赤坂真理 なきものにされることへの物語り 第2回

生業訴訟「最高裁判決」のまやかし部分を徹底解剖する

赤坂真理×馬奈木厳太郎

読み比べの勧め

 最高裁判決の翌日に開かれた判決検討会は原告団の主だったメンバーすら姿を見せないなど、欠席が目立ったという。
 津波対策は防潮堤一択だったと脳内シミュレーションで決めつけ、「かりに津波対策がとられていたとしても事故が発生した可能性があり、よって国に責任は認められない」と粗雑に結論づけた最高裁判決にショックを受けたためだった。ある原告はその状況を「パニック状態」「抜け殻になってしまった」と表現する。
 ただ、判決文の精査が進み、三浦反対意見が広く読まれるようになり、様子が変わってきたという。堂々たる判決文の体裁をとった反対意見が原告側の主張をほぼ認めるものであり、後続の裁判に好ましい影響を与えるとの希望が広がったためだった。現在、原告団は三浦反対意見を「第2判決」と呼び、今後の粘り強い再起を誓いあう。

馬奈木 今回の判決で、司法に絶望したという原告もいます。でも、絶望したらダメだと思うんです。だって、最高裁には三浦判事のように真っ当な意見もあるんですから。捨てたもんじゃない。この反対意見は必ず、後続の訴訟に大きな影響を与えます。それによくよく考えると、判決は国の言い分を認めてはいない。つまり、国は自分たちの主張が最高裁に受け容れられて勝訴したわけではないんです。

赤坂 どういう意味ですか?

馬奈木 国の主張を平たく言えば、2002年に公表された「長期評価」は概して信頼性に乏しく、それを元に対策に取り組まなかったとしてもやむを得ないし、結果として敷地高を超える津波の襲来は予見できなかったというストーリーなんです。ところが、判決の多数意見は最初に説明した通り、この点にはいっさい触れていません。もし、多数意見が自信を持って「長期評価」が信頼できるシロモノでなかったと言えるならば、あるいは敷地高を超える巨大津波の襲来を予見できなかったと評価できるなら、はっきりと判決にそう書くはずなんです。でも、そうなっていない。
 おそらく多数意見を支持した3人の判事のなかで、この長期評価の信頼性や予見可能性の是非について意見が割れたんだと想像しています。おそらく1人は「長期評価は信頼性に欠ける」という国の主張に同意していなかったと考えるのが妥当です。

赤坂 ああ、2対2になったら「多数意見」というものが存在しなかった! 揺れていた裁判官はいたと思いますね。それを動かせなかったのは、法廷外の私たちにも責任がある。私たちの法廷外の働きかけが足りなかった! 「世論」への働きかけが足りなかった!

 馬奈木さんたち弁護団の活動も、実は法廷外の闘いが大きいのだと、過程を見ていて感心していました。足しげく現地に通う、土地の対話を繰り返す、勉強会を定期的に持つなど。そこには「市民運動」というものを感じました。それが通じて仙台高裁の判事が現地を見に来たり、被害者の話を聞いたりした。そういうことが仙台高裁の歴史的判決文「国は東電の説明を唯々諾々と受け入れた」にもつながりました。本当に画期的だったと思いますが、逆に言うと今まで、現地も見ない裁判官たちが判決を書いていたのだろうかと考えるのは、怖いことでした。

馬奈木 そう。2対2のイーブンになった論点については、多数ではないので多数意見として判決で触れることができない。そこで、多数を構成できた、対策をとっても結果は変わらなかったという因果関係のところだけ書いたのだと思います。そうだとすると、3対1といっても、多数意見は盤石ではありませんし、今回判決を書いた判示以外の最高裁判事のなかや、最高裁の調査官のようなスタッフのなかにも、反対意見に同調する人は少なくないのではないかと思われます。

赤坂 「多数意見」が素人目にも不格好でチグハグになっているのは、そうした積木細工のように危うい論旨を重ねに重ねているからなんですね。

馬奈木 今回の判決では、原告側の主張は残念ながら認めてもらえませんでしたが、一方で最高裁は国の主張を全面的に受け入れてもいません。しかも、この判決は国にとって痛し痒しとなりかねない。だって、「安全対策をしていたとしても原発事故という結果は一緒だから、国に賠償の責任はない」なんて理屈がまかり通ってしまえば、世論は当然、「だれも責任をとらない原発なんて物騒すぎて、とても稼働させられないよね」となってしまう。それは原発を推進したい国にとっては痛手になってしまうんです。

赤坂 私、今日の馬奈木さんの判決解説を聞いて、寺山修司の「身捨つるほどの祖国はありや」という短歌の一節が頭のなかをリフレインし続けています。国の基幹をなす行政や司法が、こんな適当な理由づけで責任から逃れようとしている。最初に言ったけど、三権分立もへったくれもない、この国は行政も司法も国民を見殺しにする悲しい国だなって。そう思うと、裁判を傍聴するために初めて内部まで入った最高裁の佇まいへの違和感もいまは納得という感じなんです。

馬奈木 最高裁を見てどう思ったんですか?

