著者インタビュー

第4回 抑止・専守防衛・国防の本質が本格的に問われている

『非戦の安全保障論 ウクライナ戦争以後の日本の戦略』刊行記念講演 全4回
柳澤協二

 9月に刊行された『非戦の安全保障論 ウクライナ戦争以後の日本の戦略』(集英社新書)の刊行を記念して、編者である「自衛隊を活かす会」主催の講演会を開催しました(2022年10月14日、衆議院第二議員会館)。講演ではウクライナ戦争を考える上で多くの知見が示されましたので、ここに講演での著者4人の冒頭発言をお一人ずつ紹介します。第四回目は柳澤協二氏。

キーウ(キエフ)郊外のロシア軍によるウクライナ市民虐殺現場を視察するゼレンスキー大統領。提供:Ukrainian Presidential Press Service/ロイター/アフロ

 私は大きく3つのことを言いたいと思っています。本(『非戦の安全保障論』)にも表れていると思いますが。いま3人の話(第1~3回)をお聞きいただいたように、今回の本は、みんな勝手なことをばらばらな視点から言っている。ただ読んでみると、それが結構面白いなという気がしています。

 私が申し上げたいのは、特にこのウクライナ戦争が始まって、そしてその後、ナンシー・ペロシの台湾訪問を契機にして、中国のミサイル演習のようなことがあり、そしてまた北朝鮮がミサイルをどんどん撃っているという中で、また昨日(10月13日)、国会の連合審査会があって、衆議院で敵基地攻撃能力の議論があったようですが、どうもそんなふうに議論が引っ張られていっちゃうと、これは何かすごくおかしい。すごく肝腎なことを忘れているなという思いがあって、そういう観点から三点、主に申し上げようと思います。


大国に頼る抑止の不確かさ

 一つは今度の戦争をなぜ止められなかったかという問題をめぐってです。直接には、バイデンが昨年の暮れから、ウクライナは同盟国じゃないから軍事介入しないということを言ってきているわけですね。それではロシアも比較的気楽に手を出せるようになってしまう。つまり軍事的な水際の抑止が働かなかったということが主な原因だと言われています。それはそうだと私も思うんだけれど、しかし、なぜアメリカはそういうことを公にしたかといえば、これは三月に議会でいろいろ米政府の高官が証言していますけど、仮にアメリカがロシアと直接軍事的に衝突すれば世界戦争になってしまって、もっと迷惑かけるじゃないかということになっている。

 実は今までもそうだったんだけれど、改めて大国に頼る抑止の不確かさというのか、私はものすごくそこにショックを受けたんです。つまり、どんな超大国が攻めてきたとしても、やがてアメリカが出てきてくれるから、そういうことを見越して超大国が攻め込んでくることも抑止されるという前提で日本の防衛は成り立ってきたんです。だけれど、アメリカのバイデン政権が言うように、ロシアという超大国とアメリカが直接、軍事衝突すれば世界戦争になっちゃう、それは避けなきゃいけないという論理が働くとすれば、それは今、目の前にある中国が台湾侵攻したときに、アメリカが助けに行ったら、それは米中の戦争になるわけですね。

 ロシアと戦って世界戦争になる、中国と戦っても世界戦争になるわけですね。ここで結局我々が今突きつけられているのは、大国による中小国への侵略――厳密な意味では、中国が台湾に来ることを侵略と呼ぶかどうかは別として――それを止めようとする、大国の力に頼ってそれを止めようとする、抑止しようとするならば、世界戦争になることを覚悟しなければいけないということです。

 これはどっちがいいんですかといっても、どっちも選択できない答えです。大国に攻められても困るし、しかし、それを止めるためといって世界戦争になっても困るしということです。こういう状況に今我々が置かれていることが改めて分かったということだろうと思います。

 私も防衛官僚としてずっと、アメリカの核の傘までつながっていく抑止の段階があり、エスカレーションラダー(はしご)がつながっているがゆえに日本の防衛が成り立っていると思ってきました。しかし、実はそれは世界戦争になることを覚悟するということだったわけです。

 アメリカとソ連の間には、冷戦時代には、お互いにそうしちゃいけないよねという暗黙の合意が実はあったわけです。核戦争をしないという文書も第4次中東戦争の後に交わされています。そういう言わば安定的な大国同士の抑止関係があったことを当たり前のように我々は考えて、だからアメリカとつながっていれば安全だよねと考えていた。今、本当にそれが成り立っているんだろうか。

