スポーツウォッシング 第9回

スポーツをとりまく旧い考えを変えるべき時がきている

筑波大学・山口香教授インタビュー後編
西村章

スポーツが国家やジェンダーの枠組みを超えていくために必要なこと

――スポーツと政治、スポーツと国家、の話に少し戻して、山口さんのオリンピアンとしての経歴からうかがいたいのですが、オリンピックはあくまで理想論を言えば、国家を背負わないアスリートたちによるスポーツの祭典ですよね。とはいえ、選手たちは現実に各国各地域のNOC(国内オリンピック委員会)の参加枠から選抜されて出場してきます。そこで戦う選手たちは、やはり「国家を背負う」という意識になるものなんですか?

山口 国家を背負う、というよりも〈チームジャパン〉なんですよ。日本チームなんです、どこまで行っても。それは世界選手権だって何だってそうなんですけれども、選手たちはチームとして動くから、そこがたぶん、プロの世界とは違うところなんです。
 大坂なおみさんや松山英樹さんは〈チームなおみ〉〈チーム松山〉として動いていますよね。チームなおみやチーム松山のスタッフやコーチには日本人もいればアメリカ人もいて、多国籍軍団です。だからこそ、「日本を背負う」と意識する必要もありません。
 だけど、たとえば柔道では、戦っているのは個人であったとしても、日本チームとしてドクターがいてコーチがいて、その集合体が日本代表としてまとまっています。そこがもっとプロフェッショナルスポーツのような形態になっていけば、アスリートたちの意識も変わっていくのかもしれませんが、そうなるとそこにまた、国の思惑が絡んでくるわけですよ。「なんでそこにお金を出す必要があるんだ」という(笑)。

――「なぜ、我々がキミたちにわざわざ強化費を出しているのか。その意味を考えなさい」という。

山口 そうです。大坂なおみさんや松山英樹さんもオリンピックには出場するけれども、あの人たちはどちらかというと、日本代表として出て・・いただいて・・・・・いる・・、くらいの立場です。でも、アマチュアスポーツの場合はそうはいかない。「国がこれだけの強化費を投入しているのだから、やっぱり皆さんには日の丸をつけていただかないと」ということになる。それをアスリートが国を背負っていると感じるかどうかは、また別の問題ですけれども。
 予選のシステムが、国家代表ではなく一匹狼でエントリーできるような仕組みになっていけば、たとえばアジア予選のような枠組みで国を超えて強い人が参加して勝ち抜いていくシステムをうまく構築していければ、スポーツの未来像も変わってくるかもしれません。
 なぜ国がスポーツに対して強化費を使うのかといえば、お金をかけることによって競技を強くして、それを通じて国家のプレゼンスを向上させるという目的が一部にはあるからですよね。だから、東京オリンピックでも、金メダルを何個取りました、お金をかけた意義がありました、という話になる。
 でも、「もうそろそろ、そうじゃなくてもいいんじゃないか」という考え方も一方では広がりつつあります。日本人を勝たせて日本の名前を上げようとするから国もお金を投入するし、そうなれば国家とスポーツは切り離せないことになってしまう。
 だけど、たとえばスケートボードなんて、あの子たち、別に国にお世話になってなくても勝ちましたよね。あれができるんだったら、これからはもっと自由度の高い国家とスポーツの関係性があってもいいんじゃないか。
 ただ、広く世界を見渡してみると、世界には先進国と途上国があるので、グローバルノースとグローバルサウスの格差にオリンピック委員会がどういう形で関わっていくのか。あるいは、LGBTQ+やトランスジェンダーに対する取り組みをどうしていくか。そういった現代的な課題に真っ正面から取り組んで積極的に詰めてゆけば、オリンピックの価値はもっと上がっていくんじゃないでしょうか。
 たとえば「私はトランスジェンダーだけれども一緒に競技をしたい」という人がいれば、その人が記録を更新した場合に、追い風参考記録のような考え方で(トランスジェンダー)と但し書きをつける、という参加方法を、受け入れ側や参加側が認めていけるのかどうか。

