、震災を扱うことで、潜在的な批判についてはあらかじめ相当予期して、丹念に防衛線を張っていると思う。つまり、非常に「対話的」な作りなんですよ。主人公の鈴芽の亡くなったお母さんがいる美しい世界は幻のような世界で、こちらから見えるけど触れられないし入れないっていう描き方をしていて、死者は蘇らないのだと冷徹に描いている。死と災害に対する向き合い方のレベルが今までとは明らかに違うんです。新海監督が自分の作品を「バンドエイド」と考えているのは有名ですよね。今回の作品では、震災を経験した鈴芽が常世という美しい世界――「あの世」のことでもありアニメの世界ということも意味しているとおもいますが――そういう理想世界に触れることで生きる力を取り戻した、回復したみたいな話になっているんです。一時的にそこに逃げたりすることで未来への希望を取り戻して、回復してほしいっていう表現になっている。絆創膏やバンドエイドは傷を癒す役割を果たしているわけですから、今回の作品は自分の作品の機能をストレートに出してくる自己言及的な作品だと思うんです。

土居 新海監督が自らの方法論に対してすごく意識的になり、なおかつそれがちゃんとハマってるという。新海作品の代名詞でもあった「美しい背景」というものがあったと思うんですけども、今回その多義性みたいなものがすごく意識して使われたと思うんです。

藤田 鈴芽と、もう一人の主人公の草太の友人、芹澤が福島の街を見るシーンではそれが顕著でしたね。

土居 そうですね。『君の名は。』で立花瀧役を演じていた神木(隆之介)さんがこの作品では芹澤朋也という役を演じているんですけど、芹澤が福島の被災地跡の景色を見て「ここは綺麗だな」とつぶやくと、被災者である鈴芽が「どこが?」と言い返しているシーンがあります。その前後のシーンでは福島第一原子力発電所らしい建物がカメラに映っていたりもする。今年日本で最も大規模な公開作品でそういうことをするのか!と驚くとともに、美しいものが持っている良さも悪さも、どちらも飲み込んだような表現としてやっていて、凄みを感じました。

藤田 恐ろしいですよね。新海作品は前半と後半で分けて、後半でシビアな内容を描くというパターンを好むんですが、今回の『すずめの戸締り』でも前半までは宮埼から愛媛、兵庫、東京に行って、草太とともに災いを呼び起こす「みみず」を封じ込めるというストーリーでアクションノベルみたいに展開していくじゃないですか。そこから後半に入ると、福島から宮城まで行って、鈴芽が被災者だったということが明らかになったりする。エンターテイメントとしては明らかにボーイミーツガールとアクションを見せながら、最終的に福島の現状や現実みたいなものを見せたり、さらに震災が起きた直後の燃え盛ってる様子まで描いてしまう。いわばアニメを使って「弱毒化したリアル」を楽しませつつ摂取させているわけですよね。そんなことをエンターテインメントな大作でするというのは、ぼくもちょっと驚いちゃいましたね。凄いと思います。

土居 新海誠はもともと個人作家としてスタートして、その後コミックス・ウェーブ・フィルムが作品に出資し、制作もしています。『君の名は。』と『天気の子』以降は東宝と組んで製作を行っていますが、今回の作品、クレジットを見る限りでは「製作」のところにコミックス・ウェーブ・フィルム代表川口典孝さんの名前しか載っていなかったので、おそらく東宝ではなくコミックス・ウェーブ・フィルムが一番多くのお金を出資しているのかなと想像します。ある意味でインディペンデントな作品というか……だからこそこういったテーマで作品が作れたのかなとも思ったりします。

藤田 いまでも割と個人作家的なやり方で新海さんは作ってるんですよね。自分で原作を書いて、脚本と絵コンテとビデオコンテぐらいまでを全部自分で作業していらっしゃる。そこからアニメーターさんが動画を作ったり、背景を作ったりしている。新海監督が過去のアニメ作家への発言でちょっと面白かったのは、宮崎駿、押井守、庵野秀明に結構リスペクトを示してて、「彼らが割とニッチであるにもかかわらず大作として成立するというアニメを作り続けてくれたから自分も作れるんだ」みたいなことを話していたことです。監督のプライベートな作家性や心情を重視しつつマスに受けるっていう、日本のアニメが持っている謎の性質が新海作品の場合にも生きてるんだろうなと。加えて、そういうものが必要とされる日本という土壌、社会、国民性みたいなものもあるのでしょうか。それが日本のアニメの特徴なんでしょうね。ディズニーだとみんなで集団制作するから、脚本などももうちょっと法則に沿った作られ方をしているように感じます。

