島田叡沖縄県知事のことが最近、美化されているが……
保坂 この本の中で、どうしても島田叡沖縄県知事については一言触れなきゃいけないと思って第5章に書きました。特にここ数年、島田知事の再評価というものが中央のメディアや、主要な研究者によっても行われています*2。
しかし島田知事には非常に重い責任があると私は思っています。たとえば、竹やり訓練を県が指導していました。防衛隊だとか婦人会、青少年団で、竹やり訓練をずっとやらせた。皆ほとんど武器がないわけですから、各家の入口に全部竹やりを置かせて、武装させたのです。それを指導したのが島田県知事です。「敵が来たら、竹やりでも何でもいいから相手を突き刺せ」「パラシュートで敵が降りてきたら、それで突き刺せ」と。
そして「(避難)壕の中に、いつまでも閉じこもっていてはいけない。チャンスがあれば、外に飛び出して刺せ」と。こういう命令を米軍が翻訳していて、米軍側の記録に残っています。
それで、米軍のほうも当然、知事命令で住民が武装して攻撃してくることを知っているわけだから、民間人にも攻撃の手を休めないようにするわけです。
*2 島田叡知事を美化した映画『生きろ』(2021)年、『島守の塔』(2022年)なども作られ、公開されている。
――歯向かってきたら殺さないといけなくなりますからね。
保坂 そういう命令を島田県知事がしていたのです。米軍側の記録に載っています。
川満 その記録は、保坂さんが発見したんですか。
保坂 はい。それで、米軍は「このやろう。やっぱり敵国民はみんな敵だ!」ということになる。県知事が命令しているわけですから。だから、あの映画のタイトルみたいに、県民に対して「生きろ」なんてとても言えないですよ。
川満 仮に言ったとしても、ごく一部の人に、でしょうね。「もう危ないから、おまえだけ生きておけよ」という感じの。
保坂 そういう証言は、けっこうありますね。日本兵が「おまえ、生きろ」と言ったという証言も多数あります。
川満 それはあくまでもヒューマニズム、美談であって。
――構造としては、とてつもない犠牲を強いるようなことを指示していたわけですね。
保坂 そうです。
沖縄戦後80年――語り継いでいくことの責任
――戦争体験者で、ご存命の人も、かなりいましたし。
川満 最後に、来年の沖縄戦80周年を前に、僕も仕事上でもいろいろ考えているんですけど、50周年とこの80周年の間に、どれだけ沖縄戦の実相が伝わったのかといったら、正直言って、沖縄戦は相変わらず本土に伝わっていない。この沖縄の、平和を考える心の部分というか、これが伝わっていない。逆に言うと、今、さらにひどくなってきている。今後、どうやって語り継いでいくのか。正直言って難しいですね。沖縄戦50周年を前に、だったら、けっこう何か言えたんですけど。
東京とか、あちこちに話をしに行ったときに言われたのは、「川満さん、学校で1年に1回、60分、太平洋戦争のことを授業に入れたら、もう十分な時間なんですよ」って。太平洋戦争全体の話で、たった1時間。
だから本当に、アジア太平洋戦争を含めて、沖縄戦をどうやって伝えるかというのは、ほとんど学校のカリキュラムに上がってこないんです。そんなことだから、50代の人たちでも「中国を日本は本当に攻めたんですか」なんて言う人がいる。
――今では日本がアメリカと戦争したことすら知らない人もいますね。
保坂 80年前だからね……。
川満 言えるのは、来年、沖縄戦から確かに80周年なんだけど、沖縄戦を経て結果的にできたのが米軍基地です。だから「自分たちは米軍基地問題の当事者なんだ」という感覚、意識ですよね。「米軍基地問題は、常に僕たちが当事者である」ということを振り返りながら、沖縄戦をたどる、そういうことができるんじゃないかな、と。
ただ、今、ややもすると、米軍基地の問題とか自衛隊基地の問題そのものについて、深く考えもせずに、反対とか賛成とか、その結論だけ出す人がいる。
そういうことではなくて、「本当にこれが平和のために正しいのか、これでいいのかどうか」という議論をするのが大切で。米軍基地がそこにあるという現実とともに生きてきた80年間があって、それをたどっていくと沖縄戦にたどりつく。そういう沖縄戦を語り継いでいくやり方は、これからもできるな、と。100年後でも、それはできる。本当は米軍基地がその時はなくなっていた方がいいのですが。
時代時代の指紋や足跡をたどっていくことでつないでいく
保坂 ちなみに、私が生まれる80年前というのは、ちょうど明治元年頃です。「それを想像せい」というほうが不可能だと思うんですよ。その後、日清・日露戦争があって……というのは、逆立ちしても分からない。
私が生まれる80年ちょっと前は江戸時代ですよね。それを想像できる人は誰がいるか、ということ。
80年間というのは、そのぐらいの歴史的な流れを含んでいるわけです……。
ただ、「集団的記憶」というのですが、歴史というのは、あちらこちらに、うまく人々の足跡を残していくものですよ。その時代時代の指紋や足跡とかをたどっていくことによって、現在に記憶をつないでいくことが可能になります。
たとえば、そこには壕がある、ガマがあるとか、慰霊碑があるとか。そういう端々の指紋や足跡というものをつなぎながら、皆が確かにそういう出来事があったな思い出すものが出てきます。
