前回の角川春樹氏から約1年ぶりに帰ってきた、佐々木徹のインタビュー連載「遺魂伝」。「この人の“魂”の話を今のうちに聞いておきたい!」という当連載の第3回ゲストは、中村敦夫さんである。
中村さんと言えば、俳優、作家、テレビキャスター、政治家などいろいろな活動をされてきたが、一貫しているのは「反骨」という精神だ。話を聞けば聞くほど、その生きざまが「木枯し紋次郎」にしか見えない中村さんの魂とは。
木枯らしとは真逆の、焦げるような熱風が容赦なく巻き上がる真夏の本の街・神保町に、陽炎をともなった大柄な男がゆらりと現われた。
中村敦夫。
そう、今のところ、中村敦夫としか書きようがない。本来なら、ナニナニの中村敦夫と肩書を記せばわかりやすいのかもしれないけども、悠然とたたずむこの人の場合、そのナニナニが多すぎる。時代劇スター・中村敦夫? 作家・中村敦夫……決して間違ってはいないが、なあんか違うような気もする。
「そうやって皆さん、お困りになるんですよ。だから、取材などで初めてお会いする人には、自分がどのような子供時代、学生時代を過ごし、俳優になってからはどんな作品に携わってきたか、また政治との関わりについても簡単にまとめたファイルを渡しているんです」
それはありがたい! どれどれ、ふむふむ。
中村敦夫は〝戦争を知っている最後の子ども世代〟で、1944年に東京から福島県へ疎開。小学校時代は父親が地方紙の支局長だったため、自宅が情報の集積地だった。中学、高校時代は演劇、映画、読書、スポーツに明け暮れる。大学時代に俳優座養成所へ。ハワイ大学への留学も経験。1971年にNHK大河ドラマ『春の坂道』での石田三成役が人気に。翌年、『木枯し紋次郎』が大ヒット。その後、役者以外にも監督や脚本も手掛ける。作家としても活動を始め、処女作『チェンマイの首』は10万部のヒットとなり、カルト宗教団体を糾弾した『狙われた羊』は昨今、各メディアで取り上げられている。また、報道取材番組にも取り組み、キャスターを務めた『地球発22時』が話題に。しかし、放送時間の変更をめぐって局と対立、降板となる。1995年に参議院選挙に打って出るも次点。1998年、当選。2004年の参議院選挙では、日本版「緑の党」を旗上げ、比例区に10人の候補を立てるが敗退。2017年、『線量計が鳴る/全国ツアー』を開始。現在は日本ペンクラブ理事も務める。
「それを参考に、あなたが興味を抱いたところを切り取って、そこから話を始めてもらってもかまいません。私は長く生きているので、一から十まで語るのは難しい(笑)」
そう提案されれば、もちろん、木枯し紋次郎を演じていた時代のあんなことやそんなことにも興味津々なのだが、まずはそこの時代ではない。
では、どの時代か。
わざわざ長き自身の歴史を簡潔にまとめたファイルを持参して渡してくれたのに、そこかいッ! と怒られてしまうかもしれないけど、最後に記されていた最新ともいえる2017年からスタートした朗読劇『線量計が鳴る』を切り取りたいのだ。
この『線量計が鳴る』では原発の町で生まれ育ち、原発で働き、原発事故ですべてを奪われた、元・原発技師だった老人の独白が展開されていく。脚本と出演は中村敦夫。
劇中、老人は呟く。
「右向けといわれれば右向き
左といわれれば左
死ねといわれれば死ぬ
おれはもうそういう日本人にはなりたくねえんだ」
ストーリー的に語っているのは、あくまでも元・原発技師の老人だが、脚本は中村敦夫なのだから、この言葉は中村敦夫の心情そのものと推測していいだろう。
たまたまネットで、この言葉が目に飛び込んできたとき、全身の毛穴がカパッと開いた。魂が揺さぶられる――という表現があるけども、まさにそれ。いや、揺さぶられるなんて生やさしいものじゃなかった。何か熱い棒で魂をグリグリ突かれたような堪えようのない痛さも感じた。それはきっと、自分がこれまで生きてきた中で、例えば学校生活において教師の理不尽さに直面したときや、それこそ政治家たちの無責任な言動や忖度だらけの行動を見たときに感じていた〝日本人って、すっげえイヤだなあ。だけど、俺も日本人なんだよなあ…〟という嫌悪感、自分の力ではどうにもならない虚脱感の正体を見事に言い当てられたからだと思う。
となれば、この言葉に視野を絞り、そこから話を始め、少しずつ切り取る部分を広げていこう。広げていく過程で、肩書が多すぎて逆に肩書のない中村敦夫の素顔に触れることができたならば、もしかしたら、簡潔なファイルからでも的確に伝わってくるグラついたことなどなかったであろう中村敦夫の熱き反骨の魂、その欠片ぐらいは【書き遺す】ことができるかもしれない。
「あのセリフは私の日本人に対する、普遍的な感想ですよね。もともと日本人というのは、とても従順なんです。要するに、上からの押し付けに逆らうのが好きじゃない」
