コリアンドリームを求める人々
梨泰院が今のように、一般の韓国人にも人気の街になったのは、2000年代の半ば以降である。転機となったのは地下鉄6号線の開通(2001年)だった。それまで孤立した外国人空間だった街が、一気に他のエリアとつながった。それと同時に韓流ブーム(2004年頃)で日本や東南アジアからの観光客が増えたことも大きかった。
基地の街・梨泰院の街は息を吹き返した。在韓米軍の兵力削減、反米感情の悪化、9・11などの影響でかつての顧客を失っていたレストランやショップは、ターゲットを外国人観光客に大幅変更した。かつて米兵向けキャバレーがあった建物は、日本人観光客向けのチムチルバン(韓国風の健康ランド)になった。
同じ頃、ハミルトンホテルとならぶ梨泰院のもう一つのメルクマールであるイスラム寺院周辺にも変化があった。アジア金融危機(IMF危機)から奇跡の回復を遂げた韓国に、「コリアンドリーム」を求める貿易商や労働者が世界中から集まってきたのだ。その中には西アジアやアフリカ、あるいは東南アジアなどイスラム圏の人々も多かった。
イスラム寺院周辺には彼らの生活圏が形成され、梨泰院はまさにドラマが謳う「異国情緒の漂う」、「ミックスカルチャーの街」となっていった。梨泰院は彼らにチャンスを与え、彼らは韓国人に多文化社会の楽しさをもたらした。一つだけではない価値観、多様性と自由、それはすなわち主人公パク・セロイが梨泰院を選んだ理由だった。
その『梨泰院クラス』の原作が、日本では『六本木クラス』というタイトルで漫画化されたことは前編の最後にも書いた。漫画のローカライズは珍しくないが(例えば『クレヨンしんちゃん』の韓国版はシン・チャングという名前の韓国人の子どもが主人公になっている)、それでもやはりもやもやする。
今、日本や台湾をはじめ様々な国で『梨泰院クラス』のリメイク企画が熱いというが、日本でそれが叶った場合、ドラマの舞台も六本木になるのだろうか?
「梨泰院よりも新宿じゃないですか? 人種の多様性とか性的マイノリティというならば」
周辺ではそんな意見もよく聞く。ただ新宿には米軍基地のイメージがない。やっと移転が決まったとはいえ、梨泰院周辺の米軍基地の広大さは半端ない。面積にして龍山区全体の5分の1、首都のど真ん中にそんな広大な「外国の基地」があるのだ。
日本でいえば、それは沖縄だろうか。そちらの方がいいかもしれない。沖縄にやってきたパク・セロイが、地元の多様なメンバーとともに、本土の巨大飲食チェーンと闘うような。
基地の街、梨泰院
地下鉄だと知らずに通りすぎるが、市内バスで梨泰院に向かうと、例えば戦争記念館を過ぎたあたりから米軍基地の赤レンガと鉄条網の壁をずっと眺めることになる。それ以外のルートでも龍山区に入ればあちこち赤レンガの壁が出現し、5分の1という広大さを実感することになる。
「米軍部隊」あるいは「米8軍」――韓国の人は龍山基地をそう呼ぶが、そこに最初に鉄条網を貼ったのは100年前の日本だった。日露戦争があった1904年、大日本帝国陸軍の朝鮮駐箚軍司令部が置かれた場所が拡張を続け、日本の敗戦を機にそのまま米軍に引き継がれた。トータルでは100年以上にわたり民間人の出入りは統制され、そこは韓国にありながらは韓国人にとって「禁断の地」となった。
「禁断の地」ではあったが、基地内に入ったことのある民間人がいないわけではない。基地内には米軍兵士や大使館職員の住宅もあり、普通の暮らしをしている。外部から友人を招くこともできるし、子どもたちの家庭教師を呼ぶこともある。
私が初めて米軍基地に入ったのは1990年、韓国語を一緒に勉強していた米軍兵士らと一緒に行った。初めてだったので、とても驚いた。ゲートを一歩入ったら、そこはまさに「アメリカ」であり、特大のハンバーク・ステーキも当時のソウルでは驚くべきものだった。ダーツのあるバーで、バーボンウイスキーを飲んだ。当時の韓国人はウィスキーといえばもっぱらスコッチだった。その後も何度か基地内の友人宅を訪ねたが、ことさら基地ということを意識しなくなっていた。
「愛の不時着」「梨泰院クラス」「パラサイト」「82年生まれ、キム・ジヨン」など、多くの韓国カルチャーが人気を博している。ドラマ、映画、文学など、様々なカルチャーから見た、韓国のリアルな今を考察する。
プロフィール
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。