――競技結果の扱いと平等性はそれで担保できたとしても、スタートラインについた時にどれだけ他の選手と条件を揃えることができるか、ということも問題ですよね。スタートラインについた段階でトランスジェンダーのほうが有利になるのであれば、競技の公平性を保てないことになるから、参加の是非が議論になるわけですね。そのスタートラインをフラットにする方法や競い方がはたしてあるのかどうか。

山口 競技によって様々な方法があるとは思います。たとえばゴルフでは、ハンディキャップという考え方があるじゃないですか。ハンディを与えることで、初級者と上級者が一緒に競技を楽しむあのシステムは、普通に受け入れられていますよね。
 それと同じように、トランスジェンダーの人が有利になるような差があった場合に、たとえば「3秒プラスでお願いします」というような話ができるのかどうか。先端的な医学や科学の研究をベースにして「筋力差を考慮すると、タイムのハンディは何秒だ」という条件で公平性を維持できるのかどうか。そして、双方が受け入れることができるのか。「そんなことはオリンピックではあり得ない」と一蹴するのは簡単ですが、どうすれば歩み寄れるかを模索していったほうが、一概に排除してしまうよりも建設的な議論ができると思いますし、もし、それができたならばスポーツの価値がもう一段上がるかもしれません。
 これはつまり、〈フェア〉〈平等〉というものをどう捉えるのか、というところに行き着くんですよ。身長や体格など、人は生まれながらに持っているものが皆違うんだから、それを言いはじめると、そもそもスポーツは成り立ちません。だから、トランスジェンダーの人たちを性自認に基づいて競技へ受け入れるのであれば、限りなくフェアに近い条件設定にすることでうまく折り合いをつけていくことができるんじゃないかな。そう私は思うんですけどね。

――〈インクルージョン(包摂性)〉というのは、そういうことですもんね。

山口 そうですよ。極端な例ですが、たとえば義足をつけている子供がいたとして、その子が徒競争に出て勝ったとしたら「あの子は義足だから勝ったんだ」とか「ずるい」って言いますか? その子に、「おまえは義足でずるいから、仲間に入れてやらないよ」って言うのは、いじめ以外の何ものでもないですよね。だけど、今のトップスポーツはそういうことを言っているわけです。それで本当に私たちは社会に対して、「スポーツってこんなに素晴らしいものなんですよ」と胸を張って言えますか?
 ハンディキャップということで言うなら、パラリンピックがまさにそうですよね。障害の種類や程度によって細かく分類されているじゃないですか。そうやって競技の公平さを維持していることに対して、誰も有利不利の不満を言わない。そういういい前例があるんだから、うまく折り合いをつける方法がきっとあるんじゃないかな、と思うんです。
 そういえば先日、いろんな研究者の方々にスポーツの多様性について論じてもらう雑誌の企画があったんですが、その中でイギリスのキツネ狩りについて、とても面白い文章を読みました。キツネ狩りは人間の叡知を結集して犬も鍛え、風や地理の情報も収集して銃でキツネを狩るんですけれども、相手はキツネだからデータはあってないようなものなんです。そうやって自然と対峙し、未知のものに挑戦し、あらゆる可能性を考えて追い詰めてキツネを狩る。
 しかし、最後の決め手は結局、運なんですって。狩りを競う相手との間に勝敗はなく、運が良かったことに感謝し、互いを讃えあうそうなんですが、スポーツもそっちの方向に行くべきだと私は思いますね。私もずっと戦ってきた人間だから、金メダルだ銅メダルだと、こだわりたくなる気持ちもわかるんですが、人間同士の競い合いをもっと広い心で眺めることができるようになれば、国同士のメダル争いだって「何か意味ありますか?」というふうにだんだんなっていくんじゃないか。
 スポーツって、本来はそういうものなんですよ。良い好敵手に巡り合うと、その人と戦うことで自分自身がさらに高まる。その人がいなければ、自分はここまで来ることができなかった。競技を通じてそういった謙虚さや感謝の気持ちが伝播していけば、世界の人々ももっと高められていく。その考えをスポーツを通じて体現していくためには、「もう国家同士の争いじゃないでしょ?」ということを、いち早く私たちは見せてかなければならない。

