〈スポーツウォッシング〉という行為やそれに伴う問題は、日本でも2021年夏の東京オリンピック以降、主に活字メディアを通じて少しずつ認知されるようになってきた。しかし、じっさいにこの問題を取り上げて積極的に発言をしてきたのは、研究者や一部のジャーナリストのみで、最大の当事者であるはずのスポーツ界からは〈完黙〉に近い状態がずっと続いてきた。そんなスポーツの世界で、当事者として内部から忌憚のない批評的発言を続けてきたのが、筑波大学教授の山口香氏だ。
山口氏は、自身がオリンピアン(1988年ソウル五輪柔道銅メダル)でもあり、現役引退後は全日本柔道連盟教強化委員や日本オリンピック委員会(JOC)理事に就任。東京オリンピックの際には、JOC当事者でありながらどこにも忖度をしない冷静で積極的な批判を行ってきた。
その山口氏に、スポーツ界内部の当事者として、スポーツウォッシングに関する質問を様々な角度から投げかけてみた。前編である今回は「日本選手はなぜ自らの考えを主張しないのか?」を軸に、スポーツと政治・国家について考察する。
――山口さんは、朝日新聞の不定期連載『襟を正して』でも、カタールでサッカーワールドカップが開催された時に、スポーツウォッシングに言及してらっしゃいましたよね(https://digital.asahi.com/articles/DA3S15491665.html)。まずは山口さん自身がスポーツウォッシングについてどう考えているのか、というところから教えていただきたいと思います。
山口 スポーツには、爽やかさやフェアプレイといった、いいイメージがありますよね。そのいいイメージを使ってダーティなものを覆い隠し洗い流してしまおうとするスポーツの利用、ということになるでしょうか。いわゆるプロパガンダとも、ちょっと重なるところがあると思います。
特に私が現役だった当時は東西冷戦の時代だったので、東側のソ連や東ドイツは特にスポーツを国威発揚や国家戦略に利用していて、ドーピングも顕著でした。スポーツは人々の関心を集める非常に魅力的な素材なので、ヒットラーのベルリン五輪の時代からそうやって利用されてきた歴史があるし、裏を返せば、スポーツはそれだけ価値が高いものである、ということの証拠でもあると思います。
でも、だからこそスポーツの側が気をつけておかないと、無意識のうちに利用されてしまう。たとえば今、コマーシャルや広告にいろんなアスリートたちが出ていますが、スポーツウォッシングとは言わないまでも、あれだって広告主のイメージ戦略ですよね。スポーツ選手の良い面を自分たちの商品に重ねて、イメージアップを狙っているわけですから。
スポーツに限ったことではないと思いますが、スポーツはやっぱり、そういったイメージづけに利用されやすいんだ、と強く感じますね。
――そういった利用されやすさや、だからこそ気をつけなければいけない、という自覚を、アスリートたちはどれくらい意識しているものなんでしょうか。山口さん自身の経験や、若い選手たちを近い距離からご覧になって、どんなふうに感じますか。
山口 選手のうちは、利用されるという考えよりも、自分が一所懸命頑張ってきた対価として評価してもらえた、という感覚だと思うんですよ。でも、それが私のように、社会に出て少し離れた距離からスポーツやアスリートを俯瞰して見るようになった時に、「ああ、やっぱり気をつけなきゃいけないよね」と初めて気づくのであって、現役のアスリートたちにそこを意識して気をつけなさいよというのは、少し難しいかなと思いますね。
ただ、近年では、10代や20代のアスリートばかりじゃなくて、40代や50代の現役アスリートもいて、その人たちには社会経験もあるし、社会人として考える力が当然備わっています。だから、ひと口にアスリートといっても様々だと思います。
――競技生命が長くなっているぶん、選手の年齢層も当然広くなりますね。
山口 そうですね。また、諸外国と比べると日本の場合は、世間がアスリートにスポーツのパフォーマンス以外のものを期待しない傾向が強いように感じます。選手たちもそういうふうに育ってきませんでした。
おそらく日本は諸外国と切り離されて海に囲まれた島国だから……と言うと、「イギリスだってそうじゃないか」と反論されますけれども、イギリスってアイルランドやイングランドがあって、民族対立も経験してきた長い歴史があります。植民地も世界中にあったし。そういった文化的歴史的背景の違いを考えると、日本の場合は同じ島国でも、アスリートに限らず、生活レベルでの多様性にあまり馴染んでこなかった印象もありますよね。
――日本では、アスリートたちはずっとスポーツの中で純粋培養される環境にいて、スポーツを取り囲む人々も、アスリートたちがスポーツ以外のことに触れるのをよしとしない風潮が長く続いてきたように思います。しかし、メディア環境が大きく変化している現代社会では、アスリートといえども、外の世界や社会と遮断された純真無垢な存在ではいられなくなっているんじゃないか。いち取材者のスポーツファンとしては、そう思います。
山口 そうですね。確かにそのとおりで、スポーツが持っている価値を私たちが訴えていく場合でも、それぞれのアスリートたちが自立して、社会の中での自分の考えや他者との関わりをどう自覚してどう行動するか、どう発言するか、といったことは、当然求められていくだろうと思います。
ただその一方で、考える力や発信力とスポーツって、たぶん似ているところがあると思うんですよ。ものごとには段階があるじゃないですか。
――段階というと?
山口 たとえば、柔道を始めたばかりの人がいきなり全国レベルの大会に出ても、コテンパンに負けますよね。すると自信を失って、「もう試合には出られないな、柔道やめよう……」と思ってしまう。全国レベルを目指すのであれば、まずは年齢別の大会や地区大会を経験して、その段階を経ることで能力やパフォーマンスが徐々に上がっていく。
考える力や発信力も、一緒だと思います。難しいのは、「スポーツの能力」と「考える力」が並行して進んでいかないところです。たとえば、若い選手が卓球のチャンピオンになったとしても、考える力や発信力も一緒にチャンピオンクラスになるわけではない。でも、社会からはそのレベルを期待されるわけです。アスリートの考える力がスポーツの能力に追いついていくためには、育成段階からその環境を周囲が整え、選手たちも自覚しつつ成長していくことが必要なのだろうと思います。
稚拙でも視野が狭くても何でも言えばいい、というものではないし、言えば当然、その発言には責任が伴います。アクションを起こせば必ずリアクションがありますから、するとアスリートは「そんなつもりじゃなかったのに炎上しちゃったから、二度と発言するのはやめよう」ということにだってなりかねないですよね。
――メディアは、往々にして言葉尻だけを捉えることも少なくないから、それで炎上してしまうケースもありますね。
山口 そう。で、それが引き金になって、本来の競技のほうもダメになってしまう場合だってありえます。心と体は一体だから、何かで気持ちがつまずけば、パフォーマンスのほうでも当然つまずきやすくなる。おそらく、スポーツ関係者たちはそういうことをリスクと捉えて「今はとにかく競技だけに集中しよう」と選手を育てていく。それが従来の日本の育成方法です。
だから、生まれ育った環境はアスリートにすごく大きな影響を与えていると思います。大坂なおみさんがずっと日本で生まれ育っていたら、あのように積極的な発言をする人物にならなかった可能性もあります。彼女がアメリカでひとりの人間として様々な体験をしてきたことと、テニスの選手としての経験が混ざりあった結果、あの発言や行動が出てきたものなんじゃないか、と思います。
翻って日本を見てみると、アスリートたちはある意味、安全で守られた環境の中で育っていると感じますね。日本のアスリートたちは切実に何かをあえてする必要はないわけですから。
プロフィール
西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。