――いわゆるDNAに組み込まれているんですかね、逆らうのは悪だって。
「でしょうね、伝統的なDNAといってもいい。過去を振り返ると、まずは徳川幕府が作り上げた200年の封建時代に、民衆は徹底的に教育されましたからね、自分殺しの美徳を。自分の身に何が起ころうとも、とにかく上に従うのが善である、と。これ、結局は儒教の本質ですけどね。だから、北朝鮮や中国はもっとすごいじゃないですか、国民への押さえつけは。あれ、理屈ではないんですよね、徹底的に国民ひとりひとりの中に沁み込んでいるんです、上に逆らっちゃいけないマインドが。それを独裁者たちがうまく利用しているわけです」
――報道でロシアや中国、北朝鮮の人々の動向を見るにつけ、いいように上の連中に騙されているな、と思っていましたが。
「日本人は国から抑圧されている北朝鮮や中国の人々をかわいそうだと感じているかもしれません。だけど、彼らからすれば、お前たち日本人も一緒だろ、と思っているでしょう。今でこそ日本は民主主義国家でございって顔を装い、自由というものを理解しているような発言や行動をしていますが、本質的にはいまだに真逆な生き方を選択していますよ。わかりやすく言えば、昭和のガチガチな会社人間みたいなのが、令和の時代になってもたくさんいる。理不尽だと思っていても受け入れ、何が起ころうとも自己主張せず、上から言われたことを忠実に行なうことこそが善である、正しいんだと盲信していたりする」
――ビッグモーターの報道を見ていると、あそこは完全に【昭和の会社人間】の風土が残っていますよね。
「思い返せば、私はそんな【昭和の会社人間】のような輪から飛び出た、外れちゃった人間なの。普通の日本人でいればよかったのにね(笑)」
――そこがめちゃめちゃ不思議なんです。別に普通の日本人ではなくても、普通の役者でいればよかったのに。なにせ『木枯し紋次郎』は当時、30%以上の視聴率を誇り、一気に押しも押されもせぬ時代劇スターに駆け上がった。その後もおいしい役どころのオファーが舞い込んだはず。そのまま役者道を邁進していれば、楽屋でふんぞり返れる大御所になれたんですよ。それなのに作家だ、報道番組のアンカーマンだ、しまいには国会議員にもなっちゃった。何が一体、新しい活動へと中村さんを突き動かしていたのですか。
「これからこうしようとか、こんな活動してみたいとか、そういった計画を立てていたわけではないんですよ。例えば、役者を自分なりに一生懸命取り組んでいるうちに、自然と次の流れができているんですね。それに乗り、違う場所にたどり着くという感じだったんです。
あなたの言っていることもわかりますよ。あのまま役者一筋でいけば、それなりに人生の成功者として評価されていたかもしれない。だけど、嫌なんです、そういうの。退屈だし、ばかばかしい」
――いやいや、ばかばかしくはないでしょ。
「私はね、どうしても今いる場所で自分を表現できなかったり、思った通りに活動できなかったりすると、次の場所に流れていきたくなるんです。しかも自分が面白いと感じたことには、どんどん突っ込んでいく性分なんでね。で、突っ込めば突っ込むほど、次の面白い、刺激的だと感じる展開が目の前に広がっていく。そして、その新しい大地で力いっぱい刀を振り回す。結局、この流れは国会までたどり着いちゃったんだから、おもしろいよねえ。国会の絨毯を踏んだとき、あれ? なんで自分はこんなところにいるんだろうと思ったこともありますよ。
ただ、いろんな地に流れ着きましたが、どこの地に立っていようと根底にある考え方は変わっていないです。最も重要で緊急なテーマは、人類は環境悪化と核戦争で、存亡の際にあるということです」
――その言葉を受け、中村敦夫の肩書はなんだろうと考えることこそ、ばかばかしいと気づきましたよ。俳優、時代劇スター、作家、監督、脚本家、TVキャスター、政治家、それらをすべてひっくるめて中村敦夫は中村敦夫でした。
「基本的に自由に生きてきましたからね。そのつど、いろんな体験もしてきたし。今も言ったように、自分が面白いと思ったことを中心にやり通してきたんです。そこで意見の合わない人と何度も衝突したし、それでも自分の意思を曲げなかったり。そういう日々の中で自分なりに学んできたことも多かったし、少しずつ世の中の仕組みのようなものが見えるようにもなった。世界各国を取材しまくったのも、私の脳味噌には、大変な栄養でした。無理なく『脱日本人』になりましたからね(笑)」
プロフィール
佐々木徹(ささき・とおる)
ライター。週刊誌等でプロレス、音楽の記事を主に執筆。特撮ヒーローもの、格闘技などに詳しい。著書に『週刊プレイボーイのプロレス』(辰巳出版)、『完全解説 ウルトラマン不滅の10大決戦』(古谷敏・やくみつる両氏との共著、集英社新書)などがある。