対談

沖縄戦後80年を前に、知られるべき首里城地下日本軍司令部壕の実態

『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』刊行記念対談(前編)
保坂廣志×川満彰

太平洋戦争末期の沖縄戦では、沖縄の象徴・首里城の地下に日本軍第32軍の司令部壕が築かれた。そのため米軍の攻撃目標となって6月だけでも680万発もの砲弾を撃ち込まれ、首里地域全体が灰塵と化した。

その沖縄戦から2025年で80年になるが、現在「台湾有事」の危機が叫ばれ、沖縄を含む南西諸島でミサイル基地など自衛隊基地がどんどん新設されている。

「島民を守るためだ」と言うが、かつての沖縄戦で「沖縄守備隊」は住民の命を守らずに敗走し、20万もの人々が犠牲になった。住民たちは日本軍陣地の建設を手伝わされたにもかかわらず、軍によってスパイ扱いを受けて殺された人すらいる。

この沖縄戦を指揮した極秘要塞の全貌解明に、日米の資料を駆使して迫ったのが『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』だ。本書を6月に上梓したばかりの保坂廣志氏と、沖縄戦史の専門家で『陸軍中野学校と沖縄戦: 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)などの著書のある川満彰氏が、地下司令部壕と沖縄戦、そして現在の沖縄の状況について語った。

構成=稲垣收

昭和の大改修後の首里城正殿

火災で焼失した首里城再建と同時に、地下司令部壕も公開すべき

――2019年の火災で焼失した首里城の再建が今進んでいますが、首里城再建と同時に、司令部壕を公開したほうがいいということを玉城デニー知事も言及されていて、注目が集まってきています。沖縄戦史の専門家の川満さんからご覧になって、本書の特筆すべきポイントはどこだと思いますか。

川満 首里城の下に第32軍司令部壕があったとか、「鉄血勤皇隊」と呼ばれた14歳~18歳の少年兵たちが壕掘りに参加したというのは広く知られていましたが、そこが実際にどのような役割で、どのように運用されて、実際にどういう状態にあったかというのは、これまで明らかになっていませんでした。

 沖縄県がこの第32軍司令部壕を公開しようとした時点でも、これから資料研究していこうということだった。でもこの本が出たことによって、県の調査そのものも非常に早くなるんじゃないかと思います。第32軍司令部壕を中心とした沖縄戦に限らず南西諸島全域の解明というのは、この本が最初だというのは間違いないでしょう。

 特に視点が保坂さんらしいなと思うのは、米軍資料と日本軍の資料をどうやってうまく重ね合わせて組み立てていくかというところ。まだ解明されていないところは推測も含めて組み立てていくという構造ですよね。これは全然ありでしょう。

 推測した部分をどうやってきちんと資料によって埋めていくかというのは、今後まだまだ時間がかかるでしょうが、それはこの本を読んだ人や、沖縄戦研究者が、これから皆でやるべきだろうと思います。首里にいた住民が、どのようにこの司令部を見ていたのかとか、住民との関わりについては、この本をきっかけにして、これからまだまだ調べることができる。非常に画期的な本だと思います。

保坂 ありがとうございます。私が読者に知ってほしいことの基本的なものを今、川満さんがほとんど述べてくれました。

 もう一つプラスして考えてほしいのは、地下に司令部壕が掘られていたけれど、当時ほとんどの住民は、壕があることは分かっていても、そこで何が行われているか誰も知らなかったということです。ほとんどの住民は中を見たこともないし、地下壕の建設工事に関わった人たちも、皆口を塞いでいたからです。

 壕の外にいる兵隊たちも、土日など休みになると首里城に見学に行くのですが、首里市関係者以外、立ち入り禁止でした。兵隊たちの日記に「近くまで行ったけども皆戻されて帰ってきた」というような記述があります。全てのものが秘密の内に行われていた。そのため戦後も証言がない。本当に機密中の機密で、特異な場所なのです。

 壕を築くために大がかりなトンネル工事をやっていますが、「外部に一切知らせてはならない」という日本軍の徹底した箝口令(かんこうれい)の下で、地下陣地の造成が行われたのです。

――米軍の猛攻撃で破壊しつくされ地中に埋まってしまった地下司令部壕ですが、保坂先生がバラバラになったパズルの全体像を「こういう形だったのではないか」と、資料に基づきながらスケッチを描き上げたと考えていいですか。

川満 そうだと思いますね。もともと、元画像も見えなかった。そこに、ようやくこのスケッチの像が見えてきた。これを基に今から肉づけしたら、沖縄戦を知る上で、さらにすごくいい資料になっていくでしょう。

――第32軍司令部壕を考える上では、欠かすことができない情報が入った研究と言えるわけですね。

川満 ええ。

地下司令部壕について知ることで、今「台湾有事」になったら何が起きるか類推できる

川満 そして、なぜ今第32軍壕を公開することが必要なのか? 

