対談

地下司令部壕が「住民スパイ説」の発信源だった――語り継いでいくことの責任

『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』刊行記念対談(後編)
保坂廣志×川満彰

県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦から2025年で80年。
この悲惨な沖縄戦を指揮したのが首里城地下に築かれていた第32軍司令部壕だ。
この極秘の地下要塞の全貌解明に、日米の資料を駆使して迫ったのが『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』である。
本書を6月に上梓したばかりの保坂廣志氏と、沖縄戦史の専門家で『陸軍中野学校と沖縄戦: 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)などの著書のある川満彰氏が、地下司令部壕と沖縄戦について語った対談の後編。
司令部が流した「住民スパイ説」や、当時の戦争責任についても語る。

構成=稲垣收

米軍がろ獲した日本軍第32軍の集合写真。1945年2月、米軍上陸前に撮影された。1は大田實海軍少将、2は牛島満第32軍司令官、6は八原博通高級参謀

地下司令部壕が「住民スパイ説」の発信源だった

川満 この地下司令部壕が極秘扱いだったということと、住民をスパイ視していたということは、密接につながっているんですよ。日本軍のこういった陣地づくりは、その全てが機密でした。しかし地下司令部壕を作るためには住民を使わないといけない。だから、住民をスパイ視しながらも、使っていった。

 実際に地上戦が始まると、最初に米軍に捕まるのは住民であろう、と。住民は銃を向けられるとすぐ何でもかんでもしゃべってしまう。どこに食糧庫があり、日本兵がどこに何名いて、兵器庫がどこでとか、全部ばらしてしまうだろう。だから、軍はスパイとみなした住民を、壕の中で虐殺したり、もしくは暗黙の了解で「強制された集団自決」(強制集団死ともいう)に追い込んでいったわけです。

 この沖縄戦の中で、機密を守るという部分で第32軍は一貫している。そのことは、この司令部壕から学ぶとよく分かるでしょう。

――陸軍中野学校のノウハウが使われていたわけですね。

川満 使われていました。

保坂 首里城の地下司令部壕の中で「沖縄方言を使ってはならない」ということが4月9日ぐらいに言われるのですけど、その以前に「住民スパイ説」が首里城の中の情報部の中で話し合われていたのです。

 軍が住民スパイ説を言った理由は、日本兵が米軍に投降しているということを知られたくなかったから。「投降しているのは全て住民だ」ということにした。服も軍服でなく民間人の服装をしているから民間人だ、と。

川満 そうですね。この本に書かれていますよね。最初に捕虜になった日本兵が何でもかんでもしゃべったって。

保坂 そこが大事なポイントです。アメリカ側の捕虜尋問調書を見ると、日本兵は丸ごと全部話しています。中がどうなっているとか、「第5坑口から行けば勝てる」と米軍に言っているのです。

 逆に民間人が米軍に言ったことは、ほとんど役に立たない情報にすぎません。そもそも、「近くに兵隊がいた」とか、その程度のことしか住民には分からないのですから。それを「住民が米軍のスパイだ」と言って処刑したりしたのは明らかに虐殺行為ですよ。

 第32軍司令部壕が「住民スパイ説」の元凶であり、震源地だというのは間違いない。ここは情報部の中心で、それが広がっていって、南部に敗走した日本兵は住民に対してやり放題、好きなことをやっている。壕にいるものはスパイとみなし、避難壕にいる住民を全部追い出したりするわけです。

戦争体験者ゆえに全体を鳥瞰するのが難しい部分もあるし、非体験者は逆に学ぶことによって鳥瞰することができる

川満 地下司令部壕をどうやって見せるかという話をもう少しさせてもらうと、90歳前後の戦争体験者の人たちが「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」を作ったんですけど、僕は彼らと今関わってはいるんですが、正直言って、体験した人たちと、今勉強している人たちはちょっと違うんです。

