韓国カルチャー 隣人の素顔と現在 第10回

語られなかった、軍隊の話

ドラマ『D.P.−脱走兵追跡官−』(2021)と映画『ノーザン・リミット・ライン 南…
伊東順子

 BTSのメンバーのJINさんが12月13日、無事入隊したという。指定された訓練所は京畿道漣川にある陸軍第5師団の新兵教育隊、彼はすでに「中の人」になってしまった。
 ただ現時点ではまだ「入所」であり、その後に5週間の訓練期間を経て、一線部隊に配置されることになる。JINさんは陸軍を志望しているということなので、兵役の期間は18ヶ月だ(海軍は20ヶ月、空軍は21ヶ月)。ここには5週間の訓練期間も含まれるから、順調に行けば2024年6月に満期除隊となる
 外にいる私たちにとっては「彼がいない空白の時間」がしばらく続くのだが、彼自身にとっては兵士としての濃厚な時間がスタートする。「The Camp」というスマホアプリには、入隊と同時に「D***」という除隊までの日数が表示され、毎日その数字が1つずつ減っていく。現役兵として入隊した人々にとっては、これまでとは全く違う新しい生活へのチャレンジとなる。現役兵というのは後で述べるように、通常は徴兵検査で3級以上の人が該当する。
 過去には芸能兵というシステムもあったし、また事務所ぐるみでの兵役回避などが行われた時代もあった。でも最近の芸能人は普通に現役兵として入隊する人がほとんどであり、中には海兵隊などの最もタフな部隊を志願するツワモノもいる。ただBTSの場合はその活躍が世界的だったために、メンバーの入隊を巡っては国論を二分するような大きな議論にもなった。
 「オリンピックメダリストや世界的な音楽コンクール受賞者などに与えられる兵役免除は、大衆音楽分野での世界的アーティストにも与えられるべき」「彼らはその分野で十分に国に貢献しているのだから」「BTSの活躍は確かに飛び抜けているが、芸能分野に兵役免除を広げると基準が難しくなる」等々。
 メンバーたちは「兵役には行く」と何度も表明しており、議論は彼らとは少し離れた政治の場面で白熱した感もあった(これはいつものことだ。政治家は何だって利用して、自分たちだけで白熱する)。
 JINさんが入所する新兵教育隊については、他の新兵や親にインタビューをしたことがあるので、本題に入る前に少しだけ書いておきたいと思う。

新兵教育隊とは?
 
 新兵教育隊とは韓国陸軍の各師団内にある新兵教育用の施設である。海軍や空軍、あるいは海兵隊などにも同じタイプの教育機関があり、一般的には「訓練所」と総称される。
 BTSの所属事務所であるBIGHIT MUSICは12月6日、ファンに向けてJINさんの軍入隊を公式に発表すると同時に、入所式への訪問自粛を呼びかけていた。
「新兵教育隊の入所式は、多数の将兵および家族が共にする場です。現場の混雑を避け安全を確保するために……」
 たしかに入所式にファンが訪れたら、現場は恐ろしく混乱するだろう。それでなくても生まれて初めての軍隊生活に緊張する新兵と心配でたまらない家族が集まる場所である。恋人がいれば、その人とのお別れもある。しかも軍の管轄なのだから不測の事態は避けられなければならないし、何よりもJINさん自身も家族や友人たちとゆっくりお別れの時間を持ちたいだろう。
 「韓国の若者は家族優先の子が多いですよ。恋人よりも親やおばあちゃん。公認の場合は誘うこともありますが」(男子2人の母親)
 そんな話をしていたのだが、なんとJINさんの入所式にはBTSのメンバー全員が駆けつけた。そこで写真を撮って世界に配信する。さすがの配慮である。

 一般の若者たちに入隊前のことを聞くと、直前まで友だちと飲み歩いたり、ガールフレンドと毎日のようにデートしたり。入所式の前日に髪を切って、入所式には両親の車で行ったという人が多かった。
 「息子は遊び歩いていましたが、私は毎日泣いてばかり。入所式に送ってきた夜は淋しくなって、息子のベッドで寝ました」
 というのは私の友人の話だ。友人は日本人だが韓国人と結婚、息子さんには生まれた時から日韓両方の国籍者があった。二重国籍者は17歳までに国外に出て、韓国籍を離脱すれば兵役に行かなくていい。でも彼は韓国で育ったので、周りの友人達と同じように軍隊に行くことを選んだという。
 18歳になると、軍から徴兵検査の通知が来る。これは男子全員の義務であり、その検査の結果によって個人の等級が決まる。
1~3級  現役兵  
4級  補充役・服務要員
5級  後方支援
6級  免除
7級  再検査 
 この息子さんは1級だったそうだ。「そんな良い成績初めてですよ」と友人は苦笑していたが、近眼があっただけでも2級になるという。3級までが現役兵であり、持病があったりメンタルに問題が認められた場合は4級以下となる。
 入隊の時期は選べるのだが、原則的には満28歳になる年まで。JINさんの場合は特別法で満30歳までの延期となっていた。

