負の遺産が開く未来 動き始めた日本の“加害”ダークツーリズム 第4回

慰霊碑の島・沖縄~恨之碑が教えてくれること~

三上智恵

 読谷村は沖縄本島中央の西側に突き出た場所にある。サトウキビ畑が拡がるのどかな村の一角に、少し変わった彫刻の慰霊碑がある。目隠しされた屈強な男が、死を覚悟したような迫力で進み、足元にはチマチョゴリを着た母親だろうか、すがりついて息子を止めている。男の後ろから銃で殴りかかっているのは日本兵か、死神のような形相だ。「恨(ハン)之碑」。(正式にはアジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑)朝鮮半島から動員されて沖縄戦で命を落とした朝鮮人軍夫や慰安婦の女性たちを追悼し、過去の過ちを記憶するために2006年に建立された慰霊碑だ。沖縄の中で数少ない自らの加害に向きあったモニュメントの代表的な存在と言えるだろう。6月末に行われた慰霊祭で、この彫刻の作者である読谷村在住の彫刻家・金城実さんはこう言った。

恨之碑のレリーフを彫った 彫刻家の金城実さん
2025年6月28日 「恨之碑の会」慰霊祭

「今また有事が云々されてますね。するとまた分断が起き、スパイ視、憎しみが誰に向くかというのは決まっている。だから普段から差別と闘う、人権のために闘うというのは平和の基本であるんです。人権、というとみなさんはボーッとしているけどね、人権が無視されるともうすぐ戦争、あたりまえでしょう!相手にも人権があると思ったら鉄砲向けられんでしょう。だから戦をするには人権は無視する。朝鮮人に対する差別、憎しみを植え付ける。このことを我々沖縄の人間も学ばなければならない。」

 参列したおよそ70人は、例年になく厳しい口調の金城さんの言葉を真剣に聞いていた。戦後80年の慰霊の日の前後、沖縄に400基余あるという各慰霊碑の周りには、いつもより多くの線香や花束が手向けられていた。日本で唯一、生活空間が戦場になった沖縄県。戦場の屍を避け、その上に戦後の生活をスタートさせた島なのだから、慰霊碑の数が多いのは当然だろう。今回はその沖縄の慰霊碑から学べることについて考えてみたい。

 厚生労働省の調査によると、全国には戦争関連の慰霊碑が1万6235基(2019年現在)もあるそうだ。だがそのうち14%が管理者不明や管理不良で、集約や撤去にも予算がなく、地域を悩ませているという。時の流れを感じさせる話である。この総数を単純に47都道府県で割れば平均で一県あたり345基。沖縄県には県が把握しているだけで442基なので、この数は少なくとも人口や面積当たりでは断トツであろう。

 ひとくちに「慰霊碑」と言っても、「忠魂碑」のように日中戦争の戦死者を含め国のために戦った兵士を顕彰する色合いのものも多い。また日本軍関係者によって建てられた、将兵の死地や、各部隊の最後の地に置かれた碑もたくさんある。大抵は、今読むと違和感を覚えるような勇ましい文言が書かれている。一方で、ひめゆりの塔など戦場に動員された沖縄の若者の死を悼む碑や、チビチリガマなど「集団自決」を記憶するものなど、沖縄県民の多大な犠牲を歴史に刻むものもいくつかある。が、数で言えば、悲劇を伝えようとするものよりも、「斯く闘えり」と立派な死を称えるものや、字(あざ)ごとに戦死者の名前をシンプルに記録しただけの慰霊碑が圧倒的多数だ。そのような石のモニュメントは、戦争を反省し、平和を創造する礎として機能するだろうか?と考えたときに心許ない。先の戦争の戦死者を、英霊と祀るか、犠牲者と見るか、未だに定まっていない慰霊碑が大半を占めるということ自体が、戦後、あの戦争の責任や教訓に向きあってこなかった日本人の弱さを露呈している。日本人の多くは、八百万の神でも仏でも、行き倒れた旅人にも、なんにでも手を合わせておけば間違いはないという感覚で、なんとなく慰霊碑を拝んできたのかもしれないが、最近は戦争を美化したり、歴史の修正を試みたりする動きの中で「尊い死」という価値観が息を吹き返してきている。見過ごしてきた近所の慰霊碑が、違う意味を持つことがないよう注意する必要がある。