土居 今の話を受けてみると、新海監督はそういう日本アニメの作家主義的なる部分を受け継ぎつつ、「みんなが見たいものを作る」という感覚もとても大きい。例えば『天気の子』であれば、「天気ってみんな気にしますよね?」というところから、「じゃあ天気っていう題材でやりましょう」と普通の人の感覚を探るようにして制作していくんですよね。伝統的な「作家」と比べて、観客のことを考える比重が大きいのがすごくユニークだなと思います。

藤田 そうでしょうね。『君の名は。』以降の大作映画を作るようになってからは、「みんなのため」ということを明らかに意識するようになってる。新海誠はアンテナ力がもともとある人で、大衆や世の中が何を求めてるかみたいなことに対するアンテナを鋭敏に張って作りあげ、大衆的な欲望っていうのに無意識に働きかける作風をやってると思うんです。韓国の『パラサイト』『ジョーカー』『万引き家族』などを引き合いに出して、『天気の子』を新海さんが語っていることがありましたね。

土居 そうですね。

藤田 『天気の子』は同じ時代の空気をアンテナで感じ取って、「いまこれを作らなきゃいけない」と思った結果、貧困と差別と気候変動とテロリストの話になった。じつはこの三部作とも災害と自然の話について描いていますよね。それは重要な点で、これは宮崎駿の影響だと思うんですよ。宮崎駿も巨大な災害や戦争が起き続ける世界を描き続けていて、災害とか戦争が常に起き続ける国土の上で生き続けるということは一体どういうことなのか?それに対してどういう態度を持ったらいいのか?ということを考えながら作品に仕上げて、観客に無意識的な文化的な備えを作ろうとしている。もしかしたら新海誠は自分が大作映画を作るとなったときにこの点を引き継いで、ある種の神的なものや災害を扱い、『君の名は。』『天気の子』『すずめの戸締まり』を作ったんだろうというのが僕の考えです。「国民的作家」になったからこその使命感なのかなと。

『新海誠論』(作品社)

「昔に戻りたいという気持ちをやめよう」

土居 その逆にはなりますが、新海監督のユニークさのひとつとして、現状を決して否定しない、というところがある。それは、今の現実に生きてる人に対して非常に優しい視点でもある。今までの新海作品は、「ないものを愛する」「ないものを求める」ことによって、カタルシスを生み出していた。それは、現代人の苦しみに寄り添ったものでもある。一方、『すずめの戸締まり』は何が一番感動的だったかといえば、「自分自身にもともと未来や可能性があったんだ」という話をしたことだと思うんです。これまでの新海作品は「私たちは空っぽである」ということを描いてきたけれど、今回の作品は「空っぽじゃなかった」という話をしていて、そこに強く心を打たれたんです。

藤田 そうそう。ないもの、理想的なもの、幻を追うのを諦めよう、という話ですね。ぼくは「昔に戻りたいという気持ちをやめよう」っていうのが今回のテーマなのかなと思うんです。この映画には、宮崎、愛媛、兵庫、福島、宮城が出てきますが、昔はいろんな地方が栄えてたわけですよ。「80年代ぐらいの日本はよかった」なんて僕の世代とかは思いがちではありますが、そういうふうに平和で豊かな時代に戻りたいという心を持ってるとそこから災いが出てくるぞ、だから過去に戻ろうとするのはやめろっていう話にもなっている。そこに重なるようにして、「過去に戻りたい」というあこがれの対象としてお母さんがいて、でも本当はそれは自分だった、憧れていた本当の相手は自分だったという描き方をしていて、「もう戻れないし、失ったことに対する喪に服して、覚悟を決めなさい」という物語の構造になっていると思うんですよ。それは災害などにまつわることだけじゃなくて、衰退しているいまの日本に向けた話にもなっているんです。特に前半、地方から東京へと進んでいる間の話は地方の衰退の話にもなっていて、「日本を取り戻す」とか「アメリカをグレートにするぞ」っていう人たちがたくさん世界中に現れているこの時代に、新海さんはこういうメッセージをいま発したのかなと思ったんですよ。

