バレンティーノ・ロッシの凄さがわかるレースベスト5

MotoGP最速ライダーの肖像 2021 ロッシ スペシャル①

西村章

『MotoGP最速ライダーの肖像』(西村章・著/集英社新書)発売記念として、今季のMotoGPと、そこで戦うライダーの実像をお届けしてきた短期連載は前回記事(5月25日公開)でおしまい…のはずだったが、今季のレースを見て、どうしても気になるテーマが浮かんできた。それは「もしかしたらバレンティーノ・ロッシは今季限りで引退か?」ということだ。そこで急遽、番外編を企画。今回は独断で選ぶ「ロッシのベストレース5」だ!

 早いもので、MotoGPは2021年シーズン全19戦のうちすでに7戦を終了した。3月末の開幕戦カタールGPから第7戦のカタルーニャGPまで、毎戦それぞれにドラマチックな優勝争いが展開され、レースウィークのたびにさまざまな話題が持ち上がってきた。そんななかで、とくに今年の場合は開幕以来通奏低音のように囁かれ続け、皆がずっと注視をしていることがらがある。

 バレンティーノ・ロッシの去就だ。

今季はシングルフィニッシュすらない苦戦が続くバレンティーノ・ロッシ(写真/MotoGP.com)

 21世紀のMotoGP界最大の功労者といっても過言ではないスーパースター、ロッシは現在42歳。1996年に最小排気量の125ccクラスでデビューを飾ってから、すでに四半世紀が経過している。今の若手ライダーが生まれる前から世界の頂点で戦い続けてきたという意味では、まさに〈生ける伝説〉というべき存在だ。

 現在に至るここまでの長い年月のなかで、ロッシは9回の世界タイトル(125cc-1、250cc―1、500cc/MotoGP―7)を獲得した。表彰台獲得数でいえば、優勝115回(125cc―12、250cc―14、500cc/MotoGP―89)、2位67回(125cc―1、250cc-5、500cc/MotoGP―61)、3位53回(125cc―2、250cc-2、500cc/MotoGP―49)。これらの数字が、彼の歩いてきた道の長さと偉業の凄味をなによりも雄弁に物語っている。ここに至るまでの彼の足跡の数々は、先日刊行した拙著『MotoGP 最速ライダーの肖像』で、収録全12選手中最長の39ページを割いて紹介したとおりだ。

 その彼が、今シーズンは苦戦を続けている。

 史上最速最強の名を(ほしいまま)にしてきた彼の現在の姿を、我々ははたしてどのように受け止めればよいのか。これについては、開幕戦カタールGPを終えた際に『バレンティーノ・ロッシは矢吹丈である』(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/13783)と題して、当サイトに寄稿をさせてもらった。

 以来、ここまでの7戦でチャンピオンシップポイント(15位以内)を獲得したレースはわずか3戦。最高位はホームグランプリの第6戦イタリアGPでの10位という状態だ。「今年前半での自らのパフォーマンスを見たうえで、夏頃には現役継続か引退かの去就を決めたい」、開幕前からそう話していただけに、この低迷する成績を前にパドックの憶測はいま、ひとつの方向へと収束しつつある。それは彼の現在の成績を見れば、ある意味でやむを得ない推測といってもいいかもしれない。

 だが、いずれにせよその結論が当事者である彼自身の口から発せられるまでは、今はまだ拙速な判断は差し控えておきたい。

 とはいえ、これだけ長いキャリアを持つ選手だと、若いファンのなかには、なぜこれほどまでに彼の去就に注目が集まるのか、ピンとこない人たちもいるかもしれない。長いながいレースキャリアのなかで彼が成し遂げてきた数々の偉業や奇跡のようなレースを同時代で経験していなければ、彼の出処進退が持つ意味の重さを皮膚感覚で理解できないのも当然のことだろう。