赤坂 「国家の権威」というものを目に見える形で具現化している感じ。高裁までは「人」のものなんだけど、最高裁は「国家権力」という抽象概念の具現。法廷に入るまでらせん状の長い階段を登らされたり、法壇が地裁や高裁に比べてとても高いところに設けてあるのを見ていると、階層性というか、芝居がかったような権威性というか、それを誰が見てもわかるようにつくった場所だという感覚を覚えました。

 また、傍聴人である私たちは「主権者」であるはずですが、南門という、低い位置にある裏門からしか入れない。「主権者」は「下々の者」と扱われる。
 もうひとつ、はっとしたことがあって、それは最高裁の正門のすぐ目の前が皇居だったということです。単なる立地の偶然ではない。こういう建物は象徴的につくられる。だとしたら、「欽定憲法(天皇が定めたという憲法)」を初めの憲法とした近代国家としてのいびつさを、日本という国はいまだに持っているのだろうという気がする。

馬奈木 裁判所ってだいたい全国どこでも歴史のある街だとお城のそばにあるんですよ。皇居って昔の江戸城ですから。他にも京都は御所の前だし、金沢も熊本も松山もお城の近くです。

赤坂 実は、最高裁弁論の日でしたが、最高裁の前に立って集会を見ていて、それはそのまま、「皇居を見る」ことだということに気づいたのです。最高裁は宮城(皇居)へと正門を開いている。欽定憲法を持っていたこの国の古い構造は、国家メンタリティとしては変わっていないのでは?とふと感じました。その時、この裁判、我々が負けるのではないかという予感を持ちました。趨勢としては勝っていたので、不可思議なほどの直観でした。最高裁、とは、高裁までとは違う場所だという直観がありました。そしてそれは当たりました。
 これは根拠がない直観だとは思わないんです。こういう建物は、象徴的につくるものだからです。そして、判決の報告集会へと車を走らせると、一直線状に靖国神社が現れる。この構図はまだ大日本帝国なんだ。そして一度力を持ってしまった物語は、かなりの意識的な解除をしなければ、自然と解除されるようなものでは決してない。だとしたら、まだ封建的な価値観は続いている。
 そして、もう一つ象徴的なことを言えば、福島第一原発とは、特攻隊の訓練飛行場が在った場所。皇居、特攻隊、靖国神社、と、一直線に並んでしまう。かつて国家が国家のために人々を平気で捨て石にした。そしてそのことをちゃんと謝罪していない。同じ構図が繰り返されており、国家の存続のために、人が犠牲を強いられるという構図が続いています。
 原発推進派にはかつて「原発の父」と呼ばれた正力松太郎が「広島、長崎のピカドンの思いに脅え、ビキニの水爆実験の被害におののく日本だからこそ、原子力の平和利用を進めないといけない」と言って原発を導入したように、恐ろしいことをスルリと逆のベクトルに転換させてしまうような不気味さというか、恐ろしさがあるじゃないですか。そこに無防備に取り込まれてゆくのは何だか、とても悔しい。
 以前に日本国憲法の理解を深めるために、みんなで「日本国憲法の条文を読もう」という運動が市民の間に流行したことがありましたよね。同じように、原発政策の現状を理解するために今回の最高裁判決の多数意見と反対意見を読み比べる動きが広まればいいなと思いませんか? 勝訴敗訴だけではない、判決文をさらりと読んだだけでも気づかない国の責任逃れも論理の破綻も、馬奈木さんのような法律家に解説してもらいながら読めば、よくわかると思う。

馬奈木 いいですね。難しく構えるのでなく、最高裁判決というものをちょっと読んでみようかという軽いノリで、読み比べ運動をぜひ世に広めましょう。

※最高裁判決文の全文はこちら。多数意見3人のうち、岡村判事は何もコメントしていない。菅野、草野両判事の言い分と、三浦判事の「判決文」とを読み比べると、非常に興味深い。
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/243/091243_hanrei.pdf

撮影/五十嵐和博

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プロフィール

赤坂真理
東京都生まれ。作家。2012年に天皇の戦争責任をアメリカで問われる少女を描いた小説『東京プリズン』(河出書房新社)が反響を呼び、戦後論の先駆けとなった。同作で毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部文学賞を受賞。その他著書に「象徴とは何か」と問うた『箱の中の天皇』(河出書房新社)『ヴァイブレータ』(講談社文庫)、『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)、『愛と性と存在のはなし』(NHK出版新書)などがある。
馬奈木厳太郎
馬奈木厳太郎(まなぎ いずたろう) 1975年、福岡県生まれ。東京合同法律事務所所属。福島原発事故の被害救済訴訟「生業訴訟」の弁護団事務局長。他にも岩手県大槌町の旧役場庁舎解体差止訴訟などの代理人を務める。演劇界や映画界の#Me Tooやパワハラ問題も取り組んでいる。ドキュメンタリー映画では、『大地を受け継ぐ』(井上淳一監督、2015年)企画、『誰がために憲法はある』(井上淳一監督、2019年)製作、『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』(平良いずみ監督、2020年)製作協力、『わたしは分断を許さない』(堀潤監督、2020年)プロデューサー、『憂鬱之島 Blueisland』(チャン・ジーウン監督、2022年)共同プロデューサーを務めた。演劇では、燐光群『憲法くん』(台本・演出 坂手洋二)の監修も務める。
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