対談

沖縄戦後80年を前に、知られるべき首里城地下日本軍司令部壕の実態

『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』刊行記念対談(前編)
保坂廣志×川満彰

司令部壕の公開をめぐる近年の動き

『首里城と沖縄戦』で詳しく論述されている米軍資料「インテリジェンスモノグラフ Part Ⅱ」より

保坂 2020年に「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」という市民の会が立ち上がり、それが県に陳情して、県も公開するか否かを検討する委員会を立ち上げました。

 問題はそれにプラスして、技術的に地下司令部壕を見せることが可能か否かということです。土木関係の大きな企業に頼んで、磁気探査や、空からの探査もし、ロボットか何かを入れたようです。今度の委員会は、それに基づいて最終的にトンネルが開けられるかどうかという判断になると思います。

――2020年に公開を働きかけたのはどういう人たちですか。

保坂 高齢の戦争体験者の方、3人が呼びかけて作った会です。

川満 僕もそれに関わっているんですよ。

保坂 技術的な部分で、どの程度公開できるかが磁気探査をすれば分かります。

――落盤事故などもあり得ますしね。

川満 「2025年に第5坑口を公開する」というのが今目標となっていて、その翌年に第1坑口と、第1坑道が可能であれば公開するというような段取りを今進めていて。

保坂 坑口は出入り口のところだけですね。一応、第5坑口は70メートルまでは開いてはいるということで、そこまで話が来ていますが、会としては「全部開けろ」と要求しています。

川満 会としては、もちろん全部開けてほしいのはやまやまなんですけど、今保坂さんがおっしゃったみたいに、技術的に本当にそれが可能なのか。けっこう莫大な金もかかりますし。

保坂 確かに2メートル四方の坑道を300~800メートル開ければ、管理が大変だと言っています。

川満 総延長およそ1キロで、約1000名がいたという。すごいよね。

保坂 アメリカ側はそこで寝泊まりをして「戦艦の内部と同じだ」と言っていましたね。

――日本軍はそれを半年ぐらいで作ったということですか。

川満 少年たちを使ってね。

保坂 本当はすごい工事をやったけど、全貌は見せていないのです。そのために鉄血勤皇隊の学徒たちが「築城隊」という名前をつけられて、「トロッコ部隊」を編成しトンネルを掘ったわけです。

川満 そうですね、だけども、いわゆる土運びですよね。実際に中がどうなっているかは、彼らも分からない。

保坂 分からない。秘密主義だったから。

――兵隊たちは逃げちゃったんで、証言する人がほとんどいなくて、長年ベールがかぶせられてきた。

保坂 全てが秘密のうちに。あの司令部壕を考えたのは3人ぐらいの将校ですよ、設計図を描いて、「こうする、ああする」と。陸軍工兵隊の責任者と、途中でフィリピンのほうに異動した者と、もう1人、築城隊の隊長です。

司令部壕の構造

「インテリジェンスモノグラフ PartⅡ」より

――司令部壕で、今のところ公開されているのは?

保坂 第5坑の入り口部分です。最後、第32軍が逃げ出していくところですね。

 この司令部壕を築く際には、まず首里城の歓会門のほぼ中心のところに30メートル真下に降りる穴を掘って、それで中心部を設けたわけです。縦坑を30メートルも掘ったのはすごいと思います。

川満 本当にすごいですよね。

保坂 本当によく掘ったと思う。岩を砕きながら30メートルも。その下には泥炭という泥状の土があるから、そこからは掘りやすくて、後はほぼ直線にトンネルが掘れた。

 そこなら、上から爆弾を落とされても、30メートルの岩盤が上にあるから、内部は大丈夫だ、と。

 その縦の穴から続いて横穴を掘り始めていって、5つの出口を設けた。1、2、3、4、5と。司令部の中心は1、2、3坑道付近で、第5坑は生活坑道で、炊事場とか風呂場、あと発電所などがあり、そこが司令部壕内のインフラ施設の中心でした。

 米軍は司令部壕を攻め切れなかったのですけど、1945年5月末に日本軍が第5坑口から出ていった。情報部は、第5坑炊事場に暗号書とか情報関係の記録を燃やすために全部持ち込んだのですが燃やし切れずにそのまま残ってしまいました。5月29日、米軍が第5坑道に突入して、丸ごとそれを奪って、これを米国に送りました。自分たちが国を挙げて解読に取り組んでいた暗号書が丸ごと見つかったと、ワシントンは速報を出して喜んだといいます。これで軍部や日本人が全国でどのような戦い方をするか分かった、ともいわれています。

 今年の5月、沖縄のメディアが第5坑道の70メートル先まで行っている。その先はもう入れないのです。

――重要な、戦略上の核心的な意味を持つところは見られるんですか?