 そこで今回は、ロッシのずば抜けた才能を象徴するレース・ベスト5を選んでみた。これらのレースを観戦したことのない方々は、ぜひMotoGP公式サイト(https://www.motogp.com/)のビデオアーカイブ等で視聴し、各レースでロッシが見せた目くるめく速さと圧巻のレース運びをぜひともご自身の目で確認されたい。その一方で、目の肥えた諸兄諸姉のなかにはこのランキングに異論を持つ方々もあることだろう。だが、なにせ上記のとおりものすごい数の勝利数と表彰台数を誇る選手である。意見の違いは、皆様のリモート飲み会等の肴にでもしていただければ幸甚である。というわけで、ではさっそくカウントダウンに参りましょう。

 

 第5位 2017年オランダGP
 現状では、これがバレンティーノ・ロッシのもっとも直近の勝利だ。この優勝以降、現在に至るまでロッシは表彰台の頂点に一度も立っていない。

最後の優勝表彰台となっている2017年のオランダGP。もう4年も優勝から遠ざかっているとは…(写真/竹内秀信)

 オランダGPが行われるTTサーキットアッセンのレースは、もともと〈ダッチTT(ツーリストトロフィ)〉という公道レースとして1925年にスタートした。そこで開催される6月最終週のレース期間は〈TTウィーク〉と呼ばれ、日本でいえば高校野球や箱根駅伝のような、あるいはそれ以上の国民的スポーツ行事として広く親しまれている。世界グランプリには初年度の1949年にカレンダーに組み込まれ、それ以来毎年連綿とレースが行われてきた唯一の会場だ(2020年のみ、新型コロナウイルス感染症の影響により開催が中止になった)。

 しかも、この大会に限っては、決勝レースが毎年土曜日に開催されていた。日曜日には近隣の教会が宗教行事を行うため、というのがそもそもの理由だ。この伝統は近年までずっと踏襲されてきたが、2016年からようやくダッチTTも他のレースに合わせて日曜に決勝を行うスケジュールへ変更になった。

 アッセンが「ロードレースの大聖堂(Cathedral of Speed)」という愛称で呼ばれるのは、以上のような歴史的事情がその背景にある。このアッセンで、ロッシは数々の名勝負を繰り広げ、見巧者(みごうしゃ)が多いアッセンのレースファンを唸らせ、虜にしてきた。

 また、このアッセンは天候が非常に不安定なことでもよく知られている。晴れていたかと思えばいきなり雨が降りはじめ、すぐに止んでふたたび光が射してくる、という予測のつかない〈ダッチウェザー〉は、往々にしてレースの行方を大きく動かす。

 2017年のレースは、これらの要素が勝負の機微を左右する戦いになった。選手たちがグリッドについたときは、いつ降り出してもおかしくない雲行きで気温もこの季節としては冷える18℃と、いかにもアッセンらしいコンディションでレースが始まった。

 やがて雨がぱらつき始め、転倒者が続出。コースサイドのマーシャルポストには、ウェット用タイヤを装着したマシンへの乗り換えを許可する〈フラッグトゥフラッグ〉の白旗が提示された。ピットへ戻ってマシンを乗り換える選手もいるなか、トップグループを構成するロッシやダニロ・ペトルッチ(ドゥカティ)、アンドレア・ドヴィツィオーゾ(ドゥカティ)、マルク・マルケス(ホンダ)たちはほどなく雨は止むはずと読み、ピットに戻らずコース上で戦い続けた。

 最後はマルケスとドヴィツィオーゾが遅れ、ペトルッチと一対一の対決になった。そのバトルを優勢に進めたロッシは、最後は0.063秒差でトップのチェッカーフラッグを受けた。全クラス通算115勝目、そしてアッセンでは10回目の優勝となる勝利を挙げた38歳のロッシは、決勝後にこんなことばを述べた。

雨が降ってきても、天候を読んだベテランらしい走りで激戦を制した(写真/竹内秀信)

「レースで勝利したときの余韻はなにものにも代えがたい。優勝のあと5時間も6時間も続くこの喜びを噛みしめるために、ぼくはずっとレースをしているんだ」

 第4位 2009年カタルーニャGP
 ロッシの名勝負といえば、いつも候補に挙がるのがこのレースだ。ロッシ自身も印象に残る過去の戦いを問われた際には、このレースをかならずベストのひとつとして挙げることが多い。

