財閥ファミリーの教育
さて、教育の話だ。サムスン会長の慶応大学時代のエピソードは日本人の学友たちによっていろいろ紹介されているが、ナッツ姫も例の事件の頃に日本人の元同級生が「真面目でいい子でしたよ」と世間とはちょっと違うイメージを語っていた。こちらは米国コーネル大学時代のこと。財閥ファミリーのメンバーは。二代目以降ではほとんどが海外で教育を受けている。
サムスン会長の学歴はソウル大→慶応大学→ハーバード大と立派なものだが、その目的は本人の学問的欲求というよりは、まさに「会社」のためだった(彼自身は学業成績も大変優秀だったそうだが)。世界企業として飛躍するための経験と海外人脈の構築、韓国の財閥は創業者ファミリーがその先頭に立つ。サムスン会長は、日本留学に当たって当初は祖父や父が学んだ早稲田大学を希望したが、当時の早稲田の大学院にはそれにふさわしいAO入学制度がなかったため慶応大学になったという。
サムスンは特に日本への思い入れが強かったが、他の財閥ファミリーはストレートに米国大学を目指すのが普通だ。米国の大学にはさまざまな特権入学制度があり、莫大な寄付金や、その破格のスペックをもつ財閥の子息には入学しやすくなっている。校舎を丸ごと寄付して入学枠を確保している財閥企業もある。
したがって韓国国内での激しい受験競争を避けて、はじめから海外での教育を選ぶケースも多い。ドラマ『Mine』で物語の鍵を握る家庭教師は、その経歴として他の財閥ファミリーの子息を米国の名門ボーディングスクール(全寮制の寄宿舎学校)に入学させ、さらに同行もしたことになっている。これはその界隈ではよくある話だ。
「ボーディングスクールは全寮制ですが、週末は家に帰れます。アメリカの子たちと違って留学生は家には帰れませんが、韓国の子の中には学校の近くに家が借りてあって、週末はそこで家庭教師と勉強をするんです。すごいですよ、ついていけない」
以前、韓国人の留学熱を取材した時に、いわゆる10(テン)スクールの1つに子どもを入れた日本人の親から聞いた話だ。10スクールをはじめ、アメリカには名門ボーディングスクールがいくつもあるが、そこでアジア系留学生は年々増えている。インド、中国、韓国、さらに台湾なども多い。ハーバード大学などアイビーリーグへの進学で知られる名門ボーディングスクールは、学業的にもとても厳しいため、全寮制にもかかわらず韓国から家庭教師が同行するケースがあるのだという。
同行するのは家庭教師だけではない。これはかなり前の話になるが1990年代半ば、私が韓国のテレビ関連の仕事をしていた頃のことだ。局から独立して番組制作会社を作ったばかりのプロデューサーが、小学生の息子の同級生の親にこんな話をもちかけられたという。
「子どもをスイスのボーディングスクールに送るので、学友として一緒に行ってほしい。お宅の子どもさんの費用は全額こちらで負担するから」
その同級生は韓国でナンバー3の財閥会長の孫だった。しかしソウル大卒の社長はプライドが高く、さらに当時はまあまあ羽振りもよかった。そこで「わかりました。行かせましょう。でも自分の息子の費用はうちで出しますから」と大見得を切ったのだ。
「社長、さすがです!」
当時の私はまだ若かったし、ガッツある韓国人に感動した。ところが2年後にIMF金融危機が起こり会社は倒産、息子は途中退学して韓国に戻ってきた。可哀想に……と、同情したが、この子はその後猛勉強してソウル大学に合格、屈辱を晴らした。やはり韓国人の根性はすごいと思う。
教育は財閥に倣え? 富裕層からサラリーマンまで、初期留学への熱気
まるでドラマみたいな話だが、韓国で長く暮らすとこんなことは頻繁にある。日本にも海外のボーディングスクールに行く子はいるし、書店に行けばそんな体験談を書いた本も並んでいたりする。でも、それは限られたごく一部の人々のことであり、日本人の多くにとってはあまりに関心がない、いわば「別世界の話」だろう。ところが韓国人は徹底的な水平思考があり、はじめから「別世界」などと分けてしまわない。