保坂 今のところは、無理です。司令部の将軍がいたところに興味を持つ人もいますが、大した意味がないです。基本は情報部の固まりと第5坑です。情報部は1、2、3坑口のちょうど重なった場所で、そこが中心です。第5坑なら何とか一般公開もできそうな感じがします。そこが一番大事なポイントです。ここは米兵や住民の虐殺の場所であり、情報の露出の場所です。そして、日本軍が最後に逃げ出した場所でもあります。

 ここから逃げ出すときの話は、いくつも書かれています。高級参謀の八原博通(やはら ひろみち)大佐も書いているし、他にも何人かの人が、どうやって逃げ出したかという話を書いている。次から次と砲弾が来る中で、時間を計って壕から出ていくのですが、将軍2人は勝手に飛び出して、部下たちがその将軍の後を追いきれないのですよ。

川満 虫のいい話です。そうやって逃げたのが武勇伝みたいになっていたり。おかしいところだらけです。

司令部壕内には従軍慰安婦もいた

川満 第5坑道については、僕も新聞記事ぐらいでしか様子は分かっていないんですが、たとえば風呂場もそこにあった。だいたい30分単位で誰々が入るって決めていたみたいですね。ローテーションで。

 そういった司令部壕内の暮らしぶりが分かるというのは非常にいいですよね。

 それに対して、壕のまわりの住民はどうだったんだろう、とか、そういうことも調べなきゃいけない。司令官や兵士たちはお風呂に入っているのに、まわりの民間人は入ることができたんだろうか、とか。

保坂 あと従軍慰安婦のこともあります。第5坑道には従軍慰安婦もいたのです。はっきり証拠があります。本書にも書きましたが、第1坑道の外に電信第36連隊が管理する合同無線通信所があって、5月24日に攻撃を受けたので、第32軍司令部壕内の第5坑道に応急的に移動することになった。そこに朝鮮人の慰安婦がいたので、交渉したんです。このとき無線機器類の補修作業に当たった通信士が証言しています。「受信機を地下の坑道に据えつけるといっても適当な置き場所がないので、(第5坑口の)東端にあった朝鮮人慰安婦のベッドをいくつか空けてもらいました」と。

 ですから、間違いなく従軍慰安婦がいたということです。

――重要なポイントですね。

川満 可能な限りは全部の坑道を開けたほうがいいですよね。そうすればさらに全容が明るみに出ます。ただ、まずどこから見るかといったときに、その第五坑口をたまたま見ることができたというのは、ある種、不幸中の幸いじゃないかなと思います。ほかの部分の入り口だけ見てもあまり実態が見えない。だけど第5坑道は、そこに生活の場があったのが見られる。これは非常に意味がある。

保坂 県がその土地を買ったので、今そこは県有地なのです。車を停めるぐらいのスペースがあって、いい観光地の入り口になるはずです。

――今は展示を説明するような掲示物は何もないんですか。

保坂 ないです。第5坑口の場所が見られるくらいですね。

川満 こういったものをきちんと公開するために、別の建物が必要だろうと思います。

保坂 簡単な坑道の体験をするような展示場が必要になると思います。40~50メートル坑道を体験しておいて、展示物も目にできるような方法もいいかなって思います。

川満 今、VRと言うんですか、コンピューターを使って擬似体験するとか、そういうことも考えているみたいです。可能であればそんなことをやりたいと「保存・公開を求める会」も言っています。

保坂 それもいいですね。

――展示すべきポイントは、証拠と虐殺と逃亡の現場であることと……。

保坂 第5坑道では、従軍慰安婦がここにいたことを伝えるべきですね。そしてインフラ設備の発電所、風呂、炊事場。

 ここは米軍が撮った写真が残っています。第5坑道入り口付近の炊事場を撮ったやつですね。この写真は本書の118ページに載せていますが、こういうのを拡大して、大きなパネルにすれば分かりやすいでしょう 。

――こういう資料も含めて非常に貴重ですね。復元しようにも、こういうものがないと。

保坂 私の意見ですが、司令官室の展示にはこだわらなくてもいいでしょう。

川満 僕も同感です。

(後編に続く)

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関連書籍

首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部
沖縄県知事 島田叡と沖縄戦

プロフィール

保坂廣志

(ほさか ひろし)
1949年、北海道生まれ。琉球大学法文学部元教授。沖縄戦を中心とした執筆、翻訳を行う。『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』(集英社新書)、『戦争動員とジャーナリズム 軍神の誕生』(ひるぎ社)、『硫黄島・沖縄戦場日記』(紫峰出版)など多数。共著に『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)などがある。

川満彰

(かわみつ あきら)
1960年、沖縄県コザ市生まれ。沖縄国際大学非常勤講師。2006年、沖縄大学大学院沖縄・東アジア地域研究専攻修了。 著書に『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)、『沖縄戦の子どもたち』(吉川弘文館)他、共著に『戦争孤児たちの戦後史1 総論編』〈共編〉(吉川弘文館)、『沖縄県知事 島田叡と沖縄戦』(林博史との共著、沖縄タイムス社)などがある。

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沖縄戦後80年を前に、知られるべき首里城地下日本軍司令部壕の実態