スポーツとオリンピックの新しい在りようを考える
――結局のところ、2021年の東京オリンピックだって、いったいあれは何だったのかということがいまだによくわからないんです。
山口 きっと誰にもわからないんじゃないですか。1964年の東京オリンピックは意味があったと思いますけれども。
――日本が高度経済成長に入って、敗戦からの復興とプレゼンスを世界に知らしめる作用はありましたよね。新幹線ができたり首都高ができたり、というインフラ面のプラス効果もありました。しかし、2021年のオリンピックはいろんな点で賛否が対立した大会で、「レガシー」という言葉だけはやる前からさかんに言っていましたが、結局誰も総括をしないままで、総括するにも、もはやその総括する主体が何も無いというありさまです。
山口 今は、先進国こそ開催する意義をなかなか見出せないんですよ。1964年は日本が戦争で負けて焼け野原になったところから立ち上がってきた開催だったわけですが、スポーツが役に立つのは復興のときなんです。悲惨な戦争や紛争でボロボロになったところに、多くの人が入ってきて、自分たちには仲間がいることを感じ、立ち上がるエネルギーを得る、という役割を果たせるんですよ。
だから、たとえば今のウクライナはロシアに侵略されてひどいことになっているけれども、いつの日か平和が戻った時に、スポーツによって、子供たちや人々をを力づけて生きる勇気を与えることもできるでしょう。スポーツにはそういう効力があって、それこそ政治とはちょっと切り離したところでできることなんですよね。
ロシアとウクライナの関係にしたって、未来永劫ずっとああではない。指導者も変わって時間も経てば、いずれスポーツが必ず人々の役に立つときが来る。だけど、申し訳ないけど、それは今じゃない。そこまでスポーツに力はないんです。
――さきほど山口さんが言っていた、時間をかけてさざなみを起こし続けていく、ということですね。
山口 そうです。戦っている人たちに対して「スポーツをやって仲良くやりましょう」なんていうのは無理ですよ。さっき言ったみたいに、そこでスポーツで勝ち負けなんかつけようものなら、さらに血みどろの争いになってしまう。だけど、戦争が終わった後に、「やっぱり、仲良くするっていいことだよね」という何らかの力になることならできる。
だけど、2021年の東京オリンピックや次のパリには、オリンピックの理念である平和や友好のメッセージとして世界に訴える力があるでしょうか? むしろ、今までオリンピックを開催したことがないアジアやアフリカの複数都市が共同開催のような形で実施できれば、そこに参加するアスリートたちも主催都市もそれを観戦する世界の人々も、新しい経験や価値をきっと見いだせるでしょう。
オリンピックとは、そういう機会を与えるものなのか。それとも、あくまでも派手できらびやかなお金がかかるお祭りなのか。そのコンセプトを、今のIOCはうまく提示できていないと思います。オリンピックビジネスは成功しているので一度手にしたドル箱は手放せない、という状態にもなっていますよね。
――世界各地を転々としながら自分たちは開催地をダシに金を吸い上げ、また次の開催地へ金をむしり取りに行く、というシステムのようにどうしても見えてしまうんですが。
山口 オリンピックって、元々は貴族のアマチュアスポーツから始まっていますから、やっぱり貴族の遊びなんですよ。ノブレス・オブリージュの精神で、自分たちが得たものを分け与える、というふうには一応なっていますけれども……。
――彼らが去った後はぺんぺん草も生えないですよね。
山口 でも、たとえば東京だと開催して赤字だったからといって、それですぐに経済が困窮するわけではありませんから。というよりも、そういうところでしか開催しないんですよ。都市がたとえ借金を作ったとしても、「いいじゃん、国民も喜んだし、投資なんだから」みたいなね。そんなやりかたを続けているものだから、もう先進国の都市しか手を上げないし、そこでしかやれない。
だったら、先ほども言ったみたいに先進国を中心として5ヶ国の都市で共同開催するとか、何かそういう新しいコンセプトを出していかないと、そのうちどこも手をあげなくなりますよ。
スポーツウォッシングという観点でも、国の思惑や関わりをいかに薄めさせていくか、ということを皆で考えていかないと、スポーツ本来の楽しさや自由がなくなってしまいますよね。
