「役に立つ」知識を手っ取り早く身につけ、他者を出し抜き、ビジネスパーソンとしての市場価値を上げたい。そんな欲求を抱えた人たちによって、ビジネス系インフルエンサーによるYouTubeやビジネス書は近年、熱狂的な支持を集めている。
一般企業に勤めながらライターとして活動するレジー氏は、その現象を「ファスト教養」と名づけ、その動向を注視してきた。「ファスト教養」が生まれた背景と日本社会の現状を分析し、それらに代表される新自由主義的な言説にどのように向き合うべきかを論じたのが、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)だ。
今回は本サイトで「21世紀のテクノフォビア」を連載している、ライター・編集者の速水健朗氏とともに、ファスト教養の背景にあるメディアの変化について考える。
「人気」はコントロールできるのか?
速水:ご著書、面白かったです。「学者が新書を出すようになる」みたいな教養のポップ化はさかのぼるとかなり昔からありましたけど、今起きているのはその逆。「インフルエンサーが教養を語るようになった」という変化ですよね。つまり教養にはニーズがあるということだけど、その背景には何があるのかなと。個人的に印象に残ったのは、AKB総選挙についての箇所です。やっぱりあの仕組みによって、地獄の釜のふたが開いた感じがあって。
レジー:ありがとうございます。2004年以降の自己責任論の空気とAKB総選挙をリンクさせながら論じた第5章の議論ですね。
速水:もともとは「人気」って、見た目や才能、技術なんかで決まっていると思われていたものですよね。でもアイドル的なビジネスのなかでは、ファンサービスをしたり、自分自身や時間を差し出したりすることで、つまり「努力」することで人気を蓄積していける側面があった。それを仕組みに落とし込んで数値化したのがAKB総選挙だったのかなと。
レジー:そうですね。加えて、演者の努力だけでなくファンの努力も数字で見えてしまう。「数字を伸ばす」ことの快楽、貢献する快楽にファンが目覚めてしまったわけですよね。今だとYouTubeの再生回数が典型ですが、「その動画がどれだけ再生されたか」という人気指標を、演者もファンも一緒に追いかけている。エンターテインメントに限らずすべての物事が可視化された数字で判断されていくことへの違和感や危機感は、『ファスト教養』の全体に通底している問題意識だと思います。
速水:「インフルエンサー」って文字通り、影響力の数値化を背景に出てきた存在ですよね。これまでの「有名人」は特定の分野の業績によって有名になっていたけど、インフルエンサーはまず先に「人気」という影響力を持っている。これって、本来は曖昧なものだったはずの「人気」が、フォロワー数とかの数字としてパッとわかるようになったからこそ成り立っているわけで。あらためてインフルエンサーって不思議な属性だなと。
レジー:そうですね。そういう存在が現れたことも踏まえつつ、今あらためてAKB総選挙を捉え直す必要があるんじゃないかと僕は思っています。ファンの力を行使することで物事を実際に動かせたりする、というのは今やすっかり当たり前で、むしろ「ファンを動かす」ことこそマーケティングにおける目指すべき状況のような扱いになっていますが、そこにある危うさみたいなものはあまり語られてない気がするので。
速水:落合陽一が最近Twitterやnoteなどに「人気の奴隷にならないように」みたいなことを書いていて面白いなと思ったんですよね。これは、「人気はある程度コントロールできるものである」という発想の裏返しでもありつつ、人気から逃れることの難しさの指摘にもなっている。とても現代っぽい感覚だなと感じました。
レジー:面白いですね。たしかにAKB総選挙が始まった当時と現在とで一番違うのって、人気のコントロールについての考え方かもしれません。TikTokとかはわかりやすいですけど、有名になるために「当てにいく」というよりは、何かのきっかけで偶然機運が高まったときにそれをいかにキャッチして加速させるかが大事になっているような気がしていて。