土居 新海監督は「時代を読んでしまう力」が恐ろしいくらいにある人である一方、こういう思いを込めて作ったんだけどそれが観客に伝わらないということも多く経験しています。『君の名は。』に対する反応がその代表例です。過去も『秒速5センチメートル』の結末が想定と違って受け止められたり、『星を追う子ども』が観客にうまくハマらなかったりもしている。でも、今回の『すずめの戸締り』では、自分自身の「これをやるんだ!」というものがしっかりと打ち込まれて、伝わってくる感じですよね。

藤田 『天気の子』では汚い東京を描いていて、貧困とか差別とか暴力みたいなネガティブなところを捉えたんですよね。「美しくきれいなものを見たい」「華やかなものを見たい」「ネガティブなものは見たくない」という観客が多いことをわかったうえで、無意識レベルでそういうものを見させるという技を『天気の子』はやっていて、今回もそれを明らかにやってる。しかし、それは多くの観客は意識的にはそう思わなかった。新海誠が恐ろしいのは、あるインタビューで言っているのですが、そういう作品と気づかれないように、甘やかに美しいコメディとして仕立てあげていて、わざとやってるらしいですよね。そうしないと受け取ってもらえなくなってしまうから。映画とかエンターテイメントの中で使命感を持ってる人たちは、言わなきゃいけないメッセージや世界に伝えなきゃいけないメッセージをどう伝えるか?技術を駆使して表現しようとしてくる。新海誠もいまそれをすごい使ってるかなっていうふうに思います。

土居 いま藤田さんとお話しててわかったんですけど、今回の作品は海外戦略の意味で、作品のメッセージに複数のレイヤーがあるというのは非常に重要なのかもしれないですね。海外だと作品が扱う社会的な問題の扱い方が注目され、しっかり評価されていくところがある。本作も海外では震災や災害、復興にまつわる話として読み取られるはずだし、海外の人なりに自分たちの災害経験と照らし合わせながら見ていくことができますよね。

藤田 土居さんはお詳しいと思いますが、海外のアニメーションは深刻なテーマの作品ばっかりなんですよね。

土居 とりわけヨーロッパの大人向けアニメーション作品は、実際の戦争などをテーマに深刻な問題を扱うことが多いですね。

藤田 内戦、戦争、差別、殺戮、そういう問題こそアニメにして、実写だと直視できないようなものをアニメでまろやかにして伝えていくとかとか、そういう作品が多い印象で、日本のアニメとはちょっと質が違いますよね。

土居 違いますね。

藤田 この点、社会や現実の問題を極端に排除しがちな傾向のある日本のオタク文化がやはり特殊なんだなと思います。『天気の子』が公開されたあと、海外の人は貧困と気候変動の話ですよねってインタビューなどで言われたようですけど、日本ではそんな質問が全然なかったと新海監督もおっしゃってたくらいですし。

『天気の子』は、若い子たちはボーイミーツガールに感情移入して見れるし、われわれのような年寄りは、何でこの子たちは貧乏なのに喜んでて、この世界が幸せだ!と言っててかわいそうにって思っちゃう。「かわいそうだ」とこちらは思うけども、当人たちはまるで思ってない、そういったギャップで複雑な気持ちにさせられるんですよね。複数のレイヤーをわざと重ねて議論をさせるようなことを狙ってるというようなことが、最近の新海誠の技なんでしょうね。特に今作は、「国民的作家」として、多くの立場の人が楽しめるフックを作って、観た後に議論や論争を呼び起こす、そういう「公共圏」のプラットフォームになろうとしているようにも感じます。

『すずめの戸締まり』に隠された神話的なモチーフ

土居 どこまで意図的にやってるんだろうか、という底知れない怖さみたいなところもすごくありますよね。鈴芽と草太が東京でみみずと戦ったあとのシーンでは、皇居の地下にみみずが出てくる後ろ戸があることがほのめかされますが、ギョッとさせられます。

