私たちの行動は日々、人権によって守られている――そう言われても、ピンとくる人は少ないだろう。しかし、国際人権の基準を日常生活や社会問題に照らし合わせると、それが途端に見えてくる。エセックス大学人権センターフェローであり、国連の人権機関を使って世界に日本の問題を知らせる活動をしている藤田早苗氏は著書『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』でそのことを明らかにした。
本記事では、法学者として人権、ジェンダー法を専門にしながら、幅広いメディアで活躍する谷口真由美氏と藤田氏が対談。日本における「人権」のイメージの問題から、国際人権という概念を広めていくための取り組みについてまで、語り合う。
人権の本なのになぜ「武器」という言葉を使ったの?
谷口 20年ほど前になりますが、早苗さんがまだエセックス大学の学生だったころ、部屋に泊めさせてもらったことがありました。
藤田 エセックスの私の同級生が、偶然、真由美さんの友達だったんですよね。私が1か月国連でのインターンで大学寮の部屋を空けるときときがあったので、部屋をお貸ししました。
谷口 その時からの仲の早苗さんに、今日は最初にどうしても聞きたいことがあります。なぜ、タイトルに「武器」という言葉を使ったのか、ということです。
経営やビジネスに、「戦術」とか「戦略」とか、もともと軍事用語だった言葉をすごく使いますよね。とくにMBAを取った人とか、コンサルの人とかが使うんですが、私はこれらを「おっさんマネジメント用語」って呼んで(笑)、できるだけ使わないようにしています。というのは、武器をなくすために、平和のために、私たちは国際人権の文脈を使っているからです。そういう意味でこの本は、中身とタイトルが矛盾しているように感じたんですね。
ただ、人権は闘争です。人権を獲得するためには、闘争のための武器をもっていないと、丸腰では戦えないというのは事実です。だから、そういう文脈で「武器」なのかなあとか、でもこれ、「道具」とか「ツール」ではあかんかったのかなぁとか……、いろいろ考えました。
藤田 タイトルについては、こうなりましたと出版社から連絡がきて、私には何も言う権限がなかったんです。正直言って、私もびっくりしました。真由美さんが言うように、道具やツールではあかんのかなと思ったんですが、ああ、そうですか、と受け入れるよりほかなくて。初めて書いた一般書で、本が出来上がっていく段取りがまったくわかっていなかったということもあります。
谷口 「武器」がわかりやすい言葉であることは、わかるんです。10年くらい前から「武器」の付いたタイトルの本が売れるようになって、出版社が使いたいと考えるのもわかるんです。一方で、人権を専門にしている人間からは私のような疑問が出てくると思うので、今日、ここでお話ししておきたいなと。
藤田 恩師のポール・ハント先生に伝えたら、「weaponは、早苗が望んでいたタイトルではなかっただろう」と言われました。ヒューマンライツの人間はみんなそう感じますよね。ただ彼は、「国際人権の文脈で軽視されがちな『貧困』がサブタイトルに入っているのは素晴らしい」と言ってくれましたが。
私は日本を離れて20年で、日本人の感覚がわからないので、エセックスに留学している30代後半の弁護士さんに聞いてみたんですよ。そうしたら、いま真由美さんが言ったように、京大の先生の本(註:瀧本哲史 氏『武器としての決断思考』『武器としての交渉思考』<星海社新書>)が売れてからトレンドになっているから、違和感はないと。だったらそんなに心配しなくていいかなと自分を納得させました。
私の希望としては、「クリティカル・フレンド(批判もする友達)」という言葉を使いたかったんですよ。『クリティカル・フレンドとしての国際人権』とかね。本にも書きましたが、この言葉を流行らせたかったので。
谷口 わかります。この本には、人権について警告を発する国連の特別報告者は、各国にとってのクリティカル・フレンドであり、真摯に対応すべきだということが書かれています。つまり、言いにくいことを言う友達のことですよね。今日、この出版記念の場に呼んでいただいて、「この本にこのタイトルつけたの、何で?」と聞く私も、早苗さんにとってクリティカル・フレンドやと思います。
藤田 本当にそうですね。ありがたいです。
「人権って、偽善じゃないですか?」という学生の問い
谷口 内容について言えば、大学の国際人権法の授業でそのまま使えそうな本だと思いました。ようこれだけ、書きはったなぁと。
藤田 これでもずいぶん削ったんですよ。あまり分厚くなるのもよくないということで。
谷口 本の冒頭に、日本では人権が「思いやり」と同一視されている、という指摘が出てきます。まさにその通りだと思うのですが、日本には人権を誤解しているどころか、積極的に否定してくる人さえいます。