 当時のロッシは30歳。まさに心技体すべての面で絶頂期にあった時期だ。また、最高峰クラス2年目のチームメイト、ホルヘ・ロレンソとヤマハ内部の開発主導権を争う緊張関係という面でも、争いはピークに達していた。

 カタルーニャGPは、ロレンソのホームグランプリで、このレースにはF.C.バルセロナとコラボレートしたスペシャルデザインのコスチュームで臨んでいた。金曜の練習走行から気合いに充ちた走りで、土曜の予選ではトップタイムでポールポジションを獲得。一方、ロッシも互角のタイムで僅差の予選2番手。ヤマハファクトリーの両雄がともにフロントローからのスタートとなった。

 日曜の決勝レースがスタートすると、ロッシとロレンソは後続選手たちを序盤で引き離し、あっという間に一対一の対決モードへ持ち込んだ。ふたりは互いに一歩も退かず、コース上のいたるところで真っ向勝負のバトルを続けた。

キャリア絶頂期の名バトル。チームメイトで若きチャンピオン候補、ロレンソを僅差で抑え切った(写真/竹内秀信)

 ラスト2周には緊迫感が最高潮に達し、ロッシーロレンソの順で最終ラップへ向かった。1コーナーでロレンソが前に出ると、その直後にロッシがインを突いて前を奪い返す。ところがロレンソはラインを即座に交錯させて、トップを譲らない。

 ふたりは、ロレンソーロッシの順で最後の右・右・右と連続する最終区間へ入っていった。

 ひとつめの右は上り勾配。2つ目と3つ目の右は下りながらホームストレートのゴールラインに向かってゆく。

 この2つ目の右コーナーでも、僅差でロレンソが前にいた。ゴールラインまでこの位置関係は覆せず、ロレンソーロッシの順でゴールラインを通過してチェッカーフラッグを受けるかにも見えた。その瞬間に、最後の右コーナー進入でロレンソのイン側に空いたごくわずかなラインの隙を見逃さず、ロッシがブレーキングで隙を突くように深く入ってゆき、ロレンソの前に出た。

 この最終ラップ最終コーナーの大逆転で、ロッシは0.095秒差の勝利をチームメイトからもぎ取った。文字どおり乾坤一擲のバトルを制したこのときの攻防を見て思い出すのは、当時のヤマハのエンジニアがよく言っていたこんなことばだ。

最終ラップの最終コーナーで抜き、0.095秒差での勝利。ロッシの勝負にかける執念がわかるレース(写真/竹内秀信)

「バレンティーノからいつも言われるのは、『とにかくブレーキングの強いバイクにしてくれ』ということです。『ハードブレーキングに耐えられるバイクにさえしてくれればいい。あとは全部、自分でなんとかする』と、彼はそこだけをいつも強調してきます」

 そしてじっさいに、ブレーキングで勝負のできるバイクがあれば、このレースのようにあとはすべて自分の技術と戦術を武器にして彼は勝利を積み重ねてきた。まさに無敵だった時代のロッシの姿が、ここにはある。

 MotoGP公式サイトには、名コメンテーターとして名高いニック・ハリスとギャビン・エメット両氏によるこのレース実況放送がアーカイブされている(英語)。緊迫感と昂奮が存分に伝わってくる名実況だが、じつはこのレースでは、イタリアでMotoGPの放送を担当していた名物アナウンサー、グイド・メダ氏の実況が最高に面白く臨場感に富んだ内容だった。「ロレンソが狙っている。危ないぞ、気をつけろ!!」「見たか、すごいぞ。これがロッシのブレーキングだ!」など、イタリアの放送局だけに内容はロッシ贔屓ではあるのだが、とにかくテンションの高さと昂奮度合いが尋常のレベルではない。絶叫しすぎてラスト数周は声が涸れてしまい、最終ラップ最終コーナーの攻防になるともはや肺に空気が残っておらず、ぜいぜいいうだけの状態。イタリア語がわからなくても、あまりの凄さに笑ってしまうこと請け合いだ。動画投稿サイトなどで探せば、ひょっとしたら関連映像が見つかるかもしれない。

 