藤田 後ろ戸があるのは皇居の地下ですよね。これは要するに、宗教的な儀式で災厄を止めているのは天皇ではないか?という隠喩でしょうか。

土居 作中に出てくる猫がダイジン(白猫)、サダイジン(黒猫)と呼ばれていて、すでに「あれはなんなんだ?」と論争を呼んでいますが、あの猫も天皇の話とつなげて読むことができてしまう。サダイジンはかなり謎めいたキャラクターで、災いを止める閉じ師である草太のおじいさんと旧知であるようなセリフもある。そして、草太のおじいさんには右手がない。なぜ右手がないのかと考えたら、閉じ師としてミミズとバトルをしている最中に手を失ったと考えるのが一番自然に考えつくし、そうなると、もしかすると東日本大震災のときに戦って負傷してるんだろうなと思える。サダイジンはすずめに対し、「人間の手で戸を閉じてくれ」ということを言いますけど、それはつまり東日本大震災の後ろ戸は人間ではない神の手でこれまでは仮に閉じられていた、ということにもなります。そう考えると、閉じ師は人間と神のハイブリッドな存在であり、閉じ師の行ないは神事のひとつとしてみれる。そうすると、ダイジンと草太のあいだの諍いは、神と神との戯れ的なものにも解釈できる。天皇や神の話を新たなレイヤーとして加えてみると、ダイジンやサダイジンの話は整合性がようやく取れるなと……これは僕の中での与太話みたいなところですが(笑)。

藤田 ちょっとそれは分からないですが(笑)。映画史において、天皇はかなり重要なんですよね。たとえば1作目の『ゴジラ』が天皇の皇居に向かってるという説があったり、『シン・ゴジラ』でも皇居付近で戦うんだけど、庵野秀明は『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』のなかで「天皇を出すな」と東宝が伝えてきたと書いてます。この作品でも「皇居の下に戸締まりの戸がある」と描いていて、直接はっきりは言わないけど、明らかに天皇をこすってきてるわけです。ぼくは『新海誠論』を書いているときに、新海誠の感じている神道やスピリチュアリズムが変なウルトラナショナリズムや右傾思想に結びつくんじゃないかという懸念を検討しつつ、結構悩んで、そうはならない可能性に賭ける、という結論を出したんですよ。その根拠が、東北の人とか、国家神道に寄与しない「まつろわぬ者」たちを新海監督が好意的に描いていたからなんです。でも『すずめの戸締り』の小説や映画を見てみると、「あれ?天皇と結びつけちゃってるじゃん、新海誠の抱えているスピリチュアリズムが、国家神道とかナショナリズムと結びつくかもしれないな」「アニメなどのオタク文化を基にした、ニュータイプの日本浪漫派」になるかもしれないな、ヤバいな、どう解釈したらいいんだろうな、と肝が冷えました。小説版では皇居とか天皇みたいな言葉が割と前に出て、東日本大震災って言葉も結構前に出てくるからその印象は強いけど、映画版ではそういったニュアンスは後退してましたね。

土居 今回、藤田さんの論の中では、天皇も犠牲者のひとりという観点によって、他の犠牲者たちと結び付いていくということも書かれてましたね。

藤田 「犠牲になった者たちを犠牲にしない」というのが『天気の子』のテーマで、『すずめの戸締り』でも、草太がみんなのために犠牲になっていますが、それをやめさせることを描いている。福島などの被災地の人たちと同等の存在として天皇が犠牲になっていると描いてるんじゃないか?と解釈を示しましたが、それはこの本の中で一番危険な箇所になりますよね。

土居 それに岩戸鈴芽という名前も神話からきてるみたいですよね。

藤田 「古事記」における天の岩戸ですよね。今回の本を書くために「古事記」を読んでみたんですが、天照大神が岩戸の中に籠もってしまったのを外に出そうとするというのが大枠の話で、天照大神を呼び出すために女性が裸で踊って、みんなで大笑いしていたら、天照大神がでてくるという流れになってる。『新海誠本』に拠ると、そのときに踊る「芸能の神」であるアマノウズメが「鈴芽」の名前の由来のようですね。

土居 なるほど。

藤田 こうしてみると、日本の宗教観というのは、キリスト教や儒教、仏教とは違い、性を抑圧せず、欲望に対して肯定的でもある。もしかすれば新海誠の描く性は、単なるエロやフェチズムではなく、もうすこし深い民俗学的な意味もあるのかなと書いていて感じましたね。