 体験した人たちは、自分たちが体験して直接ひどい目に遭っていますから、彼らの証言はとても正しいんですが、体験したことがあまりにも大きすぎて、なかなか自分自身が体験したことから離れられない。だから「司令部壕を今どうやって活かすか」という鳥瞰的な物の見方をするのが難しい部分もあるんです。

 数少ない例外として、県知事にもなった元鉄血勤皇隊の大田昌秀さんや、国会議員になられた古堅実吉さんがいますが、彼らの話を聞くと、資料を紹介したり、鳥瞰しながら、自分が体験したことも交えてしゃべっている。これはきれいに組み立てられているんです。

――立体的になるんですね。

川満 ええ。ところが、多くの戦争体験者は、なかなか自分の体験を鳥瞰するのが難しいんです。

 逆に非体験者は、学ぶことによって鳥瞰することができるので、非体験者こそが中心になって、「戦争しない、させないための説明の仕方はないのか」ということを考えていったらいいんじゃないか、と思います。

 今、琉球新報協賛で、体験者からの聞き取りや研究者らの講義という形で「沖縄戦の記憶継承プロジェクト」というのをやっていて、僕も呼ばれて行くんですけど、「第32軍司令部壕の説明の仕方はどんなやり方がありますか」と聞かれたら、一番には分かりやすいこと、「戦争しない、させない」ための説明の仕方が大事だ、と僕は言うんです。難しいことは考えない。

――それが本当の意味での抑止力ですね。

川満 ただ、そういう視点でやろうとしたときに、どうしてもそこの中でもぶつかってしまうんですよ。戦争体験者には「牛島満もすばらしい人だった」と言う人もいますから……。

牛島司令官の総攻撃命令

牛島満日本軍第32軍司令官

保坂 私がこの本の中で厳しく書いたのは、5月4日の牛島司令官の最後の総攻撃命令で、一日で5000人ぐらい死んだということです。

 4月29日の天皇誕生日に将校が集まって「最後の一戦を交える」と牛島司令官が決めたわけです。参謀の八原大佐たちは止めるけども、牛島司令官は、俺が言っているんだと、最後の命令を出したのですよ。

 その総攻撃でものの見事に敗れて、最後に司令部壕から逃げ出すのですが、牛島中将の近くで八原が芝居を打ちました。大きな声で、「日本は南部に撤退するしかない」と言ったのです。中将の顔を見たら、牛島がニヤッと笑ったって。自分の命が長引くことにホッとしたのでしょう。八原はそれを一瞬で見て取ったわけです。

川満 八原大佐の回想録に書かれていますよね。

保坂 だから、牛島司令官が「人間的な人だった」なんて、意味がない話です。逃亡する日まで、司令部壕から一歩も外に出てないわけですよ。「率先垂範」という言葉がありますが、これは上の者がどこかで率先してリーダーシップを見せなきゃいけないということです。でも、彼は何もやっていない。

川満 ただ、戦争は将棋と全く一緒で、王将が逃げれば逃げるほど持久戦が続く。だから、彼は徹底して持久戦をやるために、ずっと逃げていったわけですね。

 でも僕が気になるのは、最終的に、摩文仁(まぶに)のところでも6月18日にもう一度解散命令という名の突撃をやりましたよね。あれが疑問でならない。もう完全に敵に囲まれていて6月17日ぐらいから牛島司令官は「自分はもうダメだ」って言っていた。で、18日に米軍のバックナー中将が日本軍に殺されるわけです。その同じ日に、牛島司令官は突撃命令を出した。

 でもバックナー中将が殺されたら、米軍は当然ものすごい報復攻撃をしてくるわけですよ。その中を、「全員突撃!」ってやったら、バッタバッタと死んでいくのは当然です。6月18日から22日にかけて、ものすごい数の兵士が亡くなっていった。

 しかし牛島司令官らは18日に解散命令を出した時点から5日間生き延びたわけです。解散命令を出したときに、牛島は自決しなかった。裏を返せば生き延びるためにわざと解散命令出したんじゃないか、と。兵士らを盾にして。これってひどいよなって思います。

