カプチルと帝王教育 ナッツ姫とサムスンのプリンス
韓国経済における財閥企業の独占ぶりはすさまじく、これまでも大統領選のたびに「財閥解体」や「経済民主化」が公約になってきた。しかしそのパワーが韓国経済の発展を支えていることも事実であり、歴代の韓国政府は何かあると財閥に頼ってきた。
政権からしてそうだから、先にも述べたように一般国民の財閥への感情もまたアンビバレントで、憧れがある一方で反発もすごい。特に問題になるのは、ドラマ『Mine』の中でも何度も登場する「カプチル」である。「カプ」は漢字で書くと甲乙丙の「甲」。つまり上位にあるものが、その地位を利用して横暴に振る舞うことであり、古くから韓国の伝統社会に存在する言葉だ。今風の言葉でいえばパワハラだろうか。
カプチル事件として有名なのは、やはり「ナッツ・リターン事件」だろう。2014年12月、アメリカのジョン・F・ケネディ国際空港で離陸のため滑走路に向かい始めた大韓航空で、ファーストクラスに乗客として乗っていた大韓航空副社長(当時)が、袋に入ったままナッツを出すのはけしからんと激高し、旅客機を搭乗ゲートに引き返させた事件である。チーフパーサーは暴言を浴びた上で飛行機から降ろされ、そのことで運航が遅延して多くの乗客が被害を受けた。
ナッツ姫ことチョ・ヒョナ副社長は韓国に戻った後に逮捕されたが、「まるで魔女狩り」とまで言われるほど、韓国社会のバッシングはすさまじかった。いくらなんでもこれはやりすぎではと、彼女を擁護する意見なども記事にしてみたが、その時に感じた違和感は今も残っている。いくら容疑者とはいえプライバシーは一切考慮されない。やはり韓国で財閥ファミリーは「公人」扱いなのだとあらためて思った。
そもそもこの手のバッシングはジェンダー・バイアスという点でも不愉快なものが多い。日本でのカプチル事件といえば豊田真由子元議員を思い出すが、彼女をめぐる報道も本質からずれたものが多かった。
特に驚いたのは、拘置所の雑居房での様子までが、図解入りで詳しく報道されたことだった。
「特別待遇はないだろうな?」
もっとも国民的な強い監視には理由がある。これまで財閥オーナーたちは事件を起こしても、政権の都合や便宜で常に「特別待遇」を受けてきた。もうそれは許さない。特に、この時期の韓国といえば、4月に起きた「セウォル号事件」を巡って、朴槿恵政権に対する不信や怒りが社会を覆っていた時期でもある。その矛先をずらすために「ナッツ・リターン事件は利用された」という見方も、今にして思えばあながち間違いではなかったかもしれない。
興味深かったのは、事件の裁判に「証人」として出廷し、謝罪したナッツ姫の父親、チョ・ヤンホ韓進グループ会長(当時)だった。チョ会長は事件の発覚直後から、「私の教育が悪かった」等、「父親」として発言を繰り返していたが、はたしてその「教育」はどんなものだったのか。
韓進グループは、創業者のチョ・ジュンフン(趙重勲)がリヤカー1台で始めた運送業を、トラック、船舶、航空機と発展させた財閥である。草創期のリヤカー時代から米占領軍との関係が深かった会社は、ベトナム戦争の物資輸送で大きく発展した。ナッツ姫が生まれた1974年頃はちょうどその大発展期であり、この父親は子どもの教育どころではなかっただろう。
ちなみにナッツ姫には妹がいて、彼女もまた会議中にペットボトルを投げるなどの奇行が報道されている。さらに彼女たちの母親もまた度重なる警備員や運転手に対する暴行・暴言の容疑で逮捕されている。
もちろん財閥ファミリーには何人もの「お手伝いさん」や「家庭教師」がいて、子育てもその人たちに任される。ただ、そこをどう仕切るかが当主の妻の手腕となる。ドラマ『Mine』では、長男の妻がその役割を担っている。カプチル体質で暴力的な義母と義妹にも容赦しない彼女を見て、使用人たちは「本物の貴族だから」という発言をするのだ。
それが特定の財閥を指しているのかはともかく、冒頭にも述べたよう「サムスン家の帝王教育」は有名である。年齢的にはナッツ姫と5歳しか違わないイ・ジェヨン会長だが、「頭を下げて謙虚に人の話を聞け」という父の教えを忠実に守り、また高校生の頃から夏休みなどには系列企業や工場を訪問し、そこで何時間もの実地研修を受けていたというのはよく知られている。
彼の謙虚な態度は有名で、個人的に気に入っているエピソードは慶応大学留学当時の学友の話だ。友人が「李君、奨学金の説明会があるよ」と教えてあげると、「私は行かなくてもいいんです」と言ったとか。まわりの人々にとって彼はただの韓国から来た留学生にすぎず、まさかそんな大企業の御曹司だったとは思いもしなかったという。
「愛の不時着」「梨泰院クラス」「パラサイト」「82年生まれ、キム・ジヨン」など、多くの韓国カルチャーが人気を博している。ドラマ、映画、文学など、様々なカルチャーから見た、韓国のリアルな今を考察する。
プロフィール
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。