土居 鈴芽と草太に関しては恋愛関係みたいに見ている方は捉えると思うんですけど、パンフレットの新海誠へのインタビューを読むと「そうじゃない」って書いてあるんですよね。鈴芽は草太に対して恋愛的な要素を持ってるかもしれないけど、草太はどうかな?みたいな。今回の作品って、性的なものがすごく抑圧されてるじゃないですか。

藤田 確かに、今までの作品と比較して抑制的ですね。パンチラ的なものも全然ないですし。しかし、やっぱり微妙にフェチ的シーンが隠喩的に出て来る。新海特有の性に対する隠喩的な描き方は『言の葉の庭』からかなり強力に出てくるようになった。あの作品では足を触ったり挟むシーンで、要するにセックスシーンの代理だとご本人は話しています。後ろにセキレイという鳥が飛んでいるんですけど、『日本書記』のなかで出てくるセキレイは性交・セックスを教える鳥として描かれてるんです。『古事記』では男女のセックスによって国土が生まれ、神がどんどん増えていくという話があって、神話と性を結び付けて何かが生まれる力が描かれてる。新海さんもその点はおそらく隠喩として裏に仕込んでいて『君の名は。』もおっぱい揉んだりしまくっているし、『天気の子』ではラブホテルに泊まるわけですからね。今回は、椅子に座ったり乗るシーンがそれに当てはまるのかなと。

土居 それはたしかに、言われたらまんまですね。

藤田 しかも女性が積極的で、騎乗位でしょう(笑)。今までの新海作品と男女の役割が逆(巫女的存在、本を読む少女の役割が、今回は草太になっている)なわけで、フェミニズム的な印象も受けます。『新海誠本』によれば、椅子との恋愛をもっと表に出したタイトル案『恋に座る』もあったらしいと。このタイトルにならなくて良かったですよね。小説を読んでいるときはそのあたり全然意識しなかったんですけど、映像で見たときに、その印象が強くなっていたなと。これは僕の与太話ですね(笑)。

新海作品のグローバル化の可能性

土居 ここまでのお話をまとめてみると、今回の作品で新海誠がすばらしいのは、過去から引きずられずに未来に目を向けようっていう話をしながらも、藤田さんの本の中で集合や折衷っていうふうに言われてるような、過去・歴史・ルーツといった昔のものを今の中にどういうように組み込んでいくかっていうようなことをやっている点であると。僕の本で書いている「棒人間性」(誰もが代入可能な人物造形)を通して今作をみてみると、鈴芽は本当に震災孤児で、別に特別な人ではない。震災で生き残った人は誰もが「常世へと繋がるドア」は絶対持ち合わせている、というふうに解釈できるキャラクターであり、自分ごととしても代入することができる。

藤田 そうですね。

土居 とても驚いたんですが、『すずめの戸締まり』とコラボしたマクドナルドのCM、みましたか?小さい頃の鈴芽とお母さんがビックマックを頼んで食べる、というものなのですが、『すずめの戸締まり』を観たあとだと結構ぎょっとさせられます。本作を見ていなければ、「普通のどこにでもいるマクドナルドを利用する一般的な親子」として見れるんだけど、本作を見たあとになると、「震災前に一緒に過ごしていたけど、いまでは死別してしまった親子」というふうに変わる。それはまさに今回の『すずめの戸締まり』の一番最後で、震災以来ずっと燃え続けている常世に耳を傾けて、つまり過去に耳を傾けることによって、そこで暮らしてきた人たちの日常的な風景を発見して、「場所を悼む」ことで鍵を閉めることにも繋がっている。棒人間的(=共感しやすく誰でも当てはまりそうな)な鈴芽が、それを通過することで「自分の手で自分の価値を見つけることができた」という物語になっている。

藤田 新海誠が自分でよく言っているのは、震災の後から、物を見る目や東京を見る目が変わったといいますよね。つまり、すべて未来に滅びることを約束されていて、滅んだあとの目線から現代を見るようになった。『すずめの戸締まり』もそういうことを意図してて、映画を通じて非日常の破滅を見せて、そこから現実に戻ってくるということを観客に経験させている、つまり行って戻ってくる物語になっている。川端康成が、死から現実を観返す「末期の眼」によって世界が美として現れるということを語っているけど、新海監督の視線も、未来にある巨大な災厄による破壊の観点から日常や現在を観返す。だから、それは美として立ち上がる。そして、その視線が、同時に、可傷的な存在としての私たちが、ケア的な連帯を出来るような共同性の回路を開いている。マクドナルドのCMは、まさにその機能を最大限生かしてるわけですよね。

