遺魂伝 第4回 山田洋次

〝寅さん〟がいなくなって、日本人から喪われつつあるもの

佐々木徹

大人ならダメな部分をさらけ出して、若い人を安心させてやれ

――さきほど監督が言った、車寅次郎は役に立たない男という言葉が印象的で、思うに、このところの日本は効率よく役に立つ競争ばかりに追い立てられているのではないかと。要するに、がんばって役に立つ人間にならなければ自分の居場所はないと強迫観念的に考えている日本人が多い。それが結果的にゆとりのない窮屈さや息苦しさにも繋がっているのではないかと思うんですよね。

「そういう効率よくなんて言葉、寅さんに最も似合わないでしょ。まったくもって非効率な人間だし。だからまあ、言ってしまうと、寅さんって社会においては余剰人員なんですよ。だけど、余剰人員という言葉が、いかに非人間的か。だいたい社会の中で、余剰人員なんてものはいないんです。みんな同じ人間でしょう。みんな仲間なんだから。それでもやはり、効率よくテキパキと仕事ができるヤツ、要領を得ずに働きの悪いヤツが出てきてしまう。ただ、それらを含めて私たちは人間として共存しているわけでね。

 それなのに、最近の日本はこっちが仕事のできる効率のいいヤツ、そっちが役に立たない余剰人員と線を引いて区別しているような風潮がありますよ。それって、残酷なことです。私は寅さんの作品を撮り続けながら、常にそう思っていたね」

――これは勝手な個人的な思い込みかもしれませんが、どうもねえ、効率のいい人間ってどこか信用が置けないんですよねえ……。

「(笑)」

――子供の頃から勉強ばかりしていて、人間味がないというか。

「今の社会、大学へと成績よく育ってきた人間というのは、ある種の仕事をやらせればソツなくやり遂げることができるだろうねえ。でもね、人間については何も知らないと思うな。他人の心を推し量ることができないような、そんな未成熟のエリートがいっぱいいるんじゃないのかなあ。政治の世界にしても、今の二世議員の動向や発言を聞いていると、そういう感じがして仕方がない」

――どだいインテリなんてもんは、正解がきちんあるような学校の問題はスラスラ解けますが、人生は逆に正解のない問題だらけ。その答えのない問題にぶちあたったときに真正面から取り組んで右往左往すればいいのに、それが人としての成長にもつながるのに、そんなことはせず、効率よく逃げちゃうんですよね。

「最近、とくに思うんだな。子供の頃から秀才と呼ばれ、大学の医学部に入学して医者になった人たちが、本当にいい医者になれるのかって。

 医者なんてものは、まずは人間の体よりも先に、患者の心を診る気構えがないといけない。その気構えもできていない秀才がテストの点数がよくて医者になったとしても、患者に寄り添った治療はできないんじゃないかと思うね」

――僕は基礎疾患があるため、定期健診を受けているんです。だけど、担当医は一度もこちらの目を見てくれないんですよねえ。ずっと、検査のデータばかり見ている。たまにはこっちの目を見て話をしろよってカチンときちゃうんですよ。

「私もそう(笑)。どうして彼らはデータばかり見ているのかなあ。そこに笑えるような面白いことでも記されているのかね(笑)。だから、親しい医者に〝データの紙を見てないで、たまには聴診器を当てたらどうですか〟って言ったことがある」

――ぬははははは。

「聴診器を当ててもらわないと、どうもね、医者に診てもらっている気がしない。そんなにデータが重要なら、AIのほうが医者のあなたより的確な診断を下すんじゃないのって言ったこともある。そうしたら、その親しい医者は〝たぶん、そうだと思います〟と答えたよ(笑)」

――ぶははははは。

「これからの世の中、人間の医者はいらなくなるらしい」

――あなたでなければ駄目だってケースが少なくなってくる社会になりつつありますね。今後はいろんな職業がAIに取って代わられちゃいそうだし。

「でもね、AIが医者に取って変わったりする進化は正しい進化なのだろうかと思うな。そういう意味でも、AIの進化については、とても疑問を持っている。いや、むしろ怖いとさえ感じている。核兵器がいつまで経っても地球上から廃絶しないのと同様に、AIの存在と進化も怖いね」

――だからこそ、若い世代にはいろんな経験を重ねて、効率とか考えずに、勢いよくそんな怖い時代を跳ね返してほしいと願ってはいるのですけどね。

「今の若い世代は、私らが寅さんを撮っていた60年代、70年代と比べると、確かに元気がない。パワーがないというのかなあ」

――効率よく生きてきたせいで、敷かれたレールからはみ出す勇気がないのかもしれませんね……。

「そうかもしれない。若い世代はみんなそれなりに優秀だろうけど、人間臭い若い連中が減っているようにも感じるんだな。

 寅さんがね、たまに知り合った若者に『おい、青年!』と呼びかける。そういう場面で観客は笑うのよ。何がおかしくて観客は笑うのか考えたことがあるんだけども、たぶん、寅さんが『青年!』と言うときは、多少のからかいと同時に多少の尊敬が入り混じっているわけ。お前はまだまだ若い、どうせ女なんか知らないだろうといったからかいと、これからの時代はキミらがしょっていくんだよという尊敬の対比のおもしろさを観客は受け止めて笑ってくれるんじゃないか。