先日、ホテルのレストランで、昼食を食べながら出版社の編集者と打ち合わせをしていたんですよ。今、私が作っている人権の本の構成について話していたら、隣に座っていた60代くらいのご夫婦の男性が突然怒鳴ってきたんです。「こんな場所で人権の話なんかするな!」って。びっくりしたら、お連れ合いのほうも、「ごめんなさいね。でも美味しく食事をいただいているときに、そんな話を聞きたくないんです」って。
藤田 ええー。
谷口 「私たち、仕事の話をしているんですよ」と、冷静に対応しましたが埒があかないので、お店の方にお願いして個室に移りました。はあ? という感じですが、これが日本の一般的な現在地なのかなとも思ったんです。これ、ロンドンとかニューヨークのレストランだったら。
藤田 あり得へんと思うな。
谷口 大学で教えていても、「先生、人権って、偽善じゃないですか?」って学生に言われることがあるんです。道徳とか思いやりとは別に、すべての人に人権があるということが理解されていない。自分が好きとか嫌いとか関係なく、何の条件もなく、すべての人に人権があるということが教えられていないんですね。私は「おっさん」(注:ここでいう「おっさん」は『おっさんの掟―「大阪のおばちゃん」が見た日本ラグビー協会「失敗の本質」―』<小学館新書>参照)が嫌いやけど、おっさんだからといって人権侵害はしませんからね。当然やけど。
藤田 人権と思いやりがごっちゃになっている点が、日本で人権を語るときのいちばんのネックだと私も感じています。帰国のタイミングで、大学を行脚して講義をしているんですが、その点をじっくり説明すると、学生は口をそろえて「知らなかった」と言います。道徳と人権の大きな違いは、道徳は場所や文化、時代によって変わる相対的なものですよね。対して人権は、すべての人間が生まれながらにもっているもので、さらに思いやりと違って、政府が実現する義務を負っているものです。でも、入管施設で起きていること一つをとっても、人権の概念が日本に全然浸透していないことがわかって愕然としますよね。
谷口 日本人は、「かわいそうな人」には、その時だけは何とかしてあげようと思うんですよ。ウクライナ戦争でも、東北の震災のときも、多くの支援が集まりました。でも、震災から数カ月たって、欲しいものを聞かれた被災者の女の子が、「まつエク」と答えたら炎上したらしいんです。被災者のくせに贅沢だって。被災者にも表現の自由があるし、美を求める権利があるのに、弱い立場におかれている人が、自分の権利を主張することに対しては、日本では批判が出るんですよね。この本に書かれている伊是名夏子さんの例(※1)も、背景には同じ構造があると思います。
日本人の「思いやり」って、上から目線の「施し」とか「お恵み」になりがちなんですよね。みんな「お情け」は大好きで、だから「深イイ話」は大好き。なんだけど、人権の話はいつまでたっても出てこないんです。
※1 2021年、車いすを利用するコラムニスト伊是名夏子さんが、無人駅を利用しようとして事実上の乗車拒否をされたことをSNS上で公表したところ、「わがまま」との批判が殺到した
藤田 わかります。いま、権利の主張の話が出ましたが、人権には闘争的な側面があります。たとえば人権が侵害されている場合は、権力と闘って獲得していくという側面があるんですが、これを日本人は嫌がるんです。だから日本では人権が嫌がられるんだと思います。
日本の道徳教育は、人との調和とか、人に迷惑をかけないことを強調するじゃないですか。そういう教育を受けているから、権利を主張することがネガティブに捉えられがちになる。人権を主張するやつは迷惑をかけている、トラブルメーカーみたいな感じになってしまうんでしょうね。私にも「権利ばっかり振りかざすな」というコメントが来たことがあって、そういうふうに感じるんや……、と驚きました。
谷口 そんなふうにしているうちに、日本は人権後進国になってしまったんです。
外国では人権をどのように学んでいるか
藤田 イギリスはじめ欧米では、私がヒューマンライツを専門にしているというと、その人の職業にかかわらず、大事なことですね、と言われるんですよ。ヒューマンライツってすべての根底にあるものだから。でも、日本にはその感覚がないんですよね。むしろ、胡散臭いやつ、みたいに思われることが多くて。
谷口 そう。日本ではヤバいやつになる(笑)。でも海外では逆で、以前、財務事務次官のセクハラ問題(2018年)が起きたとき、私は日本外国特派員協会で会見をしたんですよ。そこで、日本に必要なのは道徳教育ではなく人権教育だと発言したら、その発言が、海外メディアですごく取り上げられました。何で日本にはこんなに人権がないのか、外国メディアはわからなかったと思うんですが、そうか、道徳とごっちゃにされて教えられるから、こういうことになっているんだなと、文脈がつながったんです。