速水:たしかに仕掛ける側の変化はありそう。渾身のひとつを仕込むというよりはとりあえず20個くらい仕掛けて、そのうち1個がどこかに引っかかったら一気にそれに注力する、みたいな。そのスピード感や動き方は今っぽい感じがしますね。
レジー:まさにそんなイメージです。でもそれって本当に「数撃ちゃ当たる」なので、最初に速水さんがおっしゃったような「努力」みたいなものの重要性が実は高まっていくんじゃないかなと。結果的に、ずっと諦めずに薪をくべ続けられる人がまた強くなっているというか。
「つまらなさ」が嫌われる時代に
速水:人気の論点は教養の話とも絡められそうですね。ざっくり言えば、専門家の語る知識は人気がなくなっていき、その代わりにインフルエンサーの語る「教養」が人気になっている。それに対して『ファスト教養』では「専門性」がある種の処方箋として挙げられていましたけど、僕はむしろ専門家が専門領域に閉じこもっていることも問題だと思っているんですよね。むしろ専門領域を横断できるコメンテーターがいなくなったからこそ、その穴をインフルエンサーが埋めてしまっている。
レジー:なるほど。ただ本来、専門家と視聴者をつなぐコメンテーター的存在は、専門的な知識をある程度理解した上で翻訳できなきゃいけないわけですよね。でも、今のインフルエンサーは専門的な知識ではなく、コミュニケーション能力と声の大きさによってその橋渡しをしてしまっている。この本ではそれを問題化したかったんです。
速水:それでいうと、たとえば本書で例に挙げられていた中田敦彦なんかは、色々理解に問題はありつつも、専門家と一般層の間を埋めるコミュニケーターの役割を担っている存在だと思うんですよ。対して橋下徹は、専門家を「専門バカ」だと切り捨てて自分の意見を通そうとするタイプですよね。結果的に専門家と一般人を分断しているという点でより深刻に思える。橋下徹に比べると、中田敦彦は全然良識的なように感じるんです。
レジー:「専門家を叩きたい」という欲望だったり、教養という言葉に対する過剰反応みたいなものって本当に強いなと思いますね。たしかに橋下徹はそうした受け手側の心理をよく理解したうえで巧みに振る舞っているように見える。
速水:たぶんこの本で取り上げている中田敦彦や橋下徹のような人たちは、「権威」に対する人々の思いを敏感に察知している。僕はそれ自体は必ずしも間違っていないと思うんです。自分が子どもだった80年代を思い返すと、文化人や権威ある人たちがテレビでするような話って本当にくだらなかったんですよ。それに対して、ビートたけしをはじめ芸人たちがカウンターパートとして活躍する流れがあって、自分としてもそちら側に共感してしまう。ただ、今は「権威を崩す側が次の権威になる」というサイクル自体がショー化して、全員悪者みたいな感じになってきている(笑)。
レジー:そうですね、かつての反教養は正統に対するオルタナティブだったと思うんですが、今はオルタナティブだけがある状態で、柱が不在になっている気はします。
速水:小池百合子が「自己責任」というワードを広めた、という指摘が本の中でありましたよね。ああいう自己責任論が当時出てきた理由って、「社会のせいで自分は就職できなかったんだ」っていう安易な社会責任論へのアンチだった側面もあると思うんですよ。橋下徹もまさにエリート主義や左翼的な言説への世間の反感を逆手に取って支持を得ていったわけですけど、それに近いものがある。自分が2000年代のひろゆきやホリエモンのようなネット発のリバタリアンに多少共感してしまうのって、その自己責任論と社会責任論のどちらでもないように見えたからな気もするんですよね。主張はともかく、立ち位置はよくわかるなあと。
レジー:たしかに。自己責任論と社会責任論の中間というのは、今一番必要なところかもしれないですね。立場が極端で明快な方がポジションはとりやすいし、中間を作るっていかにも「つまんない」主張になっちゃいますけど。
速水:それだとインフルエンサーになれない(笑)。