 そこからもう一歩、考えてみるとね、寅さんが若者に対して多少のからかいはあるにせよ、期待しているのは本当なんです。でも、今の若者たちは誰かに期待されているのだろうか、その期待に報いるだけの成長を重ねているのだろうかと思ってしまう。とんでもない突飛な行動をしてみたりとか、元気でいることだけが取り柄だとか。だけど、現実はちょっと違うでしょ。あなたが言ったように、敷かれたレールをそれなりに効率よく走ることしか考えていないんじゃないか。それが単なる私の杞憂で、そうじゃなかったらいいけど」

――そこはやっぱり、大人も考えなきゃいけないんじゃないかと。なにかと〝若い連中は、まだまだ甘い! 我々が社会を引っ張っていかなければ〟と上から目線で若い世代を押さえつけている大人ばかりですし。そうではなく、大人なんだったら、若いヤツに負けてやれ、若いヤツの下にもぐって、自分よりダメな人間がいると安心させてやれ、と思ってしまうんですね。

「寅さんは負けてばっかりだもんな、いろんなことに(笑)」

――寅さんのように負けてやるゆとりがないことが、結果的に子供たちに効率よく生きる選択をさせている……もしかしたら、効率よく生きることこそが、大人たちのゆとりのなさから逃げ出す方法だと考えているのではないですかね。なんにせよ、いつの間にか、若い世代の周囲には、なんでも気軽に話せる、相談できる大人がいなくなりましたよね。満男だって、さくらや博に言えないことでも、寅さんには気軽に言えてしまう。それは寅さんが、いつでも満男のためになるんだったら、道を譲ってやるよ、負けてやるといった心のゆとりがそうさせているのだと思うんです。そういう若い連中にとっての逃げ場所的な存在がいなくなったことも、今の社会がより息苦しく感じられてしまう一因なのかもしれません。

「そうかもしれないねえ」

寅さんのようにそっと遠くから子供を見守る姿勢が大人には必要

――それはそうと、家や学校などでよく子供たちに向かって〝人に迷惑をかけちゃいけない〟という教育的指導が行なわれているんですが。

「ああ、大人たちは好んで使うね」

――この指導にも違和感があるんですよ。とくに寅さんの映画を観終わったあとに、いつも思うんです。生きてりゃ、人に迷惑をかけてしまうもんだろうって。人と人が交われば、お互いに迷惑をかけちゃうもんだし。

「そういうことだね。たとえ人に突飛な行動で迷惑をかけたとしても、さきほど言った互いの理性がおおごとにならないようにしてくれるんだから」

――その人様にかけてしまう迷惑と、若い人がしでかしちゃう突飛な行動で思い起こされるのは、第42作目の『ぼくの伯父さん』。佐賀の親戚の家に預けられた泉ちゃん(後藤久美子)を心配した満男(吉岡秀隆)が、居ても立っても居られずバイクで九州に向かう。すったもんだありながら、親戚の家に一泊することになった寅さんと満男。でも、満男と泉ちゃんは遺跡巡りなどをしているうちに、帰宅が遅くなってしまう。

 翌日、その家の息子で高校教師でもある嘉一(尾藤イサオ)が〝うちは大事な娘を預かっているのだから困る〟と寅さんにクレームをつける。このクレームに対し、寅さんはあくまでも紳士的に、それでいて毅然と〝わたくしのような出来損ないが、こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、わたくしは甥の満男は間違ったことをしていないと思います。慣れない土地へ来て、寂しい思いをしているお嬢さんを慰めようと、両親にも内緒で、はるばるオートバイでやって来た満男を、わたくしはむしろ、よくやったと褒めてやりたいと思います〟って満男をかばうんですよね。

「そうね、寅さんは〝褒めてやりたい〟と言ったね」

――それでも、今の社会では決して褒められない行為、泉ちゃんの親戚の家に迷惑をかけている行為、むしろ嘉一さんの意見のほうが正しいとされ、ヘタをすると満男の取った行動はストーカー行為とみなされるかもしれない。それってどうなのかなと思いますよ。もちろん、相手の命まで奪ってしまう許されない犯罪的なストーカー行為は存在します。だからといって、満男の純愛までも一括りにされかねない今の社会の風潮にも納得がいかないんですよ。

「それもすべて許容性のない時代になってしまったせいだろうね。私らだって、若い頃は満男のようなことをしでかしていた。例えば、夜中に恋人の家に行き、灯りが付いている彼女の部屋を下から見上げるような……。今頃、彼女は勉強しているのかな、それとも本を読んでいるのかなと部屋を見上げながら想像する。そんな想像をすることで自分の恋するせつなさや苦しさが少し癒されたりする。若いうちは、恋をしてしまうとそういうこともやらかしてしまう。でも、今の社会ではあなたの言う通り、ストーカー行為となって許されないケースも出てくる。