藤田 私はいろんな国の友達に、どうやってヒューマンライツを学んできたのか、よく聞くようにしています。たとえばカナダの友人は、自分に直接関係なくても、「どういう社会を望むか」という視点でものを見たり判断するように教えられてきたというんですね。たとえばバス代が上がることに対して、裕福な人もデモをするんですって。バスしか使えない人たちが困るじゃないかと。そういう価値観が根付いているんですね。
谷口 娘は、いまカナダに留学しているんですが、高校に社会正義の授業があると言っていました。対して日本はすぐに「自己責任」と言いますからね。日本の自己責任って、「施し」や「お恵み」と表裏一体だと思います。
藤田 やっぱり教育は大きいですよね。
谷口 それから最近では、「ビジネスと人権」という文脈が出てきましたよね。この本にも、国連人権機関が新たな問題として最近取り組んでいると書かれています。CSR(企業の社会的責任)とか、SDGs(持続可能な開発目標)などの観点から、企業も人権に配慮しなければいけないと考えられるようになったのは良いことですが、日本では儲かるか、儲からないか、の議論になりがちです。投資の対象から外れないために、人権をやります、みたいな。
藤田 そうそう。そうではなくて、持続可能な発展には人権の保障が不可欠なんですけど。
谷口 そうなんです。というのを、この本を読んで知ってもらいたいですね。ビジネスと人権のほか、ジェンダー、情報・表現の自由、入管施設で起きている問題など、これだけの情報がわかりやすくまとまっていて定価1000円は、だいぶお得やと思います。
藤田 「コスパええですよ」と宣伝してください(笑)。
谷口 私ら関西人には、お得っていうのが一番の売り言葉やからね。
研究は目的ではなく手段 「アカデミック・アクティビスト」であるために
藤田 私は文章を書くのがそれほど得意な人間ではないのですが、今回、初めてこういう一般書を書いたのは、書かざるを得ないと感じたからです。国際人権の専門書ってものすごくたくさん出ていますよね。専門家もたくさんいるのに、普通の人は「国際人権」という言葉さえ、ほとんど知らない。ましてや人権に関する条約や政府の責任、国連の特別報告者とか、個人通報制度のことなどが全然知られていないのは問題だし、残念だと思ったんです。
でも実際に始めたら、論文を書くよりよっぽど難しかった。専門書でも教科書でもないと肝に銘じながら書いても、どうしてもまどろっこしくなってしまうので、編集者にたくさん赤を入れてもらって。真由美さんはこういう一般書をたくさん出されたり、メディアでも活動されていて、あらためてすごいなと思ったんです。
谷口 でも私、メディアに出てるとめちゃくちゃ内輪の人からも悪口言われてますよ。あんなのが国際人権法学者を名乗るなんて、アカデミアを冒瀆しているだの、むちゃくちゃ言われます。だけど、私はいま、自分のことをトランスレーター(翻訳家)だと思っているんですね。いま、最先端の精緻な理論を構築する仕事はできているかといえば、できていないけれど、その代わり、そういう仕事をされている学者の理論や情報を一般の人にかみ砕いて伝えることはできる。
トランスレーターの仕事をする人間がいないと、つまり、研究している人間すべてがアカデミアのなかに閉じこもっていると、いつまでたっても「国際人権法」が日本では知られないんです。だからテレビに出るときは、あえて、「専門は国際人権法」と、プロフィールに入れてもらうようにしています。
藤田 アカデミズムには「学会に就職する」という考えもあるようですが、業績のために、ごく一部の人しか読まない学会誌に載せることばかり重視するなら、何のための研究なのか、と思いますよね。そういう思いから、私はこの本で「アカデミック・アクティビスト」という言葉を紹介しました。社会に影響を与えることを主眼とした研究者のことで、私の恩師のポール・ハント先生がまさに、アカデミック・アクティビストです。
ハント先生は素晴らしいプロフェッサーですが、その地位と知識を、社会の問題を解決するために使っている。研究は手段であって目的ではないんです。私にとっても、エセックスでPhDを取ったことは目的じゃなかった。社会を少しでも良く変えていきたいという目的があって、そのためには、ペーペーの人間が何かを言っても聞いてもらえないから肩書は必要だし、理論的な話をするためにも研究は必要なんですが、あくまでも、手段なんですよね。
対して、研究や肩書が目的になっている人もいるんです。そういう人は、少しでもアカデミアの外に出た学者を見下すところがあるので、厄介やなって思います。
谷口 私はもう、アカデミックの人たちの間で軽く見られてもいいやと思っています。私の講演会には、市民の方がほんとうにたくさん来てくださるんですよ。何十人、何百人、ときに何千人の前で話をして、ひどい女性差別に苦しんでいる人の力に、少しでもなれたり、「個人通報制度」っていうのがあるんですよって伝えたりできるのは価値のあることやと思っていますから。
ただ私、早苗さんのこの本は、アカデミズムでも評価されると思います。
藤田 何で?