レジー:そうなんですよ。でも僕は、「つまんない」ことをちゃんと言い続けないとだめなんじゃないかと思うんです。それをつまらないからと退けた結果、本来必要なはずの教養の基盤みたいなものが弱まってしまったんじゃないかと。
速水:「中間を取ろう」というのが一番支持されないなかでどう立ち回るか、という出発点にはとても共感します。ただ僕は「面白い」中間を探すことにしか興味が持てないんですよね。飽きっぽいし、すぐテーマも変えたくなるし。同じことをずっと主張し続ける人たちの重要性もわかる一方で、自分は絶対に無理だなという。
レジー:ライターとしては生き残りにも関わりますよね。中間を取るということは、特定のポジションから票を集めるのが難しくなるわけで。
速水:固定票を集めるのも嫌だけど、票取り合戦をやめて専門性に生きるのも性に合わないな、というところで今のスタイルにたどり着いている気はします。毎回取り掛かっているテーマが、食とか、テクノロジーとかショッピングモールとかありながら、時事性と向き合っていろいろ吸収していく。
いかに共通のコンテクストを取り戻すか
レジー:速水さんはその票取り的な部分にどう折り合いをつけているんですか? 話が通じるクラスタを見つけるということなのか、あるいは共通の言語を頑張って作っていくということなのか。
速水:うーん、やっぱり一旦失われているコンテクストを取り戻さないといけないなと思いますね。教養というより「一般教養」なのかもしれませんけど、「このぐらいはみんな知ってるでしょ」っていう共通理解が相当怪しくなっている気がするので。
レジー:たしかに、どこまでを共通の前提として書いていいのかという部分はライターとしてもよく悩みますね。
速水:たとえばちょっと前に『パリピ孔明』ってアニメが流行りましたけど、あれって「あるある」が詰まってるわけですよね。三国志好きが笑うような孔明のイジり方であり、クラブミュージックのハウトゥーであり。なので、そのコンテクストを面白がる感じの作品なのかなって思ってたんです。でも人と『パリピ孔明』の話をすると「天下三分の計」を知らない人が見てたり、クラブ音楽の中でも、パリピ向け、ダサい音楽をいじっているところのニュアンスとかわからないまま楽しんでいる人が多い。それ抜きでも全然楽しめる作品なのか!とびっくりしたんですよね。
レジー:『ファスト教養』でも取り上げた『花束みたいな恋をした』も、散りばめられた固有名詞を全然知らない状態で普通に恋愛物として観ている人は多いみたいですしね。そうじゃないとあそこまでのヒットにはならなかったと思います。
速水:今だとハイコンテクストって、それだけで嫌われる傾向もあるじゃないですか。
レジー:ありますね。さきほどの権威が嫌われる話にも通ずるというか、知識があること自体に対する嫌悪感みたいなのがありそうな。以前、「オタクと推しの違い」について、「愛の深さを知識の量で測るのがオタク/愛の深さで知識の不足が免罪されるのが推し」というツイートをしました。今は後者の共感的なものがとくに強くて、知識はそれに水を差すものとして敬遠されているのかなと。「勉強できるやつよりお笑いできるやつのほうが地頭いい」的な話かもしれません。
速水:それでいうと、朝日新聞に掲載された浅田彰のBTS批評の問題もありますよね。みんな彼の批評性そのものよりも、その膨大な知識を熱量に転換して受け止めている。まあ中身がすかすかな問題もありますけど。「よくわかんないけどこの人とにかくめっちゃBTS好きなんだな」とはうけとめられてます(笑)。あれが今の批評家の正解ってことですよね。
レジー:うーん、なるほど。たしかに「熱量」はひとつ重要なキーワードかもしれない。
速水:『トップガン』の続編問題もある。自分が中学生だった当時は『トップガン』って流行っていたけど、僕らは子どもだから見て夢中になった。大人の映画好きは無視してたり、または馬鹿にする文脈があった。でも時代が経つとその文脈はなく誰彼なく流行ったように思われている。36年経つってそういうことかと思いました。
