鼎談

第三回「センセイはえらい」とスーフィズム

内田樹先生、スーフィー研究者に会う
内田樹×中田考×山本直輝

スーフィズムを伝える言葉

山本 実は少年漫画というのは修養や修行に関する描写がたくさんあって、例えば『NARUTO―ナルト―』でも先生と一緒に食べるシーンとか結構たくさんあるじゃないですか。修行も絶対出てくる。ムスリムが何で漫画を好きかというと、実はさっき説明した伝統的な自分たちのスーフィズムの中で培われてきた概念とか、伝統と同じようなものがあるから親近感を感じているから好きなんだと言うんです。そこで自分の中で、日本文化とスーフィズム文化とかイスラーム文化を比べ直す必要があるなと思って始めたんですね。

 例えば私の教え子がある日興味深いことを言ってくれて。「少年漫画のどういうところが好きなのかというと、少年漫画の先生は完璧じゃないところがいい」と。『NARUTO―ナルト―』の自来也というキャラは普通で考えたら変態じゃないですか。でも、少年漫画ってそういう不完全な、タンジブルとかフラジャイルな人に導かれて主人公が成長するし、かつその師匠というのが大体過去に大きな間違いを犯しているんです。それを主人公に打ち明けたときに割と本当の師匠になれるみたいな、師匠と弟子がお互いに支え合って精神の完成に近づいていくみたいなシーンがたくさんあるんです。

 ヨーロッパのコンテンツを見ていると、いわゆる「ポリコレ」的メッセージを強く感じるから嫌だというムスリムの若者が結構多くて。でも、日本の漫画というのは、何かあっちのポリティカルなメッセージをこっちに送ろうとしているのではなくて、人間理解を深めようというメッセージを感じると。メッセージというのは、要求ではなくて、倫理とは何かとか、道徳とは何かという問いを与えてくれるところが良いんだそうです。

中田 基本的に現代西洋のリベラルな知識人の考え方の基本はカントなんですよね。絶対的な自由が至高の価値であって、自立的、自律的な人間、それが理想で、自分以外の何物にも、他人にも伝統にも神にも、頼ることなく自分で判断するという。これは近代の考え方なんです。ヨーロッパでも実は以前は違って、それまではずっと、アリストテレスとかプラトンとかの伝統では、道徳というものは、アカデミアで何年も一緒に暮らして長い時間をかけて身につけていく、身体化されたものであると考えられていました。キリスト教でも徳とは長年にわたる修道によって達成されると考えられていました。それが近代になって変わってしまったんですね。

内田樹 「修行」という概念は欧米にはないんです。知り合いに藤田一照さんという曹洞宗の禅僧がいるんですけれど、藤田さんはアメリカに長くいて、坐禅の指導をされていた。藤田さんとお話ししたときに、「行」という言葉を英語ではどういうんですかと訊いたことがあります。トレーニングじゃないし、エクササイズでもない。プラクティスはどうでしょうと訊いたら、プラクティスは本番の舞台に備えて準備するという意味があるから、それもやはり違うと言われました。英語には「行」に当たる言葉がないんです。「行」というのは、要するに目的地が分からないまま歩いているということなんです。どこに向かっているのか分からない。言葉にできない。自分が「全行程」のどのあたりに来たのかも、あとどれくらい修行すれば、どのあたりにたどり着けるのか、それも分からない。ただ、先達の後をついてどこまでも歩いてゆくだけで。歩いてゆく道はわかるんです。先達がいますから。でも、その先は地平線の向こうに消えている。地平線までたどり着いても、その先はまた地平線のかなたに消えている。目的地はわからない。藤田さんがアメリカで教えたときに、結構一生懸命坐禅を組む人がいて、よく頑張っているなと思うと、そのお弟子さんが「始めて3か月なんですけれども、あとどれくらいで『悟り』に達せるでしょう?」と訊いてきたんだそうです。彼らは坐禅には全体の行程表があると思っている。何か月、何時間、坐禅を組んだらどの「レベル」に達して、何年修行したら「悟り」に達するのか、そういうスケジュールを教えて欲しいと言われて、「そんなのありません」と答えたら、驚かれたそうです。

 欧米のキリスト教文化圏では、全体の構造というのは、理論的にはあらかじめ与えられているわけですね。世界の頂点に創造主がいて、その下に人間がいて、動物がいて、植物がいて、無生物がいるという全体の「秩序(order)」がある。だから、人間が霊的向上をめざして努力すると、「いまどのへんに来た」ということについてある程度は「マップ」できるはずなんです。低いレベルから霊的上位に達する行程を歩いている自分というのをたぶんイメージできると思っている。でも、「行」というのは、そういうふうに自分の歩みを一望俯瞰できる上方的視座そのものがないんですよ。