 陸軍の訓練所は基本的には家から近い部隊が割り当てられる。ソウルに住所のある人たちは、JINさんと同じく京畿道にある新兵教育隊に行くことが多いそうだ。ただ近いとは言っても軍隊は都会の真ん中にあるわけではなく、特にJINさんが入所した師団は38度線にほど近い前線部隊である。冬には氷点下20度以下にもなる極寒の地域であり、この先のシーズンはそれを考えるだけでも厳しい訓練になるだろう。
 今回紹介するドラマ『D.P』(邦題『D.P.−脱走兵追跡官−』)の第1話にも、訓練所の入所式のシーンがある。両親や恋人たちと愛情たっぷりの別れ方をする新兵たちがいる中で、家庭的に恵まれない主人公は孤独である。そういう若者もいるだろう。
 でも実際に訓練所の生活が始まることで、些細なセンチメンタルなどはふっとんでしまう様子も描かれている。上官による命令は新兵全員にふりかかり、一般社会なら不条理に思われるようなことも、軍隊内では「訓練」として繰り返される。さらに悲惨なのは訓練期間が終了して配属が決まった後だ。そこでは先輩兵士による壮絶な新兵いじめが待ちうけている。
 ただし、これは「過去の話だ」という。ドラマの時代設定は2014年であり、その後に韓国軍は大きく変化したという。

初めて軍隊内部を描いた、異色のドラマ『D.P.−脱走兵追跡官−』

 よくもこんなドラマは作れたものだ――というのが私を含めた多くの人々の感想だった。2021年8月にNetflixの独占配信が始まったドラマ『D.P.』は、韓国の軍隊生活を赤裸々に描いた作品として大評判となった。
 これまで韓国ドラマは軍隊内部の話にはほとんど踏み込まなかった。映画でも軍隊生活をテーマにした作品はハ・ジョンウが主演した『許されざるもの』(2005年)ぐらい。これは当時まだ学生だったユン・ジョンビン監督が卒業制作で作った傑作だが、それ以外には見当たらない。それを言うと日本の人々は不思議がる。
「そんなことはないでしょう? 韓国は徴兵制のある国だし、芸能人の入隊なども常に話題になるのに?」
 もちろん韓国で軍隊は身近な存在だ。街を歩けば普通に軍服姿の人を目にするし、テレビでも軍隊を慰問するバラエティ番組なら昔からある。過去には兵士のお母さんをサプライズ登場させる番組が大ヒットしていたし、最近では女性アイドルや外国人が海兵隊の猛特訓を体験するタイプの人気番組もあった。また恋愛ドラマの主人公の彼氏が兵役に行ってしまったり、素敵な職業軍人との恋愛がテーマのトレンディドラマなどもあった。
 それなのに軍隊そのものを描いた作品はとても少ない。ドラマや映画だけではない。韓国文学に詳しい翻訳家の友人によれば、文学作品などでもほとんど聞かないという。なぜだろう? 
 『D.P.』とはDeserter(脱走兵)Pursuit(追跡)の略語、日本語版タイトルにある「脱走兵追跡官」という意味だ。憲兵隊の中にある特殊部門であり、様々な理由で部隊を離脱した兵士を探すのがDPの任務である。
 全軍に約100名ほどといわれるDPの存在は一般的にはあまり知られておらず、兵役経験があっても「詳しいことはドラマで初めて知った」という人が多いという。なるほど、ドラマがヒットした理由の一つはここにあるのだろう。
 これまで「誰もが経験することですよ。つまらなすぎてドラマや小説なんかにはならない」と言われてきた軍隊生活が、この「誰も知らなかったDPの仕事」を縦軸にすることで、非常に興味深いものとなった。コンビで逃亡者を追跡していく刑事ドラマ的な展開も斬新だった。さらに後述するように、このドラマのモチーフともなった実際の重大事件は人々の記憶に新しかった。もはや軍事政権時代でもないのに、どこかで軍隊を聖域化していた人々の目を、あらためて覚ますことにもなった。

