宇都宮直子 スケートを語る 第25回

GIFT

宇都宮直子

 2023年2月26日日曜日、15時に横浜の家を出た。

 私は朝から気分が良かった。ただし、がんの治療中だから、身体は快調というわけにはいかない。吐きけがしていたし、胃やおなかが痛かったし、目眩も強かった。

 出かける前に処方薬を飲んだ。

 手のひらを覆うくらいの量を飲んで、頓服を服のポケットにしまう。水は常にキャリーバッグに入っている。

 それからダウンコートを着て、ブーツを履き、首にマフラーを巻き、使い捨てカイロを4個持った。

 帽子はフィンランドで買ったものだ。膝掛けは韓国、平昌オリンピックのメディアグッズを今も愛用している。

 医師からは「治療を続けられなくなると困る」ので、風邪を引かないようにと言われていた。備えあれば憂いなし、である。

 私はどうしても、なんとしても、出かけたかった。友人が送迎の車の用意してくれたので、道中に心配はいらなかった。

 車中では、17時(開演時間)から先のことを考えた。

 東京ドームでの約3時間のアイスショー、出演者は羽生結弦ひとり。いったいどんな公演になるのだろう。考えたが、よくわからなかった。

 私は贈り物を受け取りに行く。幸運に恵まれて、新しい羽生結弦を観に行く。現役を退いた彼は、とにかくとびっきり新しい。フィギュアスケートに革命的な影響を及ぼし続けている。

 高速道路は驚くほど空いていて、車はビュンビュン走った。こういうのは、ちょっと記憶にない。おかげで、ずいぶん早く会場に着いた。

 東京ドームの周辺は風が強かった。

 ポケットが淡いブルーの白いジャケットを着ている人を見かける。「GIFT」の公式グッズだ。完売していて、もう手に入らない。すれ違いながら、「いいな」と思う。

 会場には、3万5千の観客が集うらしい。改めて、羽生結弦の凄さを思う。特別なのを思う。

 前代未聞のショーが始まろうとしている。もうすぐ、フィギュアスケートの世界が変わる。

 これまで誰もできなかった、考えもしなかったことをやるのだ。そう、羽生結弦が。 

 

 フィギュアスケーターとしての東京ドーム単独公演「GIFT」は、史上初の試みである。広い会場であるにもかかわらず、チケットは抽選販売で完売になっている。

 さらに、国内80カ所以上の映画館でのライブビューイングが行われる。香港、台湾、韓国でも行われ、ディズニープラスではライブ配信される。

 ショーの構成は、羽生結弦の半生を追いかける内容で、彼自身が制作総指揮を務めている。

 スタッフが素晴らしい。音楽も演奏も振り付け、映像、ダンスも一流だ。客席は大いに喜んでいるように見えた。

 中央に作られたリンクは、堂々としている。リハーサルではなく、本番なのを知っている雰囲気だ。

 開演前は、「(この公演では)声援をあげてもいい」という主旨のアナウンスが繰り返されていた。

 コロナ禍は年月を経て、少しずつ社会を変え続けている。

 もし、体調が良かったら、私は声を上げていただろう。開演後には、「ブラボー」と叫びたい場面がいくつもあった。リンクまでは距離があったので、声が届いたかどうかはわからないが。

「GIFT」は華やかに、豪華に始まった。

「火の鳥」に続いて、「Hope & Legacy」、「あの夏へ」、「バラード第一番」、前半の最後が「序奏とロンド・カプリチオーソ」という流れだ。間に、プロジェクションマッピングを使った物語が織り込まれている。