なぜ通じるのか? 漢語とアラビア語の精神的土壌

山本 例えばその「道」を英語でどう伝えるかというとすごい難しい問題ですけど、アラビア語には「タリーカ」という道に相当する言葉があるんです。剣道や花道、茶道みたいな修行の方法としての「道」の意味でつかわれていて、先ほどいったメヴレヴィー教団もアラビア語では「メヴレヴィーのタリーカ」と言います。教団ではなくで、メヴレヴィー道と訳した方が実は日本人には意味がつかみやすい。

中田 アラビア語で「タリーカ」というのは文字どおり道(みち)を意味するんです。道(どう)なんです。さっきの行も、実は「スルーク」という言葉があって、これも字義は「歩んでいくこと」という「歩く」という動詞の動名詞形なんですね。まさに「行(ぎょう)」なんですよ。「行(ぎょう)」も、「スルーク(行)」と言えばそれだけで通じるんです。「修行」の意味になりますし、「タリーカ(みち)」も、そのまま道(どう)になるので、師匠がいるというのも、そのまま通じるんです。中国語でもそう訳されていますしね。それは文字どおり広い意味がそのまま伝わるんですね。行もあれば道もあるという。

山本 漢語のイスラームの本というのが15世紀ぐらいから書かれているんですけど、イスラームにとって礼拝とは何かという問いが立てられていて、その答えが、礼拝とは修道なりと。修道というのは道を修めるという。でも、これをヨーロッパ言語にどう訳すかってすごい難しいじゃないですか。でも、日本人だと、漢語を読めなくても、修道というキーワードで何となく感覚で分かるじゃないですか、何をやろうとしているのかというのが。これって、日本人のアドバンテージだと思うんですよね。

 我々がイスラーム文明で培われていたアカデミックな言語を理解できる古典漢語を日常的に使っているという。

漢語で書かれたイスラーム古典

中田 古典の中国語と現代日本語ができると、東アジアを制覇できる。

山本 その二つが使われている『NARUTO―ナルト―』とかのアニメ日本語は最強ですよ。道って言うじゃないですか。これが俺の忍道だという。まさに忍のタリーカみたいな。

中田 そうそう、修行とか、行とか、そういったところなんだよね。

山本 あと、「先生」って、今、グローバル言語になってるじゃないですか。

中田 ああ、そうなんだ。確かに先生という言葉がないよね、ヨーロッパ語にはね。

内田 フランスの人は「ウチダセンセイ」と言いますね。

中田 日本語で言うわけですね。

内田 ほかにぴたっとしたのがないんでしょうね。

山本 トルコ語の「ホジャ」の完璧な翻訳語は先生なんですね。この意味でも、我々には我々の文化圏の外からの何かを介することなく直接イスラーム世界と対話できる共通語彙もある。トルコでは学生は僕のことをSenseiと言いますね。

中田 先生と呼ぶわけね。それもホジャの感覚なのね。

山本 はい。ただし、一度「センセイ」と呼んでみたかったみたいなオタクが大量にいる。日本人がいるから先生と使ってみようという。

中田 そうか、そうか、それで感激するわけですね。それだけでもね。

山本 あと、「センパイ」という言葉もすごい使いたいらしいですね。先輩、後輩みたいな。

中田 ああ、そうか。それもないんだね。そのレベルでアニメ日本語というのを共通言語にしていくのはすごく意味のあることです。

内田 例の「リンガフランカとしてのアニメ日本語」ですね。

山本 例えば前回も話題に出した「型」ってあるじゃないですか。イスラームの礼拝とか、動きとかも、全部型ですよね。預言者の型を今に受け継ごうとするという。

 「礼拝には森羅万象のフォームが全て宿っている」と西アフリカのスーフィーが言うんですよ。屈伸しているときには、「あれは馬のフォーム」なんだと。土下座しているときは大地のフォーム、突っ立っているときには木のフォーム。それを人間が全て統合するという。「あれは天地人全てが備わっている」みたいなことを言うんです。

中田 『鬼滅』の「型」みたいなイメージ。

山本 そう。やっぱりあれは型なんですよ。型と言ったらすぐ分かるじゃないですか。

中田 日本だとそうだね。そうやって日本語もイスラーム世界で教えていくと、彼らにとっても自分たちの伝統文化を、ヨーロッパ目線でなくて、誇りを取り戻せるという、そういう側面もあるので。

山本 イスラームの文明が分かるのはこういう語彙を持っている日本人でもあるし、反対も同じように、日本のことを一番理解できるのは実はムスリムかもしれないという。そういう意味では、ムスリムが実は我々のベストフレンドになってくれるポテンシャルは十分あるわけで。ナキーブ・アッタースというマレーシアの知識人が、ムスリムというのは言語の世俗化による意味論的混乱状態にあると言っています。