 第3位 1999年スペインGP

 中小排気量クラス時代の象徴的勝利として、このレースを挙げておきたい。

 1999年は、20歳のロッシは250ccクラス2年目のシーズンだった。アプリリアファクトリーチームに所属し、圧倒的な勝負強さはもちろん、ユーモラスで茶目っ気たっぷりのウィニングランパフォーマンスで人気者の地位をすでに確固たるものにしていた。その数々のパフォーマンスでも、もっともユニークで印象的なのがこのスペインGP・ヘレスサーキットで優勝後に披露したものだ。

1999年、250cc時代。走りでもマシンやスーツのカラーリングでも目立ちまくっていた(写真/竹内秀信)

 このレースで、ロッシは2位の選手に5秒以上の大差を築いて独走優勝を達成した。勝利を確信したファイナルラップには、観客に向けて手を振るような余裕まで見せている。そして、チェッカーフラッグ後のウィニングランでは、いつものようにコースサイドにマシンを停止させた。満場を埋め尽くしたヘレスサーキットのレースファンは、おそらくロッシがフェンスによじ登ってファンに向かって優勝のアピールをすると思って、期待にわくわくしたのではないだろうか。ロッシがバイクを停めたあたりの観客席からは大歓声があがった。

 しかし、ロッシはフェンスによじ登ることなく、そのままコースサイドのサービスロード脇にある仮設トイレに駆け込んで、その中に入ると扉を閉めた。

「レースで後続を大差でぶっちぎって圧倒的な速さで独走し、トップでゴールしたのは、早くトイレに行きたかったから」というオチのギャグだ。

 当時のロッシは、優勝するたびにこのようなギャグやパフォーマンスを次々と披露し、「次に勝ったら何を見せてくれるのだろう」ということがファンの大きな関心の的にもなっていた。このトイレ休憩ギャグ以外にも、ウィニングランでダッチワイフを後ろに積んで(しかもその人形にはスーパーモデルの名を取ってクラウディア・シファーと命名していた)一周するというようなこともあった。最高峰クラスに昇格した後の2002年には、ホームグランプリ・イタリアGPで優勝のチェッカーフラッグを受けた直後、ムジェロサーキットのコースサイドに待ち受けていた警官に停止させられてスピード違反の切符を切られる、という寸劇を演じたりもした。

この頃からすでに規格外の行動を見せるなど、スーパースターの要素は十分(写真/竹内秀信)

 チャンピオンを獲得したレースでも、たとえば通算7回目のタイトルとなった2005年のマレーシアGPでは、白雪姫と7人のこびとが登場するパフォーマンスを披露した。もしもその1戦前の日本GP、ツインリンクもてぎでタイトルを決めることになった場合には、七人の侍が登場するというアイディアもあったという。

 ロッシ以降、たとえばロレンソやマルケスもチャンピオン獲得時などに様々なパフォーマンスを披露してきたが、アイディアの秀逸さや巧みなユーモアという点では、ロッシのこれら〈作品群〉には残念ながら及ばない。

 

 第2位 2004年アフリカGP

 ホンダからヤマハへ移籍した2004年の開幕戦、南アフリカのウェルコムサーキットで挙げたこの劇的なヤマハ初勝利は、ロッシがいままで達成してきた数々の勝利の中でも間違いなくトップスリーに入るだろう。ベストオブザベスト、という評価もきっと多いはずだ。それくらい、この勝利はそこに至るまでのさまざまなエピソードが縦糸横糸として複雑に絡まり合っており(詳細は『MotoGP 最速ライダーの肖像』第1章や拙訳書バレンティーノ・ロッシ自叙伝等を参照)、それらの伏線を一気に回収していった決勝レースの優勝劇は、他に類を見ないほどのドラマ性がある。

ホンダからヤマハに移籍した初戦のレースで優勝という離れ業を披露(写真/竹内秀信)

 この2004年シーズンに、セテ・ジベルナウ(ホンダ)を相手に激しい優勝争いを繰り広げたロッシが、最終戦ひとつ手前のオーストラリアGPで〈Che Spettacolo(超劇的)!〉というTシャツを纏ってチャンピオンを獲得を祝うまでの波瀾万丈は、上記拙著に詳述したとおりだ。ホンダからヤマハへメーカーを移った初年度のこのタイトル獲得は、1988/1989年のエディ・ローソン(ヤマハ/ホンダ)以来16年ぶりの快挙だった。

