時代は平成から令和へと移り変わり、今、日本のプロレス界は群雄割拠の時代を迎えている。数え切れないほどの団体が存在し、自称プロレスラーを含めると、何百人という男たちが夜な夜なリングに舞っている。
プロレスといえば、日本プロレス。レスラーといえば力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木……そして屈強・凶悪・個性的であり、大人のファンタジーに彩られた外国人レスラーたちとの死闘がその原点である。
そんなモノクロームに包まれた昭和プロレス草創期の世界を、徳光和夫は実況アナウンサーとして間近で体験、血しぶきが飛ぶ、その激しい闘いの数々を目撃してきた。果たして徳光はリング上、リング外で何を見てきたのだろう。
その血と汗と涙が詰まった、徳光のプロレス実況アナウンサー時代を、プロレスに関することだけはやたらと詳しいライター佐々木徹が根掘り葉掘り訊き出し、これまでプロレスマスコミなどが描き忘れていた昭和プロレスの裏面史を後世に残そうというのがこの企画、「徳光和夫の昭和プロレス夜話」である。
さあ、昭和の親父たちがしていたように、テーブルにビールでも置き、あえて部屋の電気を消し、ブラウン管の中の馬場と猪木のBI砲の熱き闘いを見守っていたように、パソコンなどの液晶画面に喰らいついていただきたい!
さて、そろそろジャイアント馬場さんの話に戻りたいのですが。
「はい」
徳光さんが初めて馬場さんを見たのは?
「確か、私がプロレス担当を命じられてすぐのことだったんじゃ……。記憶が定かではありませんけども……リキパレスに取材に出向いたんです」
力道山が作り上げたプロレスの殿堂。
「そうです、渋谷の道玄坂の脇道をちょっと登ったところにありましたね」
プロレスの興行が行える会場だけではなく、サウナも営業していたそうですね。
「ええ、ええ(笑)」
それにしても、都内、それも渋谷にプロレスの常設会場があったというのは、今では信じられないですよね。そのリキパレスではよくシリーズの前哨戦、外国人レスラーのお披露目を目的とした興行が行われていたようですが。
「ええ、そうです。私が初めて生で馬場さんを見たのも、そういう意味合いの試合でした。つまり、海外修行を終え凱旋帰国を果たした馬場さんのお披露目的な試合とでもいいましょうか(1963年3月22日/第5回ワールドリーグ戦前夜祭。その日は金曜日だったのでテレビでも生中継された)。とにかく入場シーンが衝撃的でした」
どのような衝撃が?
「馬場さん、リングのトップロープをまたいだんですよ」
アンドレ・ザ・ジャイアントのように。
「いえいえ、違います。アンドレはまたぐにしてもモタモタしていたでしょ。馬場さんはスタスタと花道を歩いてきて、ポンッとエプロンサイドに駆け上がり、左足を軽快に蹴り上げるようにしてトップロープをまたいたんです」
それはまた、レアな入場シーン。馬場さんがロープをまたいでリングインしたのを見たことがあったかな。
「ないはずですよ。私もあの1戦だけですから。もしかすると、あの試合は記念すべき凱旋帰国を飾る1戦、アメリカで得たショーマンシップ的なパフォーマンスを日本のファンにも見せてやろうとしたんじゃないですかね。でも、馬場さんはもともと派手なことが苦手でしたし、トップロープをまたぐような入場は、あの1戦限りにしたんでしょう」
ああ、なるほど。
プロフィール
1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。