土居 今回の『すずめの戸締まり』の背景描写は、僕の感覚からすると、ただ単に視覚的に光がきれいに描かれているんじゃなくて、しっかりと存在している大地について描いていると思ったんです。それが今作の日本らしさにもつながってくるなと。新海誠の作品は非常にアジア的な部分があって、たとえばキャラクターのことでいえば、アメリカやヨーロッパだと主人公としてみんなが納得できるキャラ性というものがないと、話にならないわけなんですよ。棒人間的な、アノニマスなキャラクターは受け入れられ難い。そんななかで『秒速5センチメートル』にすごく影響を受けた作品がアジアを中心に広がっているのを感じていて、この無人称性的な表現は、アジア圏にはしっかりと通じる感性なんだなと。

藤田 キャラクターが棒人間的であるからこそ、皆が自分を代入できる構造になっている、というのが土居さんのご意見ですが、それは物語もそうかもしれません。新海監督は、『星を追う子ども』以降は、大塚英志の影響を受けて、神話的な構造を用いた作劇を導入していますが、そこで、神話の構造は世界中で共通している、というようなことを言っているんですよね。「物語構造」は、色々な人が色々なものを代入可能な「棒人間的」なものなんですよ。だから寓意も多重に読み込めるわけですが。『秒速』に共感するアジアの人たちが増えているというのも、面白いですね。岩井俊二監督もアジアでかなり知られていて、ああいう美学で自分たちを描くことによって、アジア人たちがアイデンティティなり、自分たちのセルフイメージなりを作り換えていくプロセスが進行してるのでしょうね。

土居 新海誠が次に何を作るかっていうときに、アジアはあり得るのかなと思うんです。新海誠さんは今までに日本人以外の人物は出てないのかな。中心にいるのはいつも日本人なんですけど、新海誠の方法論でそういった人種の違う人を描いたときどうなるんだろうかっていうのが気になりますよね。

藤田 今後の新海さんが多分描かなきゃいけないのは、いま日本がハイブリッド化していることと、その先の未来じゃないかと思います。少子高齢化になっていくなかで移民がたくさん入ってきていて、「純粋な日本」「日本人の血のみで日本という国家が維持できる」とは思えない状態になる。ほかの国の民族のDNAもしくは文化が入り混じりながら、日本もそういうふうに変動していくことを、新海誠がどのように肯定していくのか。そのときに多分、「昔の日本はよかった」「純粋な日本に戻りたい」という心境も絶対出てくる。新海誠はそれでも、それを肯定できるのか。神話や民俗学のモチーフは、そのときどうなってしまうのだろうか。

土居 同時にそれは多分、日本人がどう移民などに対して振る舞うか?という話になりますよね。新海誠は、自分自身の作品が商売として成り立ってるという意識はすごい強い。「自分自身が何を語るか」と同じくらい「みんなが何を見たいのか?」という部分を判断する人だというふうに思います。そしてそれは、新海誠の決断であると同時に、私たちが何を望んでいるかっていうようなことも多分見えてくる。新海誠が「これを描くんだ」と強く押し出してるところが今作にもあったので、それに対して観客がどう反応するのか。その観客の反応に対して新海誠がさらにどういうアンサーしていくのか…つまり描かれてるのは、観客のほうでもある。それも新海誠の面白さなのかなと思います。

(構成:草野虹)

関連書籍

新海誠 国民的アニメ作家の誕生

プロフィール

土居伸彰×藤田直哉

土居伸彰(どい のぶあき)
アニメーション研究・評論、株式会社ニューディアー代表、ひろしまアニメーションシーズン プロデューサー。1981年東京生まれ。非商業・インディペンデント作家の研究を行うかたわら、作品の配給・製作、上映イベントなどを通じて、世界のアニメーション作品を紹介する活動に関わる。著書に『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社)、『私たちにはわかってる。アニメーションが世界で最も重要だって』(青土社)、『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』(集英社新書)。

藤田直哉(ふじた なおや)
批評家。日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』(作品社)、
『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出新書)、『百田尚樹をぜんぶ読む』(杉田俊介との共著、集英社新書)ほか。

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『すずめの戸締まり』に隠されたメッセージと新海作品の可能性