レジー:今の『トップガン』の話で僕が思い出したのはORANGE RANGEですね。最初のブームの時はいわゆる「音楽ファン」の人たちはどちらかというと彼らをバカにするような態度をとっていたはずなのに、今年フジロックのYouTube配信でORANGE RANGEが出ていると当時彼らをバカにしてたはずの人たちまでSNSで盛り上がっている(笑)。
速水:でもそういう指摘って、ブームに水を差す「老害」とかマウンティングだと思われるリスクもあったりするから。
レジー:そのブームも数値化された「人気」に支えられていたりするので、指摘が封じ込められがちですよね。AKB総選挙ももともとは「そんなにメンバー選出に文句言うなら、おまえたちに決めさせてやるよ」っていうところから始まっているという話があったりしますが。
速水:「コンテクストはもう顧みられなくなっているから、好きに自分の歴史を語っていこう」みたいなことになって行きますよね。
物書きには「終わってしまったことを語るタイプ」と「これから起こることを書くタイプ」と2パターンあると思いますけど。本来は、掘り返す作業が、未来のヒントなんだと思います。
レジー:なるほど。それでいうとやっぱり僕は歴史や文脈を語ることを諦めちゃだめなんじゃないかとどこかで思ってるんですよね。
速水:テレビで見てると、しょっちゅう「平成の夏曲」の特集やってない? みたいなのはありますよね。すでに平成と昭和とのごちゃまぜになっていますけど。時代の文脈はもうどうでもいいって感じで。
レジー:それは本当にそうですね。2020年代って、後世からどんな風に振り返られるんだろうっていう。僕は2018年に音楽・映画ジャーナリストの宇野維正さんと『日本代表とMr.Children』と本を出して、今もミスチルを追いかけているのですが、きっとそれは「みんなが共有できるコンテクスト」へのロマンが自分の中に残っているからなんだと思います(笑)。
速水:みんなが知ってるはずの「一般教養」へのロマンってことだよね。
レジー:もちろん、現実的にはそれがあり得ないのもよくわかっています。なのでライターとして自分ができるのは、その対象のファン以外にも届くものを書こうってことぐらいですよね。本来の宛先である特定のクラスタだけじゃなくて、ほかの人が読んでも引っかかるようなフックや普遍性を仕込んでおこうという意識で書くようにはしています。
速水:僕も2014年に『フード左翼とフード右翼』を書いたときは似たような意識だったかもしれない。あれは「食」の本ではあるけど、食文化はどうでもよかった。自然志向食品を好むムーブメントを「左翼」、加工食品を好む人たちを「右翼」として、日本人の政治意識を食を使って語ってみた。わざと混濁させた感じが好きなんです。
レジー:そのずらし方みたいなところは共感できます。
速水:ビジネス書をたくさん読んでカルチャー領域で応用するみたいなのって、レジーさんのアプローチには、自分と似た部分を感じたりもします。
レジー:自分も第6章でビジネス書をいくつかポジティブに紹介していますが、それは素朴に「ビジネス書にもいいものはある」って伝えたかったというのがありますね。ビジネスはやはり自分のバックグラウンドのひとつでもあるので、ちゃんと紹介しておきたいなと。
速水:そこで「ちゃんと紹介」なのがレジーさんらしいなあ(笑)。
レジー:たしかに(笑)。さっきのミスチルの話じゃないですけど、自分はやっぱりどこかで「みんなが共有できるもの」を探っていきたいんです。
(取材・構成:松本友也)
プロフィール
レジー
ライター・ブロガー。1981年生まれ。一般企業で事業戦略・マーケティング戦略に関わる仕事に従事する傍ら、日本のポップカルチャーに関する論考を各種媒体で発信。著書に『増補版 夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』(blueprint)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア、宇野維正との共著)。twitter : @regista13。
速水健朗(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。