 それは自分の伝統をどう表現するのか、例えばクルアーンとか聖典に書かれている語彙をどう理解して、どう実践するのかと考える言語的土台が西洋化、近代化によって失われてしまっているみたいな意味だそうです。でも、日本の少年漫画はイスラーム文明、特にスーフィズムが大事にしてきた師匠と弟子、教えや型の伝承、不完全な人間が精神的完成を目指すプロセスなど、伝統的な「ビルデゥングスロマン(教養小説)」の構造を保っている。つまり、漫画を読んでいる日本人は、実は中東に関するニュースを追うよりもずっとイスラーム世界を「味わう」ための語彙や世界観を持っているのかもしれないじゃないかって。

中田 その先陣を担うのが集英社なんですね。本当にそうなんです。さらに現代日本の料理の紹介の漫画とかになってくると、確かに集英社じゃなくて、ほかの出版社にもいっぱいあるんですけれども、今まで話してきた、若者に希望を与えるとか、生きる道を示すとか、そういう作品は圧倒的に集英社ですね。別にお世辞を言うわけじゃなくて。

山本 集英社は漫画文化のカノンを出版しているようなものです。「スーフィズム入門という企画を日本の出版社のために日本語で書いています」と言うと、みんなそんなにピンとこないんですけど、それが『NARUTO―ナルト―』の出版社ですと言うと、「うそだろ!すごい!」みたいな。「『NARUTO―ナルト―』の出版社がスーフィズムに興味持ってるのか」みたいな反応があって、そこに希望を見出すんですよね。これはすごいポテンシャルなんです。少年漫画の会話とかを抜き出して日本文化を語る教科書なんかがあればむちゃくちゃ売れると思います。

内田 集英社がイスラーム世界において漫画文化の「聖典」の版元だと思われているというのははじめて聞きましたけれど、たしかにそういう理解って、欧米の言説を経由してイスラーム世界を理解しようとしている限り、決して出てこないですね。よい話を伺いました。

 欧米的なまなざしを経由すると、イスラーム世界は「中近東」ですが、これはヨーロッパから見て、「近い東」か「ちょっと遠い東」かという地理的な隔たりをしか意味していません。遠くなるほど、そこに住む人たちは自分たちと異質なものになってゆくということが前提にされている。だから、日本はヨーロッパからは「極東」になる。

 米軍が日本の米軍人をオーディエンスに流すFENというラジオ放送がありました。Far East Network なんです。でも、この放送局名が中学生のときから納得がゆかなかったんです。だって、アメリカから見たら日本は太平洋の西の彼方にある国じゃないですか。でも、ラジオ局の名前は「極西放送」じゃなくて、「極東放送」なんです。アメリカから大西洋に向けて発信された電波がユーラシア大陸を経由して、地球を4分の3周して日本に配信されているというかなり無理のあるイメージを受け入れないとアメリカにとって日本は「極東」にはならない。

 僕たちはそのような欧米固有のコスモロジーに進んで身を添わせる義理はないと思うんです。僕たちからすれば中国やモンゴルは「近西」であり、トルコは「中西」に当たる。だとすれば、そういう枠組みで、僕たちから見た「中近西」というものを構想してもいいんじゃないか。そんな気がしました。新しいコスモロジーの可能性を示唆してくださったことについて、お二人に感謝します。面白い話を本当にありがとうございました。【了】

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関連書籍

一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教
宗教地政学から読み解くロシア原論 (イースト・プレス)

プロフィール

内田樹

(うちだ たつる)

1950年東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。著書に『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)『日本辺境論』(新潮新書)『街場の天皇論』(東洋経済新報社)など。共著に『世界「最終」戦争論  近代の終焉を超えて』『アジア辺境論  これが日本の生きる道』『新世界秩序と日本の未来』(いずれも集英社新書・姜尚中氏との共著)『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』(集英社新書・中田考氏との共著)等多数。

中田考

(なかた こう)

1960年岡山県生まれ。イスラーム学者。東京大学文学部卒業後、カイロ大学大学院文学部哲学科博士課程修了(哲学博士)。在サウジアラビア日本国大使館専門調査員、山口大学教育学部准教授、日本学術振興会カイロ研究連絡センター所長、同志社大学神学部教授、同志社大学客員教授を経て、イブン・ハルドゥーン大学(トルコ)客員フェロー。著書に『イスラーム 生と死と聖戦』『イスラーム入門』『一神教と国家』(内田樹との共著、集英社新書)、『カリフ制再興』(書肆心水)、『タリバン 復権の真実』 (ベスト新書)、『宗教地政学から読み解くロシア原論』(イースト・プレス)他多数。

山本直輝

(やまもと なおき)

1989年岡山県生まれ。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。 トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教を経て現在、国立マルマラ大学大学院トルコ学研究科アジア言語・文化専攻助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。集英社新書プラスで「スーフィズム入門」を連載(終了。現在新書として編集中)https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/cc/sufism

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