 ロシアが核を使うのかどうかということが話題になって、そんな簡単には使わないだろうと思うが、しかし使ったときに、それなりの、それはもう最も深刻な対応を取らざるを得ないと、アメリカもNATOも言っているわけですね。では、その対応とは何なのだろうか。核で反撃するのか。核でなくても核と同じような破壊力を持った通常兵器を使っていくのか。いずれにしても、そこは世界戦争の引き金になっていくわけで、それが抑止というものの実は必然的な論理の結末になってくる。

 だとすると、そうでない、もう一つのやり方を考えなければいけないんだろうと思います。そこで私が改めて申し上げているのは、抑止というデタランスだけではなくて、リアシュアランス、安心供与という、つまり相手が戦争に訴えても守りたいという国益を、こちらが何らかのかたちで保証してやるという、そういう相互の共通認識があれば、相手は何も武力行使をする動機を持たなくてもいいわけです。そういう対話が両方必要であるにもかかわらず、どうも軍事的抑止だけにみんな目が行って、政策議論もなされている。

 だってそんなことを言っても、常軌を逸した独裁者は抑止できないから、どんどん強くならなきゃいけないんだというのも一つの理屈です。しかし、今プーチンが言っているように、核で脅しながらも、アメリカとロシアの間には対話のチャネルは続いています。アメリカと中国との間にも、今はちょっとペロシ応対で途切れているけれど、また中国の党大会が終わったら、今度はバイデンと習近平の直接の対話に向けた段取りが進んでいくだろうと思うんです。

 もちろんそこで、お互いに握手はしないんです。お互いに握手はしないがコミュニケーションは取っているという。ここが実は、さっき(第1回)林さんが言われた三十年戦争の後のウェストファリア会議のようなケースで、あれは本当にみんながもう戦争をやめようねという意識があって、そしてお互いに公開の場で握手をする。テーブルの上で握手をしながら、実はこん棒を持つような外交のスタイルという、近代的な外交のスタイルができてきたんだけど、今はそれがネットで流れたりテレビ中継されたりする時代になって、政治家はどうしても公開の場で妥協できない状況になってきている。

 だから以前はそういう、要はにこにこしつつ、こん棒を持ちながら片手で握手するのが外交であったのに、今は口汚く罵り合いながら、実は水面下でお互いの接点を探るという、そういう非常に難しい外交をしなければいけない時代になっている。そういうときに、いろんな国内の圧力があったり、それから強硬派の意見のほうが通りやすい状態ですから、本当にいざというときに危機管理ができるのかどうかということが心配なわけです。

 ペロシが台湾を訪問したときも、習近平がバイデンに対して何とか止めてくれということを言った。そして、アメリカ政府の中でも、ペロシ台湾訪問にあまり賛成する意見はなくて、だから軍隊は中国を刺激しないように、かなり遠いところに空母を出していたわけですね。その結果、そのエアカバーの中で移動するという意味で、ペロシが台湾に入るルートというのはすごく遠回りになっていったわけですね。

 そうやって軍隊が自制しているから何とか衝突が避けられている。一方で、政治家が水面下で打開策を見いだすんじゃなくて、大衆受けするような、ネットに受けるような強硬な外交をやって、自分の政治的プレゼンスのために事を荒立てるような、そんな状況が続いているところに、本当に今の問題が、難しさがあるんだろうと思います。

 ただいずれにしても、本気で力ずくでやろうとしたら世界戦争になっちゃうよねという、この厳粛な見通しから逃れることができないわけです。だとしたら何とか、もっと熟達した外交と危機管理をやって、危機そのものを防いでいくことをしなければいけないだろうということです。


国民が命を捨てても国を守る、国家を守るというのが、国防の本質

 二点目は、ウクライナの戦い方は、さっき林さんも専守防衛という言い方をされましたが、本当にミサイル攻撃をここ数日受けても、ロシアのミサイル基地を攻撃するなんていうことは一言も言わないわけです。そういう武器も持っていないわけです。それは、そんなことをしたらまさに戦争拡大の引き金になるということを理解しているからだと思うんですが、どうも日本ではその辺が理解されていない。

 ゼレンスキー大統領が成人男性の出国を禁止して、国を守れということを言っているわけです。これは何かというと、よく日本の政治家は、国民の命を守るためにこういう防衛政策が必要ですということを言います。しかし、防衛というもの、あるいは国防というものは、国民の命を守ってあげるんじゃなくて、国民が命を捨てても国を守る、国家を守るというものです。それが国防の本質だということをウクライナの戦い方から我々は見ることができると思うんです。