恨之碑 (読谷村瀬名波)

 そうしてみると、悲劇的な歴史の舞台となった場所を訪ねて、そこから教訓を得て平和を構築する力を養うという「ダークツーリズム」の目的からすれば、あまたある沖縄の慰霊碑の中で訪ねるべき場所はそう多くはないかもしれない。その土地でどういう悲劇が展開され、誰のせいでそうなったのか。その追及が欠落し、教訓が読み取れない碑文であれば、わざわざ訪ねても「二度と同じ過ちを繰り返さない」と誓う機会にはなりにくい。多大な犠牲が出たことを強調するものは簡単に探せるが、その悲劇を産んだ「過ち」の本質まで言及した慰霊碑や関連施設は多くない。しかし、どんな犠牲の地で、全員が被害者であったとしても、一方で戦争に協力し、その悲劇に直接加担した者たちが同じ地域に存在している。大事なのは、良かれと思って戦争に協力していった住民一人一人の役回りを知り、自覚なくやっていたことが誰かを苦しめ自分を苦しめたかもしれないという視点を持つことである。それが同じ「過ち」を繰り返さないために、今、最も必要なことなのだ。

 ところが、平和学習の地として全国から修学旅行の生徒たちが訪れる沖縄でさえ、被害性と同時に加害性についてきちんと提示しているモニュメントや展示は限られている。戦争のむごさについては有り余るほどの事例を抱えている沖縄県だが、日本の国外、国内への加害や地域の人たちの加害性については説明から抜け落ちていることが多い。それがなければ、日本が他国に何をして、その結果として戦争になだれ込むことになったのか、わからなくなる。また、悪いのは軍隊、悪いのは本土の人という構図に甘んじれば、すべての人間の中に巣食う加害性に目を向けにくくなる。しかし、今まさに次の戦争に向けて「戦争協力」を求められる時代に入ってきたからこそ、過去の戦争でどうやって無意識に戦争に加担し加害者になっていったのか、正面から見つめる勇気が必要なのだと思う。

 そういう意味では、朝鮮人軍夫・朝鮮人慰安婦に関する慰霊碑は、沖縄の中でも戦争の加害の本質を学ぶ上で真っ先に訪れて欲しい場所だ。沖縄を含む、日本全体が植民地政策を担った加害者であり、加えて地域にくすぶる差別意識があいまって筆舌に尽くしがたい悲劇の中で亡くなっていった事実から、私たちが学ぶべきことは山ほどある。沖縄戦で犠牲になった朝鮮半島の出身者を追悼する碑は、私が把握しているだけでも県内に10カ所ある。沖縄でこの問題に向き合おうとする人の熱量は、幸い他府県より高いと感じる。全国に目を転じれば、軍務動員・労務動員合わせると、日本には100万人を超える朝鮮人が戦時動員され、全国およそ1500カ所で労働を強いられたといわれている。徴用か強制連行か、言葉の選び方には争いがあるが、少なくとも沖縄では過酷な環境で危険な労働を強いられ、差別も受け、武器も持たされずに戦場の最前線に送り込まれて無念の死を遂げた朝鮮人が数多くいたことは、たくさんの証言で裏付けられている。そして軍人のための慰安所が各離島も含め県内全域に150カ所近くあったことも住民の証言から明らかになっている。しかしその総数、犠牲者の数も未だに判然としない。沖縄戦全戦没者の名前を刻んだ「平和の礎」の中でも朝鮮半島出身者のスペースには空欄が多い。

 調査が追い付かない中で、この恨之碑の建立に執念を燃やした一人の韓国人が、沖縄に動員された朝鮮人3106人分の名前を日本軍の留守名簿24万人余の中から手書きで抜き出し名簿を完成させた。元朝鮮人軍夫の姜仁昌さん(カン・インチャン 1920~2012)だ。姜さんは23歳の時に沖縄に連れてこられ、弾薬運びなど危険な重労働に従事し、戦争は阿嘉島で迎えた。ある日、あまりの空腹に耐えかねた軍夫らが、夜に民間人の田んぼから稲穂をとって食べたことが発覚し、13人が処刑されることになってしまった。姜さんは免れたものの、処刑に立ち会わされ、仲間の遺体を埋める穴を掘らされた。のちに捕虜になって再び母国の地を踏むことができた姜さんだが、日本への恨みは非常に強かった。