友だちの自慢をした友人は、韓国人の夫に言われたそうだ。
「なんで羨ましいなら自分もしないんだ。日本人は理解できない」
財閥ファミリーがすることを、一般富裕層が追いかけ、さらに普通の人々もそれに刺激される。財閥は企業体として韓国経済を牽引するが、それ以外の面でも韓国社会に与える影響力はすさまじく大きいのだ。
その一つが海外留学だった。韓国では2000年代に入ってから、猫も杓子も(韓国語では「犬も牛も」)の大留学ブームが起きて、普通のサラリーマンまでもが子どもが小学生のうちから海外に留学させようと躍起になった。
「年間7万ドル(700万円余り)もするボーディングスクールは無理でも、母親が同行して現地で部屋を借り、パートなどもしながら公立の学校に通わせればいいんです」
とか、いかにもお手軽なプランを進める留学コンサルタントなども乱立し、社会は騒然とした。一人残された父親は「キロギアッパ(渡り鳥のお父さん)」と呼ばれ、その孤独死なども大きな社会問題にもなった。
そこで、李明博元大統領は2007年の選挙戦当時、「初期留学の防止」のために「韓国の公立学校で英語による教育を全面的に実施」や「国内のインターナショナルスクールの増設」など、まさに「英語教育づくし」の公約を並べた。英語による教育はさすがに無理だったが、欧米のボーディングスクールを模した全寮制のインターナショナルスクールが済州島にできるなど、公約のいくつかは実現もされた。
ただの富裕層とは違う、韓国における財閥の役割
その当時の「キロギアッパの悲哀」を、みごとに描いたのが映画『エターナル』(2017年。イ・ジュヨン監督)である。主演のイ・ビョンホンの切ない表情は胸にグッときたけど、その顔を見ながら一人の韓国人の友人を思い出した。彼もまたブームの中で娘を英国のボーディングスクールに送ってみた。そこは海外の王族も留学するとかで、生徒個人用の馬小屋や馬番用の部屋まである学校だったが、恐ろしいほどの授業料で、下の子まで考えると経済的に継続は不可能だった。
「自分は裕福だと思っていたのですが違ったんですね。子どもたちの希望を叶えてやれないのが情けなくて……」
彼は悲壮感いっぱいだったが、そんな「希望」すら思いつかない私には、彼の悲しみが理解できなかった。王族が行く英国ボーディングスクールなど、日本では皇室周辺のことぐらいでしか話題にならない、まさに「究極の別世界」なのだが、韓国にはそのタイプの別世界は存在しない。
韓国の財閥は伝統貴族ではない。彼らは経済活動に成功した人々であり、さらに重要なのはその経済活動が現在進行形であることだ。3代目となった今もしっかりと成長を続けている、その躍動感こそが韓国の財閥の魅力である。時には国民を激怒させる事件も起こしながら、それでもやはり夢を与えて続けているのだ。
映画やドラマへの財閥グループの影響は既に書いたが、ドラマ『Mine』には美術館が頻繁に登場する。美術館経営も財閥のお家芸であり、韓国国内のコレクションの多くは財閥ファミリーによってもたらされた。そのあたりは日本の明治時代の企業家などとも重なる。
そして韓国の財閥はグローバル企業となっても、やはり愛国者であろうとする。
私が韓国で暮らし始めた頃は、サムスンもLGもまだ世界的な企業ではなかった。その頃は明らかに格上だった日本のメーカーの社員に小馬鹿にされて、彼らが悔しい思いをしたのも知っている。歯を食いしばって我慢する、屈辱に耐えながら努力する、その姿を見てきたせいか、個人的には韓国の財閥ファミリーに対して思い入れが強い。
もちろん財閥の独占状態や、ひどいカプチルには強い怒りも感じる一方で、それが度を越すと同情心も湧いてくる。私もまた、アンビバレントなようだ。
「愛の不時着」「梨泰院クラス」「パラサイト」「82年生まれ、キム・ジヨン」など、多くの韓国カルチャーが人気を博している。ドラマ、映画、文学など、様々なカルチャーから見た、韓国のリアルな今を考察する。
プロフィール
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。