古き良き日本人の魂を、車寅次郎はその胸の奥底に秘めていた
――寅さんは、あまり物欲がないヘンなおじさんでしたよね。1年中、同じ服を着ていたし。渥美さんも、そうだったのですか。
「物欲もなにも、いろんなことに欲がない人だったな。例えば、世の中がグルメブームだとかなんだとか騒いでいるときに、渥美さんはバカにしていましたよ。だいたいグルメなんてもんは単に食い意地が張っているだけじゃねえか、と。俺たち江戸っ子から言わせれば、そばなんてもんはガキの時分から食ってるどこそこの店で十分だし、列に並んでまで食う必要なんかない。天ぷらだって、どこの店で食おうが同じ天ぷらじゃねえかと言うわけ(笑)。
思い返しても、本当に渥美さんって食に執着がなかったなあ。だって、同じ店のラーメンばかり食べていたし(笑)。毎日のように、ラーメンばかり食べていたせいで、ある時、栄養失調になっちゃったしね。医者からも〝別の物を食べなきゃ〟って怒られたくらいだから」
――別の物というと?
「チャーハン」
――ぬはははは。
「今度はチャーハンばっかり食べる。それでまた、医者から〝野菜を食べなさい〟って注意されると、私らとレストランで食事する時でもサラダしか食べない。サラダを食っていれば文句ないだろと思っていたんじゃないかな、きっと(笑)。
渥美さんは、そういう人でしたよ。着るものも夏は白いシャツ、冬は黒いジャンパー。そのスタイルに決めていたし、車も持ってなかった」
――人気俳優が移動の車を持っていなかったのですか。
「そう。しまいには自分は車寅次郎しか演じないだろうからって、途中からマネージャーも付けなくなったし。いつもタクシーでふらっと撮影所に来る。自分はそういう生き方であるべきだと思っていた人でしたね。
それと、神秘的な人でもありましたよ。あなたの思い出話を聞いて、ますますそう思った」
――というと?
「あなたのことが気になり、路地からそっと覗いてみる。これってね、思っていてもできる人とできない人がいるんですよ。渥美さんはできる人で、しかもその見守っている姿は半世紀経った今でも、残像としてあなたの胸に抱かれ続けている」
――昨日のことのように、鮮明に思い出すことができます。
「それはもう、渥美さんが持っていた神秘的な力だな。そういえば、『寅次郎紅の花』のロケで奄美大島に行ったとき、暑い時期でね、私はやられちゃったんだね、その暑さに。気分が悪くなってふらふらしてしまって、スタッフたちが急遽、私を病院に連れていき点滴を打ってもらった。
それで随分と体調がよくなり、その夜は大事をとって旅館で寝ていたんだけど、渥美さんがふっと私の部屋に入って来たんですよ。それまで渥美さんって、ロケ中に私の部屋を訪ねることはしなかったし、その頃は自分も肝硬変で体もしんどいはずなのに、音もなく入ってきた。
そのまますっと私の枕元に座り〝大丈夫ですか?〟って言うから、私も〝大丈夫、明日はちゃんと仕事をするよ〟と返すと、じっと私の目を見て〝山田さん、あなたはこれからもたくさんいい映画を作らなきゃいけない大事な体なんですから、体を大切にしなければいけませんよ〟と言って、すっと部屋から出ていった。
ドキッとしたね。私が気をつけなければいけないことを、ストレートにビシッと言ってくれたから。なにより、この人の言うことを聞かなければいけない気持ちになるぐらい、それこそ気高い宗教家にでも言われたような気分だった。それができる人なんだな、渥美さんって」
――それもまた、神秘的な話ですね。
「振り返れば、そんな渥美清のために何か脚本を書いてくれって言われたところから、『男はつらいよ』は始まったんですよ。
彼と2日間、ずっと話をしていて、どんな物語がいいか、どんな役どころがいいかと考えている時に、寅さんというキャラクターが浮かんできて。それから寅さんを取り囲む『くるまや』の面々もだんだんに浮かんできてね。その時、この車寅次郎という男を観客が見上げる人ではなく、ちょっと低く見ることができるというか、少しバカにできるような人物にしようと決めたんです。あいつに比べたら、自分はちょっとマシかなと観客がいい気持ちになれることが大事なんだな。それが、喜劇というものだから。
あなたと同じく昨日のように思い出すね、あの2日間を。渥美さんは、実に面白い人だったし、頭の回転も速いし、人間的にも優れた人だと思ったな。とくにさっきの悪ガキ時代のエピソードなんかは印象深かったね。渥美さんの少年時代、彼が過ごした下町の少年時代の話は心を揺さぶられますよ。それらのエッセンスが『男はつらいよ』には詰め込まれているよね。
今思えば、これまで語ってきた、この半世紀で少しずつ、少しずつ日本人が喪ってきたものを寅さんはすべて持っていたのかもね。古き良き日本人の魂を、車寅次郎はその胸の奥底に秘めている男でしたよ」
※
先日、河北新報の「声の交差点」という読者欄に、ある投稿がなされた。内容は仙台の市バスに幼い姉妹と母親が乗車してきた際、妹のほうがぐずり出し、泣き始めたそうだ。懸命にあやす母親に、近くに座っていた老人が「うるさい、静かにさせろ」と怒鳴った。母親は涙声で「すみません、次で降りますから」と言い、目的地より前と思われる停留所で下車してしまった……。
その投稿をした女性は悔いていた。なぜ、あのとき、母親の助けになるようなことを言わなかったのだろう。どうして他の乗客も運転手も無言で何もせず、あの親子を降ろさせてしまったのか。
僕は今の母親たちって他人に関わってほしくないのかもと山田監督に説明したが、彼女たちには彼女たちの子育ての苦労があり、その結果、ときには他人との触れ合いを拒絶したくなることもあるのかもしれない。
それにしても、そのバスに旅の途中の寅さんが乗っていたら、どうしていただろう。たぶん、さり気なく母親と老人の間に割って入り「泣くのも、走ったりするのも子供の仕事ってもんですよ」とか言って、やんわり場を収めたのではないか。
それとも、遠く空の上から老人に向かい「それを言っちゃおしまいだよ」と嘆いているかもしれない。
撮影/五十嵐和博
プロフィール
佐々木徹(ささき・とおる)
ライター。週刊誌等でプロレス、音楽の記事を主に執筆。特撮ヒーローもの、格闘技などに詳しい。著書に『週刊プレイボーイのプロレス』(辰巳出版)、『完全解説 ウルトラマン不滅の10大決戦』(古谷敏・やくみつる両氏との共著、集英社新書)などがある。