演出家、マンガ原作者にして大学教授も務める竹内一郎氏の新刊『人生は「声」で決まる』(朝日新書)。2005年に発売された『人は見た目が9割』(新潮新書)以来、「非言語コミュニケーション」の重要性を指摘してきた著者が、今回は「声」を取り上げている。
「文字」より先に「声」ありき。しかし現代は…
「声は人なり」、今回の本ではそれを伝えたかったですね。声は私の「非言語コミュニケーション」論の終着点なのかもしれません。
『人は見た目が9割』を書いたときには、声のことまで意識していたわけではないんです。その後、『やっぱり見た目が9割』(2013年、新潮新書)、『結局、人は顔がすべて』(2016年、朝日新書)では表情について書きました。これらはビジュアルによるコミュニケーションですが、今度の本はサウンドです。情報伝達の道具としての声ではなく、声そのものに注目してみました。
人類の歴史を考えると、言葉が生まれる前から声は存在していました。声そのものによるコミュニケーションがあった。発声や抑揚といった声の調子によって愛を語ったり、SOSを伝えたりしていたはずです。鳥たちがさえずりでコミュニケーションをしているように。
言葉が生まれ、共同体の中で体系化され、やがて文字が生まれる。そしてさらに時代が下って、印刷技術が発明された。言葉は紙に書かれ、活字になって伝達されるようになりました。声なしの言葉が流通するようになった。その過程で、声が持つプリミティブな伝達力が、人間のコミュニケーションから徐々に抜け落ちていきました。
──そして、今はパソコンやスマホでメールをやり取りする、文字を多用するコミュニケーションの時代になっています。
今は活字が伝達手段の王座にあると言っていいでしょう。便利ではありますが、インターネットやSNS上で飛び交う言葉を見ていると、炎上が頻繁に起こっているのも当然という気がするんです。
ネットやSNSでのコミュニケ―ションはたしかに便利です。効率もいい。しかし、その効率は主に伝える側にとってのものであって、受け取る側は抜け落ちている情報があるために、きちんと伝わらない。非常に誤解を生みやすい状況になっています。文字だけだと、声のトーンや顔の表情などの非言語コミュニケーションには含まれているニュアンスが伝わりませんから。同じ言葉であっても、顔と顔を突き合わせて声の調子と表情がわかる形で伝えれば、相手を怒らせたり、炎上したりすることもなくなるような気がします。
私に非言語コミュニケーションの重要性を気付かせてくれたのは、舞台の演出やマンガ原作の仕事でした。演出のときは「犯人の役だから、こんな声で」などと役者さんに言って、ときにはダメ出しもしているわけです。犯人はそんな声で話さないだろとか、刑事はこんな話し方をするだろうと。それが可能なのは、キャラクターごとに話し方のイメージが社会で共有されているからです。それは決して言葉だけではなくて、声や話し方から醸成されているイメージです。
40歳でマンガの仕事を始めたときに、気づかされたことがありました。少年マンガの情報量は青年マンガと比べて1.3倍多いと言われています。実際、青年マンガは絵が省略される傾向があるのに対して、少年マンガは絵を緻密に描き込んでいます。
少年マンガに重要な情報、たとえば迫力や勢いを出すことは言葉では無理です。言葉ではないもの、もっと本能に訴えるものを描き込まなければならない。それを描くには大変なエネルギーが要求されます。しかし、それをやらなければ伝わらないものがあるということだと思います。
──「非言語コミュニケーション」が本能に訴える伝達手段であり、その中で声がとりわけ重要であるというのが『人生は「声」で決まる』のテーマです。そのことに気づき始めている人たちがいるのか、たとえば幼児教育の現場で「読み・書き」よりも「聞く・話す」を重要視するようになってきているようです。
文字よりも前から存在していた声は、本能に訴えるコミュニケーションの王座にあったはずです。それが、「聞く・話す」よりも「読み・書き」の効率を優先するようになってしまった。たとえば誰かが話しているのを映像で見たり聞いたりするよりも、それを活字にしたものを読むほうがずっと短時間で済んだりします。
しかし、短時間で済ませられるようになった代わりに、社会は本当に必要な、ある種の情報を捨て去ってしまったような気がします。今の時代は特に、効率が悪いものを肯定するのはなかなか難しいですから。
CDの音も「人間の可聴域ではないから」という理由で、アナログでは「聞こえている」音をカットしてしまっています。しかし、聞こえないからといって人間に不必要であるとはかぎりません。これも、必要なものだけあればいいという効率重視の結果だと思いますが、その結果、伝わるものが違ってきてしまっている。
声によるコミュニケーションの機会が減っている背景には、家庭環境もあるでしょう。3世代が同居していれば、自然と家庭内で声によるコミュニケーションの場面が多くなる。孫からすれば、おじいちゃん、おばあちゃんと話すとき、お父さん、お母さんと話すとき、兄弟と話すときでは違った言葉と違った声の使い方をしていたはずです。声によるコミュニケーションのバリエーションを学ぶことができた。
さらに、学校など家庭の外では、また違うコミュニケーションがある。家の中にいてもメールでやりとりをする親子もいると聞きます。大人は声を出さない現状に違和感を持ってほしいと思います。
私が演劇という表現手段にこだわってきたのは、効率の悪いものを捨て去れないからだと思います。つまり「非言語コミュニケーション」を捨て去れないということです。コミュニケーションがすべてパソコンとスマホを使ったものになってしまっていいのか?と考えると、すごく危機感があります。子どもたちには「聞く・話す」によって、人間本来のコミュニケーションを取り戻してもらいたいですね。
プロフィール
1956年、福岡県生まれ。劇作家・演出家。宝塚大学東京メディア芸術学部教授。原案を担当した『哲也 雀聖と呼ばれた男』で講談社漫画賞受賞(筆名・さいふうめい)、『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』ではサントリー学芸賞を受賞。著書に『人は見た目が9割』『やっぱり見た目が9割』(新潮新書)、『その癖、嫌われます』(幻冬舎新書)、『優柔不断は“得”である~【人生の損益分岐点】の考え方』(扶桑社新書)、『結局、人は顔がすべて』(朝日新書)など多数。