宇都宮直子 スケートを語る 第28回

懐かしい人たち

宇都宮直子

 2019年の春、私はロシアを訪れた。

 ロシアへはそれまでも何度か訪れていたが、そのたびに体調を崩した。脱水症状で入院をしたこともある。

 心電図検査を何度か挟み、長く続く点滴がずいぶん心細かったのを覚えている。

 入院した病院のスタッフが親切だったのも覚えている。

「点滴の中身はジャストフルーツ、心配しないで。あなたは元気になって、日本に帰れます」

 私はそう簡単には元気にはならなかったが、医師の言葉通り帰国し、ゆっくり仕事に戻り、またロシアを訪れるようになった。

 フィギュアスケートの本が書きたかったのもあるが、何より、私はロシアの硬質な雰囲気が好きだった。

 バレエ、音楽などの文化、芸術にとても惹かれていた。ために、処方薬をたくさん持って、飛行機に乗った。

 ある意味、覚悟をしていた。

「ロシアに行けるのだから、倒れても仕方がない」

 そのくらい、ロシアが好きだった。

 だから、何も起こらなければ、2020年もロシアを訪れるつもりでいた。ロシアのフィギュアスケート関係者との約束もできていた。

「また来年お目にかかりましょう」

 でも、それはまったく果たされないままでいる。

 まず新型コロナウイルスの感染が起きた。地球規模で広がり、まるで鎖国のような状況を世界が強いられた。

 そして、2022年の冬、ロシアは徹底的な間違いを犯した。ウクライナへの軍事侵攻である。

 いかなる事情があっても、戦争を許してはいけない。断固として、戦争に反対をする。旗幟を鮮明にした上で、このエッセイを進めたいと思う。

 私には、ロシアに会いたい人がいる。何人もいる。

 家の冷蔵庫に、大きなチョコレートが入っている。

 スケート靴をかなり正確に模したものだ。全体にロシア風の飾りが施されていて、エッジと紐の部分はホワイトチョコレートが使われている。セロハンに包まれ、金色のリボンが結ばれている。

 縦と横がだいたい18センチ、幅は5センチくらいだ。ものすごく固い。食べられたのかもしれないが、もらったときにはすでに賞味期限が切れていた。たぶん装飾の意味が強いのだと思う。

 チョコレートをくれたのは、ロシアの重鎮、アレクセイ・ミーシンコーチ(1941年生まれ)である。

 彼は、それをサンクトペテルブルクにあるスポーツパレス「ユビレイヌィ」の自室に飾っていた。何かの記念に誰かからもらったものらしい。

「前はたくさんあったのですが、今は3個になりました」

 その3個すべてを、彼は私たちの取材チームにくれた。

「どうぞ、お持ちになってください」

 世界的なコーチであるのに、彼には高ぶったところがなかった。自慢も、人の批判もしなかった。

「そういうことは好きではないんです」

 と言った。

 ただし、語り口からは、威厳と誇りと愛国心が伝わってきた。静かだが、強さを感じさせる言葉を、ミーシンは使う。

 フィギュアスケートにおいて、彼とロシアは常に「優勝」を目指して、戦ってきた。どこの国も同じだという意見もあると思うが、違う。

 彼の現役時代(つまりソ連であった頃だが)は、社会主義であった。

「社会主義というのは一種の『ラーゲリ(強制収容所)みたいなものなんです。

 その中から、社会をのぞいているような感覚でした」

 そこには自由がなかった。かわりに、国の十全なサポートがあった。

 当時は、スポーツの発展に大きな力が注がれていた。フィギュアスケートもしかりである。

「社会主義国家のスケートというのは、国がすべての支払いをします。

 リンクも無償ですし、振り付けはバレエ団からきます。フィットネスの担当も、音楽家もコーチも非常にハイレベルでプロフェッショナルなのです。

 ソ連が負けるわけがありません。勝ち続けました。

 私がコーチとして成果を上げ始めたのはソ連の体制が崩壊(1991年12月)してからです。

 そこである種の自由を得ました。体制崩壊後、私は外国に行けるようになりました。自由は私の生き方、そして社会全体を変えたのです」

 体制崩壊後の一時期、国からのサポートは著しく減った。

「生きていく上で十分な環境に恵まれなかった世代はスケーターとして成功しませんでした。

 彼らは洋服を入手するのも、教育を受けるのもたいへんだったのです」 

 そうした中、ミーシンは「貧しい家の才能のある子どもたち」を何人か育てている。たとえば、のちに「皇帝」と呼ばれるエフゲニー・プルシェンコもそうだ。

 ミーシンが素晴らしいと思うのは、自らの功績を語らないところだ。「ラーゲリ」の中で、苦労がなかったはずがない。

 彼が大いに語るのは、選手の才能についてだ。

「才能とは見逃しようのないものです。必ず、見つかります。

 もっと言えば『見つける』んじゃなくて、向こうから『見えてくる』。昔は『コーチが素晴らしい子を見つけた。すごいなぁ』と言っていましたが、まったく違います。

 才能というのは、見つけられずにはいられないものなんです」

 簡単に、アレクセイ・ミーシンコーチの紹介をした。

 私の知っている部分なので、ほんの少しだ。それでも、素敵な人であるのはわかっていただけたのではないか。

 実際、ミーシンの姿勢、考え方に教えられることは多かった。いつか、また会えたら嬉しいと思う。

 2019年の春、彼は私たち取材チームに言った。

「今度は私のダーチャ(別荘)にいらっしゃい。いつでもいいですよ。ご招待します。いろんな話をしましょう」

 今は、「いつでも」は叶わなくなった。だけど、私はその提案を忘れていない。

 冷蔵庫のチョコレートのように、心に大切にしまっている。

 次回、私はエリザベータ・トゥクタミシェワ(1996年生まれ 2015年世界選手権優勝)の近況について綴る。

 トゥクタミシェワは、ミーシンの愛弟子である。ふたりの間には深い信頼がある。揺るがない関係についても紹介していきたい。

 サンクトペテルブルクのカフェで、彼女とも約束をした。

「また会いましょう。楽しみにしています」

 それも冷蔵庫のチョコレートだ。もちろん。

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宇都宮直子 スケートを語る

ノンフィクション作家、エッセイストの宇都宮直子が、フィギュアスケートにまつわる様々な問題を取材する。

関連書籍

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プロフィール

宇都宮直子
ノンフィクション作家、エッセイスト。医療、人物、教育、スポーツ、ペットと人間の関わりなど、幅広いジャンルで活動。フィギュアスケートの取材・執筆は20年以上におよび、スポーツ誌、文芸誌などでルポルタージュ、エッセイを発表している。著書に『人間らしい死を迎えるために』『ペットと日本人』『別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った』『羽生結弦が生まれるまで 日本男子フィギュアスケート挑戦の歴史』『スケートは人生だ!』『三國連太郎、彷徨う魂へ』ほか多数。2020年1月に『羽生結弦を生んだ男 都築章一郎の道程』を、また2022年12月には『アイスダンスを踊る』(ともに集英社新書)を刊行。
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