 確かに以前、大田昌秀知事(在任期間1990-98年)のとき、1995年に、「戦後50年の事業として保存・公開する」と言ったのですが、3年後の県知事選で大田さんが敗れたことで立ち消えになってしまいました。政治的な理由など、いろいろあったのですが……。

 それを今回、「公開する」と。もちろん玉城デニー知事が平和問題を前面に出して活動していくことは、とても頼もしいのですけど、最初に「見せる」と言ったときから30年近くたってしまって、もう社会がすっかり変わってしまいましたよね。今まさに、安保3法制、台湾有事問題、重要土地規制法等というのがボンボン出てきていて。

 その中で、この第32軍司令部壕を公開する意味は、やっぱり「当時の沖縄戦が何だったのか」というのを、この地下司令部壕を公開することで、もう一回、みんなで考えてみようよ、ということでしょう。

 そして、必ずしも沖縄本島だけが沖縄戦をやったわけじゃありません。奄美群島や、鹿児島近くの口之島(*1)や与那国島までが第32軍司令部の範囲で、「どこに誰が待機せよ」と命令を出していたのはこの司令部壕でした。

 そう捉えていくと、この第32軍司令部壕を公開することで、南西諸島だけでなく、鹿児島ぎりぎりまでどんな作戦を立てていたのかが分かる。そこに巻き込まれていた住民がどういうふうになっていったのかも分かるんです。

*1 くちのしま。トカラ列島の火山島で、鹿児島県に属するが、鹿児島港から約200キロ離れている。

――今起きている事柄が、いざ有事になったときに、どういうことに結びつくのか類推できる。

川満 ええ。本当に今、あの時の二の舞になっているんじゃないかと思います。「新しい戦前」という言い方をするように、「新しい戦争の道」を今まさに歩んでいる。第32軍司令部壕を公開し、「住民視点で物を見る」こと。そうすれば「実際戦争になったら、住民はどうなるんだ?」ということをイメージできる。公開することでそれに“待った”と言える。だから僕は、この本は非常にいいなと思っているんです。

保坂 今の川満さんのお話で鋭いことは、確かに沖縄戦のときに、首里城の司令部壕が東西南北300キロ以上の広大な防衛範囲の中心点にあったということです。本土決戦を遅らせるための作戦を首里城で展開した。しかし、その中で住民がどうなっていたかという視点が、これまで全くなかった。

 今の自衛隊の「南西シフト」を見ても、言葉を変えて言えば、沖縄を中心にして戦場化することを予想しているのですが、本土の人たちは、自分たちがどうなるか全然考えていないと思うのです。しかし構造的に言えば、やはり「本土の戦いを遅らせるための南西諸島のシフト」と言えるのじゃないですか。これじゃ、全く沖縄戦と同じです。

川満 「沖縄戦前夜」と全く同じですよね。

保坂 だから本土の人は「南西シフト」と聞いてもノホホンとしているけど、当の沖縄は大変な騒ぎをしているわけです。「結局、沖縄の自分たちは、防波堤のように本土を守るために、また捨て石にさせられるのか」という考えが出てきてもおかしくない。かつての、その中心が首里の第32軍司令部壕だった。だからここを公開するのが大切になるのです。

川満 新聞に、ある自衛隊幹部による講演会の案内で、「台湾有事で中国が脅威にならんように、さらに武器庫を構築していこう」というようなものが出ていました。まったく沖縄戦を学んでいないな、と思います。ひどい話です。ただ、それに同意する人たちが、やっぱりいるわけですよね。そういう、ついて行く人たちも含めて、この第32軍司令部壕をどう公開するか。見せ方が非常に気になります。

――どっちの立場に立つかで、展示の仕方も影響を受けますね。

川満 大きいですね。豊見城(とみぐすく)の海軍司令部壕みたいにしてはいけない。あそこでは完全に住民が見えないんです。「日本兵士が奥のほうに押し込められていた」とか、そんなことで……。