谷口 内容的にも評価されるだろうし、それに、参考文献も付いているから。
藤田 つけておいてよかった(笑)。
谷口 この本には、早苗さんがジュネーブでロビー活動をされるとき、節約のために、自分でブロッコリーを茹でて持って行くというエピソードが出てきますよね。国連人権機関などの活動のために資金を集めるのって、めちゃくちゃ大変なんですよね。早苗さんはさらりと書かれていますが、私のような界隈の人間はどのくらい大変か、よくわかります。だからこそ、サポートする仕組みがもっと必要やと思いました。
藤田 ブロッコリーを茹でて持って行くのはいいんですよ。ただ、もう足を洗おうかな、と思うことはあります。活動資金はいつも本当にぎりぎりで、これでは続けるのは無理やな、と思うこともあるんですけど、でもそうしたら、誰がやってくれるんだろう? と。資金が必要だからといって、カンパしてくださいと私たちが頭を下げ続けるのも違うんじゃないかと、あるときから思うようにもなりました。協力して一緒に国際人権をやりませんか、と言いたいですね。
ただ小さな希望は感じていて、いま大学を回って講義していると、寝てる学生はほとんどいないし、1%くらいは、講義のあとに残って、「もっと詳しく知りたい」と、私の話を聞きに来てくれます。私が提供できるのは小さなきっかけかもしれませんが、点が線になり、線が面になって、いずれ立体にと、つながっていけたらいいなと思って少しずつやっているところです。この本も、そういう取り組みの一つですね。
谷口 特定秘密保護法案の危険性を国連に通報した早苗さんのような人が頑張ってくれているから、いまの人権がなんとかあるんですよね。日本国憲法にも、基本的人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、「過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利」とあります(97条)。日本国憲法のすごいなぁと思うところなのですが、日本だけでなく、世界中での人権獲得の歴史の上にいまの人権があるということが書かれているわけで、私たちはそれを次世代に受け継いでいかなければいけないし、より良くして受け継いでいかないとだめだと思っています。
そのためには、早苗さんのような活動する専門家が必要。だから、早苗さんの活動を支えるためにもこの本を買っていただきたいし、支援も呼びかけていきましょう。重版したら、支援先をオビに入れてもいいんちゃう?
藤田 そうしようかな(笑)。今日はありがとうございました。
(取材・構成:砂田明子 撮影:内藤サトル)
プロフィール
藤田早苗(ふじた さなえ)
法学博士(国際人権法)。エセックス大学人権センターフェロー。同大学で国際人権法学修士号、法学博士号取得。名古屋大学大学院国際開発研究科修了。大阪府出身、英国在住。写真家。特定秘密保護法案(2013年)、共謀罪法案(2017年)を英訳して国連に通報し、その危険性を周知。2016年の国連特別報告者(表現の自由)日本調査実現に尽力。著書に“The World Bank, Asian Development Bank and Human Rights“ (Edward Elgar publishing,2013)。
谷口真由美(たにぐち まゆみ)
1975年大阪府生まれ。法学者。大阪国際大学准教授を経て、大阪芸術大学客員准教授。専門は国際人権法、ジェンダー法など。かつて大阪大学で非常勤講師として日本国憲法を教え、ベストティーチャー賞ともいえる大阪大学共通教育賞を4度受賞。テレビ・ラジオのコメンテーター、新聞・機関誌のコラム執筆、講演などで幅広く活躍。
著書に『日本国憲法 大阪おばちゃん語訳』(文春文庫)、『憲法って、どこにあるの?みんなの疑問から学ぶ日本国憲法』(集英社)、『おっさんの掟 「大阪のおばちゃん」が見た日本ラグビー協会「失敗の本質」』(小学館新書)など多数。