 ドラマの原作となったのは、2015年2月に連載が始まったウェブ漫画『DP 犬の日』。原作者のキム・ボトン自身がDP出身であり、その経験をベースにした作品はリアルになるしかなかった。ドラマ化にあたっては登場人物が追加されるなど様々な脚色がされているが、脚本にはキム・ボトン自身も参加している。
 ちなみに原作のサブタイトルにある「犬」という言葉は、日本語にもある「権力に隷属する者」という意味の上に、韓国語における「ろくでなし」という意味の罵倒語がかぶさっている。日本語タイトルの『D.P.−脱走兵追跡官−』は非常にスマートなタイトルだが、もともとの作品のニュアンスは自虐的であり、ドラマでもそのトーンは一貫している。

出演者たちにも軍生活のトラウマが…… 

 ドラマは無機質なタイピングの音から始まる。
「大韓民国の国民である男性は憲法とこの法が定めるところにより、兵役の義務を誠実に遂行しなければならない」(大韓民国兵役法第3条)
 タイピングされた字幕に続く「二等兵アン・ジュン・ホ」という声。上級兵士に何かを言われるたびに、即座に自らの「官等姓名」(階級と氏名)を答える軍規は韓国軍独特のものだ。アン・ジュンホ(日本語字幕ではアン・ジュノ)役を演じたチョン・ヘインは最初の撮影の時、緊張のあまりに「二等兵チョン・ヘ・イン」と、なんと本名で応じてしまったという。
 「これもPTSDと言うべきかもしれません」。
https://www.sedaily.com/NewsView/22RB3YDZWM
 軍隊内のセットと上官の雰囲気などがリアルすぎて、瞬間的に自分が二等兵だった時代にタイムリープしてしまったようだ。彼に限らず他の出演者もまた、反射的に自分の官等姓名が出てくる経験をしたという。

 チョン・ヘインは「08軍番」だという。大学在学中の2008年に入隊して2010年に除隊した。韓国軍が劇的に変化したと言われる以前であるから、おそらくドラマで描かれたような雰囲気の中で兵役を終えたのだと思う。彼は自らの軍隊経験が演技に役立ったとも言っている。それは彼だけではないだろう。
 毎回ドラマの最初に字幕表示される「兵役法3条」。その法の定めるところによって、韓国の男性はもれなく兵役の義務を負っている。チョン・ヘインだけでなく他の役者たちも軍隊生活を思い出したと言うし、視聴者の中にも自らの体験をもって共感できたと言う人は多いだろう。
 ただ、それによって辛い記憶が蘇った人もいる。映像作品においては常に視聴者のトラウマは警戒されるべきもので、例えばレイプを扱った作品なども当事者にとっては想像以上のダメージとなることがある。

 ドラマ『D.P.』では軍隊内での暴力やイジメのシーンは多い。軍隊を離脱する脱走兵の理由は様々だが、やはり軍隊内での不条理な仕打ちもその大きな理由になっている。二度と思い出したくないからドラマをあえて見なかったという人はいるし、辛くなって途中で見るのを辞めたという人も知っている。
 「古参兵(部隊での先輩兵士をこう呼ぶ)にひどい奴がいて、あの顔を思い出すたびに全身の血が逆流するんです。憎悪の血で自分が汚れるような気がするから、そういうものは見ないんですよ」
 すでに60代になる知人が言っていたことだが、過去に遡るほど軍隊内ではひどいことが行われていたようだ。そういう話を聞くたびに、日本の小説や映画で知った旧日本軍のことも思い出した。組織における人間の壊れ方や残虐性には共通点がある。
 「でも、今は違うんですよ。今は本当に良くなったんです」
 最近の韓国ドラマの中で『D.P.』が一番オススメと言っていた20代の男性(2018年入隊、2020年に満期除隊)は、この10年で韓国軍は劇的に変わったと話してくれた。訓練は厳しいけれど、スマホも使えるようになったし、ドラマに出てくるような理不尽な暴力は経験しなかったと。
 
 「過去の話」だから、視聴者は安心して見られたのかもしれない。ドラマを見て驚く母や恋人にも、「今は違うから心配しなくていいよ」と言えたという。でも本当に全てが過去の物語なのだろうか? 原作者の問題提起はそこにあった。
 権威主義的な軍隊文化はその内部だけにとどまらず、社会のいたるにところに漏れ出ている。たとえば職場であったり、家庭であったり、学校であったり。日本の場合ならば「部活動」などでも「まるで軍隊のような」上下関係とともに、日常化したシゴキや暴力が発覚することがある。

韓国軍は本当に変わったのか? 