 14~18歳の少年たちの鉄血勤皇隊もそうですよね。隊員だった大田昌秀さんの著書を見ると、6月18日以降に亡くなっている学徒がけっこう多いんです。

保坂 「俺が死ぬから、皆生きろ」とは言わなかった。「俺がやがて死ぬなら、おまえたちも……

川満 「先に逝け」っていうことでしょう。しかも、今問題になっている辞世の句は、もう完璧に負けると分かっているから、負け戦の中でみんな死んでからでも天皇の国を守りましょう、という句だから。最悪ですよ。だから、今の自衛隊の人たちも、あの句をホームページに載せるということは「負け戦に自分たちが突撃に行くの?」って考えてほしい。

今生きている人たちの視点で当時の戦争を見る必要がある

川満 僕はいろんなところで話をする機会があるんですけど、今生きている人たちの視点で、当時の戦争のようすを見ないといけない。「当時は教育が悪かった。『国体護持』思想を押しつけられたから、しかたなかった」と言ってしまうと、全ての戦争責任がなくなってしまう。でも、今生きている、今のこの暮らしの感覚の中で人権感覚で戦争を捉えると戦争責任が出てくるわけですから。

――首里城の地下にあった第32軍司令部壕が、兵士に対して命令を出して沖縄戦を指揮したわけですが、民間人に対する指令は、当時の島田叡県知事(しまだ あきら、在任期間1945年1月12日~6月26日)からの指令だった?

保坂 実際、そうですね。記者会見をやったり、市町村会議をやったり、記者たちに情報を流したりしていますから。住民についての指示・命令は、島田知事からだというのは間違いないです。

――第32軍司令部と、当時の県知事の関係も密接だったわけですね。

川満 というか、戦争は軍と官と民が一体にならないとできないんですよね。それは今でも全くそうです。民が協力・応援しないと、実は戦争ってできない。

 軍人が前線に立つのは当然のことです。でも、官は民を統一して銃後の守りをさせる。だから軍の統制以上に、当時の民間人は、官の統制に従い、官の命令を全て聞かなきゃいけなかった。軍と官が両輪にならないと、実は沖縄戦はできなかったかもしれない。

 島田知事の前の泉守紀(いずみ しゅき、在任期間1943年7月~45年1月12日)知事は、軍に対して反論ばっかりしていた*1。ところが次の島田叡知事は全然違って、軍とともにやっていく。民間人もどうやって戦争に使っていくか、と。使えない人たちは疎開させる。本当に明確に第32軍が沖縄戦をやりやすいように助けた構造です。

 沖縄県民の4人に1人が亡くなった、日本兵よりも住民が数多く亡くなった沖縄戦の構造は、島田叡知事の戦争責任が非常に大きいと思います。

*1 泉知事は地上戦に備えた住民の疎開や、慰安所の設置に反対するなどして他県に転任になった。

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プロフィール

保坂廣志

(ほさか ひろし)
1949年、北海道生まれ。琉球大学法文学部元教授。沖縄戦を中心とした執筆、翻訳を行う。『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』(集英社新書)、『戦争動員とジャーナリズム 軍神の誕生』(ひるぎ社)、『硫黄島・沖縄戦場日記』(紫峰出版)など多数。共著に『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)などがある。

川満彰

(かわみつ あきら)
1960年、沖縄県コザ市生まれ。沖縄国際大学非常勤講師。2006年、沖縄大学大学院沖縄・東アジア地域研究専攻修了。 著書に『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)、『沖縄戦の子どもたち』(吉川弘文館)他、共著に『戦争孤児たちの戦後史1 総論編』〈共編〉(吉川弘文館)、『沖縄県知事 島田叡と沖縄戦』(林博史との共著、沖縄タイムス社)などがある。

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地下司令部壕が「住民スパイ説」の発信源だった――語り継いでいくことの責任