 当時の海軍の大田實中将が自決する数日前に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」(沖縄県民はこのように戦った)と電報で伝えたという話があります。「沖縄県民を評価してほしい」ということで言ったのかもしれないけど、そういうことばかりがあまりにもクローズアップされ過ぎている。そういう演出に人々は惑わされていくんです。

 第32軍を率いていた牛島満司令官についても、「会った人は皆『いい人だった』とか『穏和な人だった』と言っている」というような話がされる。いわゆるヒューマニズムというか、美談みたいに物を語っていく。しかし実はそれによって、戦争の実態が何も見えなくなるんです。

 だから、こういう美談めいた話にされてしまうことに対して、どうきちんと反論するか。

 僕はあちこちで話をしているんです。大田中将は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」と言ったかもしれないけど、軍隊はそもそも県民を戦わせたらいけないんだよ、と。「よく戦った」と称賛するんじゃなくて、「戦わせてしまった、反省します、ごめんなさい」というのなら、まだマシですけど……。

「なんで戦わせないといけなかったの? 守らないといけないのが住民だよ」と思います。第32軍の「沖縄守備隊」という名前とは、まるっきり逆なことをやってしまった。

平成に首里城が再建された際は、地下司令部壕のことを伝えるものになっていなかった

第32軍司令部壕跡

保坂 もう一つ言いたいことがあります。平成4(1992)年の首里城再建は何だったのか? あのとき再建された首里城には2019年の火災で燃えるまで、年間200万~300万人が見に来ていたといいますが、その人たちに地下司令部壕についての話は何も伝わっていないわけです。

 しかし、日本軍による加害の実態というものを、どうしても首里城の話の中に組み込まなきゃいけないと思います。首里城の地下には、文字どおり加害の中心の司令部壕があった。これを、外国から来る人たちを含めて多くの人に知らせ、示すことが、本当の意味での首里城再興、地下司令部壕再興の意味じゃないか。

――インバウンドで外国の方もたくさん来日していますしね。広島の平和記念公園にも外国の人がたくさん来て、展示を見てショックを受けている。首里城も地下の司令部壕が公開されて、沖縄戦のことを知る場所になるといいですね。

川満 そうですね。今、沖縄県平和祈念資料館には、けっこう外国の方が多いです。彼らはきちんと見ている。やっぱり「個人を持っている人たち」という言い方は失礼かもしれないけど、「国民主権」とか、そういう文化を持っている人たちは、流されず、きちんと物を見ているなと思います。

 国内の人たちで特に県の平和祈念資料館に来るのは、修学旅行の平和学習がほとんどです。今回、第32軍司令部壕が公開されたら、修学旅行生を中心として回ってくるんだろうなと考えられるんですが、その場合に戦争を見る視点・スタンスも含めて単に「学習」として見せるのか、それとも「人としての生き方」として見せるのか、が大切だと思います。

 「平和学習」の際に、僕は「展示内容やテキストをどんなに見て覚えても、入試のテストじゃ出ないよ。百点満点はないよ」「でも、これを見ることによって、自分が結婚したりして幸せになって、愛する人をどうやって守っていくのか、そのために自分がどういう生き方をするのかという学習になるんだよ」と言うんです。

 そういう物の見方で、この第32軍司令部壕についてもやっていかないと。単純に「はい、修学旅行の平和学習です」ってやったところで、なかなか進歩はないと率直に思っています。

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関連書籍

首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部
沖縄県知事 島田叡と沖縄戦

プロフィール

保坂廣志

(ほさか ひろし)
1949年、北海道生まれ。琉球大学法文学部元教授。沖縄戦を中心とした執筆、翻訳を行う。『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』(集英社新書)、『戦争動員とジャーナリズム 軍神の誕生』(ひるぎ社)、『硫黄島・沖縄戦場日記』(紫峰出版)など多数。共著に『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)などがある。

川満彰

(かわみつ あきら)
1960年、沖縄県コザ市生まれ。沖縄国際大学非常勤講師。2006年、沖縄大学大学院沖縄・東アジア地域研究専攻修了。 著書に『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)、『沖縄戦の子どもたち』(吉川弘文館)他、共著に『戦争孤児たちの戦後史1 総論編』〈共編〉(吉川弘文館)、『沖縄県知事 島田叡と沖縄戦』(林博史との共著、沖縄タイムス社)などがある。

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沖縄戦後80年を前に、知られるべき首里城地下日本軍司令部壕の実態