 ちなみに、メーカーを跨いで最高峰クラスのタイトルを連覇したライダーは、1949年以来71年のグランプリ史のなかでも、ローソンとロッシの2名のみだ。そして、そのローソンでさえ、メーカーを移籍した最初のレースでは優勝を飾っていない。その意味では、このときのロッシのヤマハ移籍初戦勝利は、空前のできごとだった。ただし、絶後ではない。

移籍初戦で優勝し、メーカーを跨いでチャンピオン連覇を達成した史上唯一の選手となった(写真/竹内秀信)

 2007年にホンダサテライトチームからドゥカティファクトリーへ移籍したケーシー・ストーナーは、開幕戦のカタールGPでロッシと激しい一騎打ちを繰り広げて移籍後初レースで優勝し、その年のタイトルを獲得した。また、2011年にドゥカティからホンダファクトリーへ移籍した際にも開幕戦で優勝を飾り、秋にはチャンピオンの座に就いた。このような離れ業を実現できたのは、ロッシとストーナーの2名のみである。ただし、ストーナーの場合はメーカーを跨いでタイトルを連覇したわけではない。

 つまり、所属メーカーを移籍した年の初戦に優勝し、しかもそのシーズンのチャンピオンを獲得して異なるメーカーでタイトルを連覇する、という離れ業を達成した人物は、いまのところグランプリ史上バレンティーノ・ロッシが唯一の人物である、というわけだ。

 

 第1位 2003年オーストラリアGP

 このレースには、当時24歳だったバレンティーノ・ロッシというライダーの凄味が凝縮されている。いくつかの要素が輻輳(ふくそう)して彼の怒りに火をつけた結果、その怒りが彼の才能のすべてを解き放ったレース、といってもいいかもしれない。

 年間16戦のシーズン最終盤、第15戦のオーストラリアGPは10月19日に決勝レースが行われた。1週間前の第14戦マレーシアGPで、ロッシはすでに最高峰クラス3連覇を達成している。2週連戦となったこの大会でも勢いはなおやまず、土曜の予選を終えて最速タイムでポールポジションを獲得した。

 しかし、決勝レースはスタートに失敗して他の選手たちに揉みくちゃにされ、1周目を終えた段階では6番手に下がっていた。これは後年になっても頻繁に見られた傾向だが、とにかくロッシはレースのスタートによく失敗する。ポールポジションやフロントローのグリッドについていながら、スタートで出遅れて最初の加速でもたつき、1コーナーに入っていくころには後方でロケットスタートを決めた選手たちにズバズバと追い抜かれてグループの中で団子状態になってしまう。このオーストラリアGPの1周目は、まさにその典型例になった。

ポールポジションを獲得するもスタートで出遅れたことが、ロッシの凄さを見せつけるレースにつながった(写真/竹内秀信)

 だが、そこから先の展開もまた、別の意味で非常にロッシらしいレースになった。

 前方の選手たちをコーナーごとに次々とオーバーテイクし、やがてトップの位置に返り咲いてレース状況を制し、最後にはトップでチェッカーフラッグを受ける。本人はミスを取り返すためにただ一所懸命に走っているだけだが、それが巧まざる演出のようにスリリングなレース運びとなり、勝利の華やかさをいっそう際立たせることになる。

 2003年のオーストラリアでも、そんな展開になった。

 トップグループの集団内で揉みくちゃになっていたロッシは、序盤数周に他の選手たちと抜いたり抜かれたりの激しいバトルを続けていた。そんなさなかに、先頭集団内のある選手が転倒をする。コースサイドで脳震盪を起こしたこの選手を安全に搬出するための救護措置は、次の周も続いていた。そのため、当該区間のフラッグマーシャルポストには黄旗が提示された。この旗の提示区間では追い抜き行為が禁止されており、違反者にはペナルティが与えられる。しかし、トップ争いの真っ最中だったこのときのロッシは、当該区間で他選手をオーバーテイクした。