 考えてみれば、寅さんがマドンナを想う気持ちや行動なんてものは、今の社会から言わせればストーカー行為みたいなもんですよ……。

 ……こんな不幸なことはないね」

――不幸というと、さきほど監督が指摘した〝今の子供は、みんな孤立して育っている〟の発言が引っ掛かっていて。これはこじつけではなく、子供の孤立という言葉を耳にすると、虐待が浮かんできちゃうんです。実は、冒頭での僕の思い出話、続きがあるんですね。

「そうなの?」

――ええ。初めて見知らぬ大人の男の人、つまり、寅さんから「おい、坊主! 今日は暑いな!!」と声を掛けられた僕は驚きのあまり固まってしまったのですが、ようやく立ち上がり、ふと寅さんが曲がった路地に目をやったんですよ。すると、路地を曲がったはずの寅さんが、ひょっこり顔を出して僕を見ていたんです。視線が合うと、バツの悪そうな顔をして、また顔を引っ込める。しばらくすると、そぉ~とまた顔を覗かせていたんですよね。

「寅さん、よっぽど気になって仕方なかったんだな」

――幼かった僕と寅さんの距離感もまた、今の社会では喪われつつあるんだろうなと思います。

「別に子供を過保護にする必要はないんだけど、寅さんのようにそっと遠くから見守る姿勢が今の大人たちには必要だと思う。大人たちがさり気なく自然に地域の子供たちの動向を見守ってやればいいだけのことなんですよ。それだけで子供の孤立は随分と和らぐし、子供が成長する過程には必要不可欠なことなんだと思うね。

 結局、話は最初に戻っちゃうな。この国ではもう、お母さんがよその子に〝ご飯を食べにおいで〟と誘ったりする小さなコミュニティは存在しないのかもしれない」

――ママ友の集まりは頻繁に行なわれていますけどね。

「改めて、思うね。この半世紀で許容を忘れ、共存の意識が薄まってしまったせいで、日本人の知恵や理性、大人がそっと子供を見守る姿勢、寅さんが期待を寄せた青年たち、地域の人たちがみな仲間だといえる関係性、それらは私らが危惧したように少しずつ、少しずつ、喪われてきている」

――それにしても、なぜに寅さんは幼い僕を見守ってくれていたのでしょうか。

「寅さんはね、孤独な少年の気持ちがとてもよくわかるんですよ。自分も子供の頃、イタズラ好きの出来の悪い少年だったから、しょっちゅう周囲から疎外されていたので、疎外されたときの悲しさってわかるんだね。だから、自分くらいはそばにいてやろうとしたんだよ。一緒に遊んでやるのは照れ臭いけど、遠くからそっと見守るくらいはできると思ったんじゃないの」

――たまたま道で出くわしただけの見知らぬ幼い子供の心に寄り添おうとするのって、なかなかできることじゃないですよ。

「それが私の憧れなんだよな、結局。そういう人間が身近にいてほしいっていう願望でもある」

――寅さん……ここから渥美さんのことをお聞きしますが、子供の頃から孤独の寂しさや辛さを体験してきた人だったのですか。

「悪ガキだったことは間違いなかったみたい(笑)。私ね、渥美さんの子供時代の話をよくきかされていたけども、こんなエピソードがあるんだね。

 小学生の頃、両親が目の見えない按摩師さんだった同級生がいて、渥美さんを含めた悪ガキ連中はいつも〝お前の父ちゃん、母ちゃん、目が見えない〟とからかっていたらしいんだね。まあ、残酷な虐めだね。

 そんなある日、渥美さんら悪ガキどもは〝あいつの一家、どうやって飯を食ってんのかな、父ちゃんも母ちゃんも目が見えないのに〟と興味をもったようで、〝じゃあ、今日の夜にでも確かめに行ってみようぜ〟となり、実際に覗きにいった。

 季節は夏だったから、同級生の家の窓は開いていて、そこから覗き込むと、ちょうど3人が夕食を食べようとしていたときだった。同級生が真ん中に座り、両脇に両親が座っていた。同級生は父親と母親にそれぞれご飯をついでやり、頃合いを見て、おかずを2人のご飯茶碗に乗せる。ご飯がなくなったら、同級生が2人の茶碗にご飯をつぐ。

 その光景を見ていた悪ガキどもは、みんな黙りこくり、ひとりひとり自分の家に帰っていった。翌日から、誰も同級生のことをからかわなくなった。

 渥美さんが言ってましたよ。〝俺はあの時、本当に悪いことをした〟って。

 そんな体験をいっぱいしてるんだね、渥美さんはね。そういう体験を通して、成長するにつれ、どんどん洞察力も長けていったんだろうし、誰の心にでも寄り添うことができる人になっていったんだと思うな」

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プロフィール

佐々木徹

佐々木徹(ささき・とおる)

ライター。週刊誌等でプロレス、音楽の記事を主に執筆。特撮ヒーローもの、格闘技などに詳しい。著書に『週刊プレイボーイのプロレス』(辰巳出版)、『完全解説 ウルトラマン不滅の10大決戦』(古谷敏・やくみつる両氏との共著、集英社新書)などがある。

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