元朝鮮人軍夫の姜仁昌さん(カン・インチャン 1920~2012)

「稲穂を盜んだという理由で処刑された同僚たちのことが忘れられない。今も異郷の地でさまよう犠牲者たちの遺骨を故郷に持ち帰り弔いたい」

 姜さんは証言集の中でそう語っている。結局、犠牲者の遺骨は見つけられなかったが、彼の切なる願いは日本、韓国、沖縄の市民を動かし、1997年7月、韓国と沖縄、二カ所に祈念碑を建立することになった。日本人に対する強い怒りと憎悪を持っていた姜さんだが、恨之碑の建立に奔走した「NPO法人恨之碑の会」代表の安里英子さん(故人)は、「姜さんは日本人と沖縄の人を分けて、沖縄の人々には寛容に接して下さった」と証言集に綴っている。同じく日本の軍国主義の犠牲になった者同士でもあり、沖縄の人には感謝しているとも話していたそうだ。しかし安里さんは続ける。

恨之碑(韓国英陽[ヨンヤン])

「だからといって、彼の気持ちに甘えていいのだろうか、というのが正直な私の気持ちである。私たち沖縄人は韓国・朝鮮の人々に対して、加害者であるという自覚を持っているだろうか。」

「チョウセナー」という言葉は彼らを下に見る沖縄の言葉だ。当時の沖縄に朝鮮人差別はあった。悲劇の一つを例示すると、久米島で日本軍が谷川昇(朝鮮名・具仲會)さん一家7人を虐殺した事件がある。妻の谷川ウタさんは名護市出身だが、乳飲み子を抱いて10歳の長男とともに切り殺されている。久米島にいたのは海軍の電波探信隊のみ、わずか30人ほどだったにもかかわらず、20人の住民を次々にスパイ容疑で殺している。特に谷川さんのケースは差別、スパイ視、住民の密告がからんでおり、また終戦後の8月20日に起きていることから、閉ざされた環境の中で軍隊に支配された住民が、本来守るべき集落内の人々に向ける狂気について理解するためにも、この事件は丁寧に見ていかなくてはならない負の歴史なのだが、80年経っても、語ることを許さない空気が島にあるのも事実だ。

 実は冒頭に紹介した彫刻家の金城実さんは今年、この凄惨な久米島事件を歴史に刻むために島の有志から追悼レリーフの制作を依頼された。今年5月、金城さんが島に渡って地元の子供たちも交えて彫刻を作成する様子を私も取材しに行ったのだが、久米島町長はじめ島のリーダーたちは、当初は許可していたものの、その後さまざまな物言いがあったことから態度を硬化させた。そして軍隊や犠牲者の顔を表現しないことや、鳩とか花に差し替えるなどデザインが二転三転し、結局6月、町有地への設置は不許可となった。事件に関わった住民の子や孫たちにすれば、小さな島で生活をする中で戦争中の嫌な話を今さらむし返してどうするんだということなのだろう。有志で作る「忘れないで!日本軍による住民虐殺80年追悼集会実行委員会」では、谷川さん一家が殺害された8月20日に追悼行事を予定しているが、肝心のレリーフの設置場所は今のところ宙に浮いたままだ。

 金城実さんは今回の慰霊祭の中で、群馬県で朝鮮人追悼碑が撤去された件にも触れながら、今起きていることを憂えた。

「沖縄も危ないですよ。なにが危ないかというと、久米島で朝鮮人一家殺害の彫刻を作って、その中に日本軍に壕から追われる場面を作ろうとしたら、やめてくれと。止めたのは沖縄の人間だ。何だこりゃ。これでは歴史修正だと騒いだ自民党の西田議員と一緒ではないか、国会議員の阿呆と。沖縄の内部におるんだ敵が!そしてこれはこれからも起こる」