 レース後にロッシは、フラッグが見えなかったと述べ、このときのオーバーテイクは故意に黄旗を無視した行為ではなかった、と主張している。苛烈なバトルのさなかにあるライダーの視線や精神状態とマーシャルポストの位置を勘案すれば、ロッシの主張におそらく嘘はなかったと思われる(じっさいに、今年になっても黄旗無視を巡る類似の事象が発生している)。とはいっても、やはりルールはルールである。黄旗を無視してオーバーテイクをした行為のペナルティとして、10秒のタイム加算が数周後にサインボードでロッシに通告された。

 事実関係を整理しておくと、転倒の発生は4周目。ロッシの黄旗を無視したオーバーテイクは5周目、10秒加算のペナルティ通告は12周目である。

 この12周目に、ロッシはすでに集団を抜け出して後続選手たちを引き離し、3秒5のリードを築いていた。しかし、このペナルティにより、見た目のリードとは異なり、じっさいに後ろを走っている選手たちから6秒5の後れを取っている、ということになった。

 この10秒のタイム加算を知ったときのロッシは、「自分の内奥から強く深く響いてくる怒りの声が聞こえてきた」という。じつはシーズン中盤のイギリスGPでも、これと似たようなできごとがあった。このとき、ロッシは2位の選手に1.206秒差を開いてトップでゴールラインを通過し、表彰式でも優秀ライダーとして表彰台の頂点に立ったが、数時間後にレース中の黄旗無視行為として10秒のペナルティ加算が発表された。結果的に、リザルトは3位として修正され、優勝は取り消されることになった。

 12周目のホームストレートでサインボードの通告を見たときに、そのイギリスでのできごとを思い出し、「またかよ……」と怒りに火がついたのだという。

 そこからのレース展開が圧巻だった。

 ロッシはそれまでの周回よりも1秒以上速いラップタイムを連発し、見た目上では2番手ながら計算上はトップにいる後方の選手をさらにぐいぐいと突き放していった。ここから一気にスパートをかけるためにタイヤやエネルギーを温存していたわけではけっしてない。むしろここまでの周回で、ロッシは集団から抜け出すために全力でタイヤとバイクと己のポテンシャルを最大限に使い切ってきた。その状態から、さらに1秒以上も上回るラップタイムを毎周刻み続けるのは、尋常の行為ではない。後年に刊行した自叙伝(拙訳)では、このときのことを「ホンダ時代に自分の脳内でエネルギー転換が発生した唯一のレース」で「RC211Vで走った中での最速のレース」「ホンダで過ごした四年間の経験がピークに達した」と回顧している。

 最終的に、27周のレースを終えてロッシは2位の選手に5.212秒の差をつけて優勝した。つまり、15.212秒の大差を開いて優勝した、ということだ。数あるロッシの名勝負のなかでもこのときのオーストラリアGPを1位として推す理由は、以上の背景事情を理解すれば納得していただけるのではないだろうか。

2位に実質15秒の差をつけるブッチ切りの速さ。この年にホンダで最後のタイトルを獲得し、翌年ヤマハで連覇する。伝説の始まりの頃(写真/竹内秀信)

 ちなみに、このレースが行われた10月下旬には、ロッシはすでにヤマハへ移籍する決意を固めていた。その意味でも、このオーストラリアGPはホンダ時代を締めくくって有終の美を飾る、非常に大きな意味を持つレースだった、といえるだろう。

 

 以上、ここで紹介した5レース以外にも、バレンティーノ・ロッシらしさが存分に発揮されたレースは過去を振り返れば他にいくつもある。ライバル選手との熾烈な戦いがおおいに議論を呼んだレースやその経緯等々については、先日刊行の『MotoGP 最速ライダーの肖像』にも記したとおりだ。

 そして2021年シーズンのレースに目を向けると、冒頭にも記したとおり、第7戦までを見るかぎりでは苦戦傾向にあるのは否みがたい事実でもある。だが、今後のレースでは、バレンティーノ・ロッシのバレンティーノ・ロッシたる所以(ゆえん)が少しでも垣間見えるような、そして、後に振り返ったときに彼のレースキャリアを彩る強い印象を残すほどのレースを、できれば第8戦以降のどこかで、ぜひとも見せてほしいと思う。

 

関連書籍

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

 
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