この島の地域性を活かした自立ビジョンがあった
私が「沖縄島から取材に来た」と言うと「こんな何も無い島に?」とある島民女性は笑った。この島に対する自己肯定感の低さが気になった。今でこそ人口1700人と、過疎の進むこの島だが、最盛期には人口6000人、実人口が2万人にもなったという時代があった。いわゆる「ケーキ(景気)の時代」だ。
戦後まもなく1945年から1951年のかけてこの島は、台湾や香港、中国大陸やマニラなどと沖縄島、糸満、本部町、そして日本をつなぐ密貿易の中継地点として黄金時代を迎えた。
この時代の話をすると、与那国や八重山のおじいさま、おばあさまたちは目を輝かせる。枕の中の蕎麦殻を抜いて札束を詰めて枕にしたとか、与那国の鶏は落ちた米粒をついばまないほど豊かだったとか、伝説のような話がたくさんある。
「離島」と呼ばれるこの島が、「離島」だからこその地理的ポテンシャルを発揮して格差を逆転させた豪快な時代だ。
この時代の成功体験を踏まえて2005年、与那国町独自の「自立ビジョン」を作成したのは、当時、町役場で経済課長を務めていた田里千代基氏(現町議)だ。姉妹都市である台湾、花蓮市と定期便を結び、貿易や交流をすることで、この島を行き止まりの島ではなく、国際的に人々が往来する文化と経済の交流の島にしようという試みである。
「目で見える場所に人口2千万人を超える台湾の経済圏があり、その先には東アジアがある。考え方を変えれば、この島は辺境ではなくなる」
田里氏はそう熱っぽく話してくれた。
彼を中心とした町役場のプロジェクトチームは国境を越えて奔走し、花蓮市にも事務所を開設。台湾側からのバックアップを受けることにも成功した。実績作りのためにチャーター機も飛ばし、自民党議員へのレクなども積極的に行われた。「どぅなんちま交流・再生プログラム」と名付けられたこの「国境交流特区」構想は今、読んでも新鮮な驚きがある。しかし、2007年、アメリカ軍の掃海艦が2隻、与那国の租納港に入港した。
「あれからすべて変わってしまった。与那国は米軍に目をつけられてしまったのです。あれから今までのことは米国のシナリオ通りに感じる」と田里町議は話す。
2007年の寄港時に在沖米国総領事のケビン・メア氏が「与那国は台湾海峡有事の掃海拠点になりうる」と本国に公電していた事が、後に「ウィキリークス」によって暴露された。
そこからこの「国際交流特区」構想を国は冷遇するようになった。翌年には自民党のヒゲの隊長こと佐藤正久議員が島を訪れるなど、「自立ビジョン」ではなく「自衛隊配備」による地域振興論がこの島を包み込んでいく。
そこで私は、この自衛隊基地に足を運んでみた。ところが、陸上自衛隊与那国駐屯地付近で撮影していると、すぐに自衛隊員が撮影を制止してくる。聞くと撮影していいのは看板のみだという。もちろんそのような法的根拠はない。「写ってはいけないものがある」との説明を受けたが、写ってはいけないものがあるなら隠しておいてほしい。よくわからない理屈だ。
奥には小銃を持った自衛官が静かにこちらを見つめていた。住民と自衛隊員が酔って喧嘩騒ぎになったという噂も聞いたが、公には事件化していないようだ。
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