スポーツって本当はもっと自由で伸びやかなものなのに、先ほどのトランスジェンダーの問題もそうだけど、どんどん窮屈で小さくなってしまっているように見えます。排除するのではなく、どうすれば受け入れることができるのか、と考えることからコミュニケーションも生まれてきます。
その点では、ヨーロッパのほうが歴史的にもスポーツに対する懐の深さがあるような気がしますね。スポーツは社会にとって有益なロールモデルになり得るんだ、というふうに。
――人々がそうやってスポーツを観戦することで、世の中のインクルージョンに対する考え方もどんどん変わっていくでしょうしね。
山口 さっきのキツネ狩りの話もそうだし、将棋だって、勝負が終わったら感想戦というものがあるわけじゃないですか。死力を尽くした戦いの手の内を明かして、対戦相手との読み合いを楽しむという、何か余裕のようなものをそこに感じるんですよ。
将棋ってどんな年の差があっても、「負けました」っていうでしょ。あれは、戦う相手に対する最高のリスペクトですよね。そういうものを、彼らは私たちに発信してくれているわけです。私もいい年になってきましたので老害と言われないように教訓にしたいですね(笑)。
スポーツの世界も、勝ち負けにとことんこだわるのもいいけれども、勝負が終わったときには、将棋の感想戦みたいに互いに相手を評価して讃えあう。その精神は忘れたくないですね。
――ラグビーのノーサイドって、まさにそういうことですもんね。
山口 そうそう。アスリートたちだって、そういうことを子供たちには言うんですよ、「負けてもいいんだよ」って。でも、「じゃあ、あなたは本当にそう思って競技をやっていますか?」って訊いてみたいですよ。
柔道でも、発展途上国の選手が頑張って日本の選手に勝ったりすることがあります。これだけお金をかけていて、減ったといっても柔道人口が多い日本が負けるのは恥ずかしいことかもしれない。でも、むしろその日本選手に勝った選手がすごくないですか? 報道する側だって、そういう視点に立ったほうがいいと思います。
――報道について言えば、競技者や組織に対して、どれだけナショナリズムから適切な距離を保つことができるか、ということも課題ですね。
山口 この間も卓球の世界選手権をテレビ観戦していたんですが、やはり中国は強いですね。その中国に対して、「中国にはまだ及びませんが、我々もがんばります」と、そういう余裕のある応援をしたいですし、成熟した姿勢を目指したいですよね。中国やロシアなどの国でも、このような形でスポーツが機能していけばいいなと思います。
――中国もロシアも、おそらくはそうではない方向にスポーツを利用して、国威発揚のツールとして作用させようとしているでしょうね。
山口 日本がオリンピックで金メダルを数えるのは、どちらかというとそちらの作用に加担している行為なんです。そこを見誤らずに、淡々と頑張って勝った人は褒め、負けた人も讃える。そういう姿勢を貫いていくことが私たちの役割だと思います。それがお互いを高めあうということですから。
だからね、アヒルと一緒なんですよ。水面下では必死になって掻くんです、戦いだから。だけど水面の上では勝っても負けても涼やかな表情を崩さない、っていうのが理想ですよね。
――選手たちも、より成熟することが求められる。
山口 そうです。選手の側も国威発揚の戦略に乗らないように、勝ったら素直に喜ぶ、負けても潔く相手を称える。ウォッシングの道具に利用されないように、スポーツの世界を作っていくしかないんですよ。「スポーツウォッシングを仕掛けようとしたんだけど、アスリートや観戦している人たちのほうがずっと成熟しているから、全然乗ってこないじゃないか」という状態になっていくのが理想ですね。
――スポーツを取材する我々や日本のメディアも、「スポーツと〈政治〉を切り離す」という常套句で思考停止するのではなく、その言葉が意味する中身についてもっと深く考察し、検証していく必要があるのでしょうね。それが、山口さんの言う「世の中に対してスポーツが小さなさざ波を起こし続けていく」ことの一環にもなるのだと思います。現場で取材をしていて常々感じることなのですが、日本のメディアも選手たちも、そこに対する踏み込みはまだまだ浅いように思います。
山口 そうなんです。だから、もっとアスリートたちにもこのような取材をして、質問をたくさん投げかけてください。問われることによって選手たちも自分で考えて成長し、それがやがて日本のスポーツ界が変わっていくことにつながるわけですから。
撮影/五十嵐和博
プロフィール
西村章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。