たとえば徳川家康は、「ずっと頑固ジジイ」だったとか、秀吉だったら「気が短い」とか。時代に特化された集団的記憶の中に、何百年続いている記憶もあるという。
だから、80年前の戦争という時代の中に、人々の語りを取り入れ、どこにその問題があっかを次代の指紋としてつないでほしい、80周年はそういう年であってほしいなと、今考えています。
歴史の負の遺産も引き受けること
川満 80周年は、闘う年かもしれないですね。安保と有事法と。もうまさしく今、台湾有事の危機とか、これだけ言われているわけでしょう。前述したように(前編参照)、「新しい戦前」「新しい戦争の道」が来ているわけだから、実際に。そういう論調と闘う中で、「戦争絶対反対」ということをやりながら、沖縄戦を学ぶということをやっていく。「これが新しい戦争の道なんだ、80年前と同じなんだ」というのを皆で理解していくのが大事で。
保坂 あと、少し前北海道の中学同期会に行ったとき「戦争になったらどうするの?」と聞いたら、皆、「大雪山に逃げるよ、山に逃げるよ」って。向こうの場合は、逃げることができるわけですよ、奥があるから。沖縄戦は島だから、逃げようがなかった。
だから「人はこうやって殺されるんだ」ということを、口をきわめて何回も何回も言わなきゃいけない。沖縄のような島で、逃げ場所はないところで、同じことをやってはだめだ、と。
そしてこの第32軍司令部壕というのは、歴史の中のさびた指紋であり、足跡なんです。それを首里城と一体化させて、公開していくということ、これこそ歴史の中につなげていく課題じゃないかと思うんです。
首里城は、皆からすると理想の桃源郷ですよね。沖縄の人たちの心の支えですよね。その足元にこの司令部壕があったということです。
歴史の指紋を見せること、足跡を見せることによって「人はこういうふうに殺された」ということを、この80周年に際して見せなきゃいけないし、そのために公開しなきゃいけないと思います。
川満 それを振り返って学ぶという行為を、どれぐらいの人がどれぐらいの深さ、量でできるか、というところに、今の沖縄の平和問題はかかっているかもしれないですね。
保坂 アメリカ人の沖縄戦体験者で非常に興味深いと思うのは、70歳、80歳になっても沖縄戦のことを考えて眠れなくなる元兵士がたくさんいるということです。米軍の中でそういう人たちを受け止める組織があるのですが……。
トラウマが続いてきて、今まで語らなかったこと、特に虐殺のシーンを見ていたとか、残酷なシーンがフラッシュバックして眠れなくなってくる。それで本を書いたり、記事を書き始める人がいる。
日本人も同じじゃないかと思います。沖縄戦を体験した兵士の多くは何も言わないわけだけど、同じことでしょう。「沖縄の人を殺した」とか「自分が殺した」とは誰も言わない。でも彼らだって、心のどこかに傷があるわけで。
川満 教科書問題で原告として話題になった家永三郎さんが、『戦争責任』(岩波現代文庫)という本の中で、当時の子どもまでも責任がある、というのを彼は書いていて、「なんで子どもも?」と思ったら、「当時の子どもは戦争を伝える責任があるんだ」ということで。「自分が体験した戦争を伝えるには、大人たちよりも子どもたちが一番長生きするんだから、彼らは、そこを伝える責任があるんだ」ということをきちんと言っていて、その着眼点は、すばらしいなと思いました。
――語り部としての責任があるんだ、と。
保坂 家永さんが書いていることのもう一つは、「財産には正の財産と負の財産がある」と。父親が死んだときに、皆にお金を残したら、これは正の財産。死んだときに借金取りが来たら、これは負の財産。
戦争が終わった後も、この借金、負の財産は、子や孫が引き受けなきゃいけない。だから「勝った、勝った」とかいうものだけじゃなくて「負けたときにどういう責任があるのか」という負の財産を、皆が受け入れなきゃいけない、と。
そうすると、韓国の問題なんかも分かりやすくなります。すぐ、「日本は朝鮮半島を統治した時期にいいことをした」ということを言いますよね。あそこに銀行を作ったとか、いい建物を作ったとか、鉄道を敷いたとか。それは正の財産だけども、負の財産もしこたまある。それを引き継げと。(了)
プロフィール
(ほさか ひろし)
1949年、北海道生まれ。琉球大学法文学部元教授。沖縄戦を中心とした執筆、翻訳を行う。『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』(集英社新書)、『戦争動員とジャーナリズム 軍神の誕生』(ひるぎ社)、『硫黄島・沖縄戦場日記』(紫峰出版)など多数。共著に『争点・沖縄戦の記憶』(社会評論社)などがある。
(かわみつ あきら)
1960年、沖縄県コザ市生まれ。沖縄国際大学非常勤講師。2006年、沖縄大学大学院沖縄・東アジア地域研究専攻修了。 著書に『陸軍中野学校と沖縄戦』(吉川弘文館)、『沖縄戦の子どもたち』(吉川弘文館)他、共著に『戦争孤児たちの戦後史1 総論編』〈共編〉(吉川弘文館)、『沖縄県知事 島田叡と沖縄戦』(林博史との共著、沖縄タイムス社)などがある。