――それでも、オリンピックになると「どの国がメダルをいくつ獲った、日本はいくつだ」と、特にメディアがそれをいつも煽りたてますよね。オリンピックとは国家同士のメダル競争ではないということもずっと言われ続けていますが、いつまでたってもメディアの側が改めない。つまり、それを見ている国民の側もそれをおそらくよしとしているし、そういう見方を求めている、ということなんでしょうね。

山口 まずは国旗と国歌をやめてみるのはどうでしょう。開会式だって、国ごとに旗手が先頭になって整然と入場行進するんじゃなくて、閉会式と同じように皆がなんとなくわぁっと入ってきて、わあっと散って帰っていく。国旗と国歌をなくすだけで、国家ごとの争いという印象はずいぶん薄まると思います。

――表彰台でも、国旗掲揚と国歌吹奏をなくす。

山口 「私たちが目指しているのは、もはやそういうことではないんです」というメッセージですよね。もちろん各選手は各NOCの代表ではあるんだけれども。

――IOCはそういう方向に行きますか?

山口 うーん……(長考)。行かないと思います。今のオリンピックは都市開催ですよね。次の2024年はパリで、2028年がロサンゼルス、2032年がブリスベン。では、サッカーワールドカップはどうかというと、次の大会はアメリカ・カナダ・メキシコの3ヶ国開催で、今年夏の女子大会もオーストラリアとニュージーランドの共催ですね。だから、オリンピックもそうやって複数国でやるのも一案ですね。

――東南アジアオリンピックを開催して、タイとマレーシアとカンボジアとラオスでやる、というような。

山口 そういうことができるようになると、「国の栄誉と威信を賭けて北京でやりました!」ということもなくなって、きっと開催可能な国が増えますよね。それぞれの都市が持っているモノを持ち寄ってやろうよ、ということになれば、なによりお金もかからなくなりますし。たとえば、カザフスタンはボクシングが強いんで「じゃあうちはボクシングやります」と言って、東京は「申し訳ないけどうちは武道館があるんで、柔道だけはやらせていただけませんか」とかね(笑)。そうすると、もしかしたら将来は北アフリカとヨーロッパの国の共同開催などの可能性も見えてくるかもしれない。
 だって、今のやり方だと負の遺産が増えるばかりで。もはや手を上げる都市がないんですから。

――立候補を取り下げる都市もありますしね。

山口 もう、今のような莫大な経費を考えると躊躇するのもわかりますよね。オリンピックはインバウンド効果も高いから、複数国で開催すれば経費負担は分散され、経済効果は享受できてむしろいいじゃないですか。
 私も含めて、スポーツを研究し、スポーツに関わっている人たちは、そういう知恵を出すことが仕事だと思うんです。既存のものでずっとやって行くよりも、「こんなやり方もあるんじゃないですか?」「こういうふうにやれば、もっとスポーツが平和に貢献するんじゃないですか?」というふうに。
 アスリートだって、東南アジアオリンピックになったからといって、何か困ることありますか?

――むしろ、いいことしかないような気がしますね。せっかくASEANという社会的政治的経済的な枠組みがあるんだから、それを使わない手はないですよね。

山口 開会式や閉会式も、それぞれの場所でセレモニーをして、それが世界に放送されるのもきっと楽しいし、国際色もさらに豊かになりますよ。

次ページ スポーツとオリンピックの新しい在りようを考える
1 2 3 4
 第9回
第10回  

関連書籍

MotoGPでメシを喰う グランプリパドックの生活史
MotoGP最速ライダーの肖像

プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル
プラスをSNSでも
Twitter, Youtube

スポーツをとりまく旧い考えを変えるべき時がきている