 ところで、羽生はナレーションも上手だ。自らの半生を語っているからか、とても自然で、心にすっと言葉が入ってくる。

「大丈夫だよ」

 と彼が言ったとき、私は涙を拭いた。持っていたのは、タオル地のハンカチだ。

 ハンカチは、「SEIMEI」のカラーでデザインされている。羽生の試合のとき、私はいつもそれを持っていた。

 人生には「大丈夫」ではない局面ももちろんあるが、より良い方向へ進むことはできる。諦めなければ、絶対にできる。

 血の滲むような努力を重ね、彼はそうしてきたのだと思う。だから、羽生結弦はいつだって、最高なのだ。称えられるにふさわしい姿で現れる。

「GIFT」もそうだ。手が痛くなるまで、拍手をする。前半では、「序奏とロンド・カプリチオーソ」の演出、演技が好きだった。

 それは、北京オリンピックの再現だった。6分間練習から始まる。

 羽生は闘う人そのものに見えた。競技者でもない。演技者でもない。闘う人、私にはそんなふうに見えた。

 羽生は因縁(北京では、アクシデントにより失敗)の4サルコウを跳び、4トーループ、3トーループを細い軸で綺麗に跳んだ。

 まったく素晴らしいジャンプだった。挑む姿勢もいい。ブラボーだ。体温が上がるような感動を覚えた。

 前半終了後、ミュートになっていた携帯にLINEが入り始める。友人、編集者、都築章一郎家と「4」、「すごい」というやり取りをする。

 この連載の担当編集者(ディズニープラス組)からは、

「ロンカプ、良かったですね。4S、4T3T、3Aさすが!」

 と届き、

「涙! ほんとうに素晴らしいです」

「羽生五輪でしたね」

 というやり取りをした。

 完璧を求める姿勢は、苦難との対峙に他ならない。それを「夢」と呼ぼうが、「挑戦」と呼ぼうが同じだ。徹底した孤独と向き合うことを強いられる。

 もう一度、言っておきたい。

 だから、羽生結弦は美しいのだ。彼は自らの望む方向に歩き続ける。どこにもとどまらない。醒めない夢を糧に、人生の様相をどんどん変えていく。

 羽生はいつも

「少しでも、誰かの力になれれば」

 と口にする。

 彼は、「大丈夫」なのだ。 

 40分ほどの製氷を挟んで、後半が始まった。

 「Let Me Entertain You」、「阿修羅ちゃん」、「オペラ座の怪人」、「いつか終わる夢」、「Notte Stellata」という構成である。

 私は「阿修羅ちゃん」を知らなかったが、一度で好きになった。また、羽生のダンスがものすごかった。

 氷上で、あれほどのダンスを踊るためには、どれだけ練習を重ねればいいのだろう。速いテンポの曲でも音を外さないスケートに、羽生結弦のプライドを感じる。

 そして、「Notte Stellata」。好きなプログラムだ。無数の羽が、宙を舞っていた。リンクにだけでなく、会場中にひらひらと、だ。

 美しさを勝ち負けで言うのは間違っている。間違っているが、言う。彼らの勝利だ。「GIFT」にかかわったすべての関係者は、成功を誇りに思うべきだ。

 羽生には、言葉がない。ため息が出るほど美しかった。観ていて、胸が熱くなった。涙がこぼれた。

 彼には、人に伝えたいものがたくさんあるのだ。それを余すところなく伝えたのが、この夜ではなかったか。素敵な贈り物だ。

「GIFT」は、歴史的なアイスショーになった。羽生結弦にしかできなかったショーとして、語り継がれるだろう。

 大切な思い出として、多くの人の心に残されるだろう。

 

 私はエンドロールの途中で席を立った。

 頓服は飲んでいたのだが、体調が悪くなっていた。残念だったが仕方がない。倒れでもしたら、迷惑をかけてしまう。それが、いちばん嫌だった。 

 帰りの車の中で、思い出したことがある。ロシアでタチアナ・タラソワ氏と話をしていたときのことだ。

 彼女はジャムの入った紅茶を飲みながら、言った。

「羽生には、『白鳥の湖』がいいと思う。きっと素晴らしいわ」

 2023年2月26日日曜日、羽生結弦は白鳥のように気高く、美しかった。

 

 長くお休みを頂いていた連載ですが、再開いたします。これからも、読者の皆さまと一緒に歩いていきたいと思っております。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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第26回  
宇都宮直子 スケートを語る

ノンフィクション作家、エッセイストの宇都宮直子が、フィギュアスケートにまつわる様々な問題を取材する。

関連書籍

羽生結弦を生んだ男 都築章一郎の道程

プロフィール

宇都宮直子
ノンフィクション作家、エッセイスト。医療、人物、教育、スポーツ、ペットと人間の関わりなど、幅広いジャンルで活動。フィギュアスケートの取材・執筆は20年以上におよび、スポーツ誌、文芸誌などでルポルタージュ、エッセイを発表している。著書に『人間らしい死を迎えるために』『ペットと日本人』『別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った』『羽生結弦が生まれるまで 日本男子フィギュアスケート挑戦の歴史』『スケートは人生だ!』『三國連太郎、彷徨う魂へ』ほか多数。2020年1月に『羽生結弦を生んだ男 都築章一郎の道程』を、また2022年12月には『アイスダンスを踊る』(ともに集英社新書)を刊行。
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