 自民党の西田昌司参議院議員は今年5月、ひめゆりの塔の説明内容を「ひどい」「歴史の書き換え」と発言して大問題になった。さらに参政党神谷代表は「日本軍が沖縄の人たち殺したわけでない」と間違った解釈を流布し、続いて対馬丸の展示にも疑義がつくなど、沖縄戦の歴史認識が捻じ曲げられるような流れが今年前半可視化された。そのように揺れ動いている時代だからこそ、久米島の有志の会も反発を承知で、危機感をもって設置場所を探している。無事に除幕式が行われれば、日本軍の住民虐殺を刻んだ貴重なモニュメントになるだろう。戦争は、日本人が無実の国民を殺すところにまで行きつくのだという事実を提示し、後世の人々が同じ過ちを繰り返さないための教訓を得る重要な場になっていくだろう。しかしながら、一度建立されたとしても、負の歴史の展示を許さない勢力とのせめぎあいは起きてくるかもしれない。だからこそ冒頭の金城さんの言葉のように、普段から人権や偏見・差別と闘うことが、戦争を止める具体的な力になっていくのだと改めて思う。このように汗をかいて慰霊碑を建てて、また地域の歴史を負の部分も隠さずに受け負って次世代に繋いでいくこと。一見地味に見えるが、それこそ戦争という悲劇から最大の教訓を得て平和を作り上げていく営みのたゆまぬ努力の形なのだと思う。そういう人権・歴史認識・差別を巡る「闘いの場」が、慰霊碑という形で林立している沖縄県は平和をリードする地域になる条件が揃っていると改めて思う。

 慰霊祭の締めの部分で、沖縄県日韓親善協会理事長の真栄里泰山さんの言葉が印象に残った。

沖縄県日韓親善協会理事長の真栄里泰山さん

「最近は台湾有事と言い、自衛隊が南西シフトし、宮古・石垣・与那国島は九州に疎開するとか、与那国町長は戦闘準備をしなくてはならないなどと言い始めている。日本のリーダーたちは本当に戦争を起こしかねない。自分たちは今大変な岐路にいるのかと危機感を持ちます。しかし一番大事なことは韓国が教えてくれた。韓国の人たちは大統領が緊急有事だ、と言ってもみんなが立ち上がってそれを阻止した。僕は韓国のこの素晴らしさを日本人は学ばなければならない。沖縄の私たちも学ばなければならない。それが恨之碑に祀られている方々への私たちの責務なのではないかと考えています。戦後80年、今こそ私たちは平和のために立ち上がらなければならない時を迎えているのではないか」 

 炎天下で汗をふきふき恨之碑の慰霊祭に出席して、戦争を押し返す力はこの小さな慰霊祭を支える一人一人の胆力から湧いてくるのだなと、心強く思った。ダークツーリズムをテーマにした旅の行程表に、このような慰霊碑が入っていたら、ぜひその碑文に込められた思い、花や線香、敷地の掃除など、地域に大切にされているかどうか、平和の泉として機能させたいという人々の思いが溢れているかどうか、感じ取ってほしい。再び戦争に向かって歩を進める集団を引き留めるくさびとして悲劇の地に建っている慰霊碑たちが、その役割を果たすためには、遠くから訪ねてくれる見ず知らずのあなたの力が欠かせないのだから。最後に、沖縄戦で犠牲になった朝鮮半島の出身者を追悼する碑10カ所を列記して本稿を閉じる。

恨之碑           (読谷村瀬名波)
青丘之塔          (宜野湾市嘉数)
沖縄兵站慰霊之碑      (糸満市大里)
韓国人慰霊塔        (糸満市摩文仁)
平和の礎          (糸満市摩文仁)
魂魄の塔          (糸満市米須)
アリラン慰霊のモニュメント (渡嘉敷島) 
久米島在沖朝鮮人・痛恨之碑 (久米島)
アリランの碑        (宮古島) 
留魂之碑          (石垣島)

写真撮影:著者 

 第3回

関連書籍

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証言 沖縄スパイ戦史

プロフィール

三上智恵

(みかみ ちえ)
ジャーナリスト、映画監督。毎日放送、琉球朝日放送でキャスターを務める傍らドキュメンタリーを制作。初監督映画「標的の村」(2013)でキネマ旬報文化映画部門1位他19の賞を受賞。フリーに転身後、映画「戦場ぬ止み」(2015)、「標的の島 風かたか」(2017)を発表。続く映画「沖縄スパイ戦史」(大矢英代との共同監督作品、2018)は、文化庁映画賞他8つの賞を受賞。著書に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社新書、第7回城山三郎賞他3賞受賞)、『戦雲 要塞化する沖縄、島々の記憶』(集英社新書ノンフィクション)、『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』『風かたか「標的の島」撮影記』(ともに大月書店)などがある。

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