椎名林檎の変化には、カメレオンみたいな印象があります。元来の習性として、その場に合わせて色を変えていくイメージです。
アドルノも、たとえばストラヴィンスキーをカメレオン的な作曲家と考えている。実は今回の椎名林檎論も、アドルノのストラヴィンスキー論から何とか自分で問いを立てて書こうというコンセプトから始めています。というか、現代の世界にはカメレオンじゃない音楽家はいないんじゃないですかね。シェーンベルク[3]のような一つのコンセプトを貫く作曲家、やっぱりいないですよ。
シェーンベルクはモダン、近代性概念の権化みたいなところがありますよね。次に進んでもう元には戻れないという道筋を繰り返して、最終的に突き詰めて、行き止まりです、もう進めません、みたいな世界になっていく。そういう意味でのモダンな「成熟」を、西村さんは肯定したい思いをお持ちなんでしょうか。
難しいところではあるんです。じゃあシェーンベルクみたいな作曲家が全てかといったら、首を縦に振れない。ただ、カメレオン的であれ、もっとストイックであれ、社会とのつながりを最終的に抱えてしまうアーティストが評価されるべきだという思いがあります。アーティストの人は、どうしてもファンをドメスティックに囲い込むことになるわけじゃないですか。
論考で女性アイドル産業に少し言及していますが、全くパブリックでないことを、何も気に留めてないのが日本のアイドル産業だと感じます。でも、握手券をつけるつけないみたいなものと、椎名林檎の囲い込み方は大差ないように思う。彼女のオリンピックへの参加のニュースを聞いたとき、真っ先に「ドメスティック」を感じました。一緒くたにしてはいけないけれども、椎名林檎のやっていることもパブリックに開かれていない。
彼女のいかにも大衆向けにつくっていますというふるまいは、単なる社会の像の反映ではないんです。当然、そこには、様々な紆余曲折がある。でも、紆余曲折の仕方によって、どういうふうに社会の像を反映するか、どういう部分を反映するかが変わってくるんです。
「椎名林檎はパブリックじゃない」というのは、とても面白い論点だと思います。また、論考の後半に出てくる「写真を撮る者」の話は今の話題に関連しますね。
椎名林檎の歌詞は「写真を撮る者」の存在が重要で、彼女からそれが少しずつ消えていったと論じられています。この「写真を撮る者」はイメージしにくい感覚でもあると思うのですが、西村さんにとってどのような意味をもっていますか。
「写真を撮る者」は、欲望が交差する状態をイメージしています。今の彼女の表現には、聴き手一人一人の個別の欲望しか存在していない。欲望が個別化して、個別に満足している。でも、初期の頃の表現は歌詞のなかに、彼女に対する他者からの目線があったんです。大衆文化、ポップカルチャーの面白さは、様々な欲望が交差するところにあるし、そこで「パブリック」は生まれると思うんです。単なる大衆の声の代弁ではない。今はパブリックでないドメスティックな歌詞で、我々大衆を映してしまっている。その変化が、歌詞における「写真を撮る者」の消滅に表れている。他者の視線を受け入れた彼女は存在せず、本当に彼女がそこにいるだけという感じがしてしまう。私は、なんだかそれがとても嫌だったんですよ。
ただ、そうしたことを論じている後半は、結論というよりももがいている自分自身の描写ですね。どうしても、諸々の問題に答えようと足掻いている自分の姿を描かざるを得なかったんです。
私はピアノを弾くのですが、この時はカデンツァ(クラシック音楽の協奏曲などにおける、即興的な独奏)を弾いていると思いました。私はピアノコンチェルトのソリストであると。前半は加藤や江藤に伴奏をつけてもらっていたけど、後半で一気に一人になる。
(註2)20世紀ロシアの作曲家。現代音楽に多大な影響を与え『火の鳥』『ぺトローシュカ』『春の祭典』などの作品を残した。
(註3)20世紀オーストリアの作曲家。無調性音楽を志向し、12音技法を確立した。
プロフィール
1990年、鳥取県生まれ。2013年東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻(ピアノ)卒業。2016年、東京藝術大学大学院美術研究課芸術学専攻(美学)修了。2021年1月に『椎名林檎における母性の問題』で第四回すばるクリティーク賞を受賞。