 今のミサイルの時代、キーウにもまたミサイルが飛んできましたけれども、結局あれが示しているウクライナ戦争のもう一つの教訓というのは、ミサイルから安全な場所はないんだよねということです。だとすれば、そういう防衛力を増強して抑止を高めようという政策を取るのであれば、少なくともそれはミサイルの撃ち合いの戦争になるわけです。日本に中国の戦車がいきなり海を渡って攻めてくることはないので。ミサイルの撃ち合いになることを前提とした上で、そのミサイルが軍事施設に当たり損ねて近所の村落に落ちたらどうするんだということは当然考えなきゃいけないわけです。

 ところが、そういう戦争は被害想定をしないとできないはずなのに、被害のことは全く考えていない。敵基地攻撃をすれば抑止力になり、対処力になるというだけの話になっている。敵基地といっても、中国沿岸部にある幾つかのミサイルを潰すことはできると思います。だけど全部じゃないわけですね。残ったミサイルが飛んでくるんです。こちらが行うのは本土攻撃ですから、向こうも本土攻撃を盛んに拡大していく口実ができるわけです。そこまで見据えてやらないと、防衛政策は成り立たないだろうということをウクライナの事態は示してきている。

 そして、国民にそういう犠牲を求めるのであれば、台湾防衛のためにどんな犠牲を負ってくださいと政府がいうのかが問われます。また、何のために国民は命をかけることができるのかということを国民自身が問うていかなければいけない。そういうことをウクライナの戦争は我々に示しているんじゃないかということです。


戦争回避を最後まで諦めない

 国民の皆さんの生命と財産を守るという言葉が私は嫌いで、昔から本当に背筋がむずがゆくなるぐらい嫌いです。それは違うだろう。国民に犠牲を強いるのが国防なので、その犠牲を強いるに値する国家社会をつくるのが政治家の仕事だろうということです。その大事なポイントを外すから、やれ敵基地攻撃すればどれぐらい効果があるかとか、そういう本当に戦術的な瑣末な議論しかできないんです。私は日本の防衛の一番の弱点はそこにあるんだろうと思っています。

 日本は島国で逃げ隠れする場所もない。中国がやった台湾周辺を封鎖するようなミサイル演習がありましたが、あんなことがひと月も続いたら経済破綻します。日本なんか特に食料自給率も三〇パーセント台、エネルギー自給はもうほとんど10パーセント程度ですよね。島国で逃げ場がない。そして少子高齢化が進んで若い人がどんどん減っている。おまけに、国民がみんな自分のことしか考えていない。そういう内向きの国民、現状志向の国民しかいない。こんな国が戦争という答えを出せるわけがないにもかかわらず、防衛力を倍増する、防衛費を倍増するとか、力を持てば何とかなるんだと勘違いしている。こんなことをしていると、いざという本当の危機が訪れたときに、柔軟な発想ができなくなってくるんです。

 ロシアだって、結果的にずさんだけど、かなり周到な軍隊の配備とか戦争計画を持っていて、タイムスケジュールどおり進めていったけれどうまくいかなかった。ロシアは、大国にありがちですが、戦争を楽観するわけです。あんな国はひとひねりでやっつけられる、戦争は簡単だと思ってしまう。今やらないとじり貧になると、将来を悲観する。戦争を楽観して将来を悲観する。これが、大国が戦争を選択する心理です。昔の日本もそういうことで真珠湾攻撃をしていったわけです。

 相手に戦争の結末を楽観させないためにこちらも抵抗するという意味での拒否的抑止は、私は必要だと思っています。それから、いざとなればアメリカも黙っていないぞという意味の同盟政策も必要だろうとは思っています。しかし、ただそれだけに依存していては、結局戦争というものは回避することはできない、防げないだろうと思う。

 そして、今やらなきゃいけないと相手に思わせない、将来を悲観させないための安心供与とか、緊張緩和とか、相互信頼につながるところですが、そういう外交をぜひやっていかないといけない。どういう防衛力ならもっといいのかみたいな議論じゃなくて、その戦争回避を最後まで諦めないですという、そこを訴える政党がぜひ出てきてほしいなと私は思っているんです。

 そんなことを考えながら、本の座談会の時点からまた少しずつ状況は動いてきていますが、基本的な私のメッセージはそういうことになるだろうと思っています。ありがとうございました。

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関連書籍

非戦の安全保障論 ウクライナ戦争以後の日本の戦略

プロフィール

柳澤協二

(やなぎさわ きょうじ)

1946年生。元内閣官房副長官補・防衛庁(当時)運用局長。NPO国際地政学研究所理事長。「自衛隊を活かす会」代表。東京大学法学部卒業。歴代内閣の安全保障・危機管理関係の実務を担当。著書に『亡国の集団的自衛権』(集英社新書)他多数。

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