「罪を償う」のはいかにして可能か?[前編]

古田徹也×藤井誠二 『贖罪 殺人は償えるのか』刊行記念
古田徹也×藤井誠二

謝罪するための「語彙」を獲得する

藤井 刑務所に入ると、少なくない受刑者がシャバにいたときより、本をたくさん読むようになるんですよね。刑務所の中ではネットも使えませんし、テレビの視聴などにも制限がありますから。

 先ほども話しましたが、僕の長年のテーマは「人は変われるのか」ということです。それで、受刑者が刑務所の中でよく読書をする傾向があることは知っていたのですが、果たしてそれで何かが変わるのかな、と懐疑的だった。

 それが今回、水原の例では、読書を通じて、何年もかけてですが劇的に人が変わっていったわけです。でもそれは、先ほど古田さんがおっしゃったように、アウトプットがあってこそだと思います。私という他者に、手紙という形を通じて、自分の思考をアウトプットする。そのプロセスが、水原を変えていった面もあるのではないかと思います。

 被害者遺族に謝罪をするためには、まず「語彙」が無いと謝ろうにも、謝れないわけです。まずは読書という形でインプット。それから、私への手紙というアウトプットという形で、水原は遺族への謝罪のための「語彙」を獲得していったのではないかと。

古田 このことは、かなり重要な話だと思います。水原氏が藤井さんに反論するところが本の中でありますね。藤井さんの、「受刑者の反省文というのは、紋切り型だ」という批判に対して、水原氏はこう書いています。「端的に言えば、書き方が分からないのだと思います。罪の深さや人の痛みを知り、心がぐしゃぐしゃになりながらも伝えたいことがある。しかし語彙力の乏しさや表現力の拙さなどから、その自分の感じていること、考えていることをうまく表現できない、伝え方が分からない」(192頁)。

 これはまったく水原氏の言う通りだと、私は思います。ある程度深い思考をするためには、それなりの語彙力が必要です。言い換えるなら、悩むにもそれ相応の語彙が必要だということです。

被害者遺族の視点

古田 ここで少し、被害者遺族の視点から、考察を深めてみたいと思います。この『贖罪』という本で扱われている事件に限らず、被害者遺族はしばしば、加害者から「なぜ殺したのか」という理由や動機を知りたいと願います。

 藤井さんは、「手紙をすぐに送るよりも先に加害者がやるべきこと。たとえば、まず刑事裁判で包み隠さず保身に走らずに真実を述べることを遺族は望む」(175頁)と書かれていますね。ただ、加害者が真実を述べたとしても、それは往々にして、被害者遺族がある意味で期待していたものとは異なります。ひとはときに殺意を抱くことがありますが、それと、実際に誰かを殺してしまうことの間には、相当深いギャップがあるように思えます。なので、そのギャップを埋めてくれるような理由や動機が、加害者の口から語られることが期待されるのですが、その期待に応えるような言葉はまず返ってきません。

 例えば、水原氏は殺害の動機を赤裸々に語っています。「欲や感情が絡むとダメなのです。自分の思い通りにならないと気がすまなかったり、欲や感情が湧くと頭がそれでいっぱいになります。今さえよければよく、後先を考えずに行動します。これらの要因の一つは想像力の欠如です」(40頁)。でも、この語りを聞いても、いま申し上げた種類のギャップが埋まったようには感じられない。釈然としない感覚、理解できないという思いは消えません。

藤井 同感です。殺人の動機については、何度も手紙を交わす中で、水原に根掘り葉掘り聞き取っていって裏を取り、そこに何らかの原因や背景を見いだそうとする、ある種の物語性を欲していたのかもしれない。彼の生い立ちとか、家族構成の中に、原因を求めてしまっていたのですね。

 でも、結局のところ、特別な動機などはなかったのです。水原は極端に短絡的な人間で、何も考えずに人を殺してしまった。それが真実だと思います。

 2023年12月から、被害者遺族が受刑中の受刑者に対して、直接心情を伝達する、心情伝達制度というものが始まりました。遺族から気持ちを聞き取って、刑務所の被害者担当のスタッフが受刑者に届け、その返事をやり取りするという。私が水原とやっている文通のようなものです。回数制限もありません。この制度を利用している遺族たちを、現在取材しています。

 先日会った遺族の方は、20年前に娘さんを殺されて、そのショックでお母さん(遺族の方からすれば、妻)も自殺で亡くなられたという、非常に凄惨な話でした。20年経った今でも、彼は悲しみの内にあるわけです。

 20年間、加害者からは一切連絡はなかった。それなのに、この制度にトライしてみた理由を、私は彼に聞きました。すると、「ほんの少しの期待だけれど、受刑者も20年前から、何か変わってきているかもしれない。事件について真剣に考えるようになっているかもしれないし、当時は否定していた事実関係など、いろいろなことを認められるようになってきているかもしれないから」と言っていました。

 そうした微かな期待から、心情伝達制度を試してみたのだけれど、受刑者から返ってきた答えは、「もう事件のことはあんまり考えないようにしている」「俺は一日も早く出所して、前向きに生きたいんだ」といったものだったのです。

 この結果に、当然遺族の方は激しいショックを受けました。二次被害ですね。それでも、「受刑者が20年前と何も変わっていないということが分かったことが、唯一の収穫だ」とおっしゃっていました。受刑者からの手紙の中で、謝罪的な文章は、「ごめんなさい」の一言だけ。彼の手紙を読んで、私は何の考え抜いた言葉も、語彙も見つけられませんでした。

 こういう事例を目の当たりにすると、やっぱり人間って変われないのかな、謝罪文なんてあり得ないのかな、と諦めの気持ちになってしまいます。

藤井誠二さん
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関連書籍

贖罪 殺人は償えるのか

プロフィール

古田徹也×藤井誠二

藤井誠二 (ふじい・せいじ)

1965年愛知県生まれ。ノンフィクションライター。少年犯罪について長年にわたって取材・執筆活動をしている。著書に『人を殺してみたかった―愛知県豊川市主婦殺人事件』『少年に奪われた人生―犯罪被害者遺族の闘い』『殺された側の論理―犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』『黙秘の壁―名古屋・漫画喫茶女性従業員はなぜ死んだのか』、共著に『死刑のある国ニッポン』(森達也との対談)など多数。

古田徹也(ふるた・てつや)

1979年熊本県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科准教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。新潟大学教育学部准教授、専修大学文学部准教授を経て、現職。専攻は、哲学・倫理学。『言葉の魂の哲学』で第41回サントリー学芸賞受賞。その他の著書に、『それは私がしたことなのか』『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』『不道徳的倫理学講義』『はじめてのウィトゲンシュタイン』『いつもの言葉を哲学する』『このゲームにはゴールがない』『謝罪論』など。訳書に、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』など。

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