 このドラマの設定は2014年なのだが、それには意味がある。第1話の冒頭には入隊前日までピザ屋でバイトをしている主人公が登場する。そのバイト先のテレビには映っているのは、「国軍の日」(10月1日)にスピーチをする朴槿恵大統領(当時)だ。
 「兵士の人格が尊重され、人権が守られる兵営を作ることから始めます」(2014年国軍の日、記念式)
 この年は韓国の軍部隊内で重大な事件が2件も発生しており、政府はその責任を問われていた。

 その1つ目が4月に京畿道漣川の陸軍第28師団内で起きた「ユン一等兵暴行死亡事件」である。先輩兵士らによる集団暴行で亡くなったユン一等兵(当時20歳)は、その2月に部隊配置されたばかりだった。当初、軍当局は死亡原因などの詳細を伏せていたが、しばらくして激しい暴行や陰湿なイジメの実態が明らかになった。
 「未だに軍隊内ではこんなことが行われているのか」と世間は驚いたが、その時に軍が独自に行なった調査では、なんと4000件にも及ぶ未報告のイジメや暴行事件が発覚したという。事件はまさに氷山の一角だったのだ。
 さらに2ヶ月後の6月には江原道高城の見張り場で、陸軍第22師団所属の兵長(当時22歳)が銃を乱射し、5人が死亡、9人が負傷する事件が発生した。兵長は除隊までわずか3ヶ月を残しただけだった。彼もまた軍隊内でのイジメの被害者であったことが明らかになった。
 この事件に関しては軍の上層部の対応の誤りも問題になった。ドラマ『D.P.』にはそんな将校たちの事なかれ主義や自己保身も再現されている。

 この2つの重大事件を受けて、韓国軍の内部では人権問題についての点検が行われ、さまざまな改善策がとられた。例えば兵士の精神面での管理も重要項目となり、メンタルが弱い新兵はそれを申告することで、「私にかまわないでくれ」というバッジをつけることもできるという。もし、その兵士に何かがあれば責任者が処分される。
 「訓練所にいる時には、上官から電話もありました。お母さん、息子さんは元気にやっていますよ。何か気になることがあったら私に連絡を下さいって。今の軍隊は小中学校より親切だと思います。夫は信じないけど、昔とは違うんです」
 事件から4年後の2018年に入隊した兵士の母親から聞いた話である。
 その前年である2017年に文在寅政権が発足してからは、さらに兵士たちの待遇が改善されていた。特に2019年4月からはスマホの使用も認められるようになり、これまで社会とは隔絶されていた軍隊生活は一段と開かれたものになった。

 ただ、全ての問題が解決されたわけではなく、文在寅政権下で顕在化したのは、女性兵士へのセクハラ問題だった。
 女性兵士については以前、ドラマ『賢い医師生活』について書いた時にもふれたことがある。韓国の徴兵制は男性だけが対象となっているため、女性が国防の仕事を希望する場合は志願して職業軍人となるしかない。先に引用した「兵役法第3条」は男性の兵役義務を定めたものだが、その後半には「女性は志願によってのみ現役ならびに予備役として服務することができる」という一文が続いている。したがって、軍人となる女性の多くは目的意識のはっきりした自立心の高い人々である。
 そんな女性下士官の一人が2021年5月末、軍の官舎で自ら命を絶った。享年23歳の空軍下士官は3月に上官から性的暴行を受け、その被害を他の上官に申告もしていた。ところが加害者である上官は処分されることなく、被害者である女性の側が犠牲となったのである。
 女性が亡くなったことで、慌てた軍は調査をして上官を逮捕した。報告を受けた文在寅大統領(当時)は追悼所に赴いて遺族に謝罪し、軍には再発防止を徹底することを命じた。ところがその2ヶ月後には今度は海軍で、同じく上官からセクハラ被害を訴えていた女性がまたしても自ら命を断つという痛ましい事件が起きてしまった。大統領は激怒したという。
 「過去のこと」とは言い切れない軍隊内部の問題。『D.P.』はシーズン2が準備されているというが、そこにはこのような話も盛り込まれるのだろうか?
 ちなみに女性兵士へのセクハラ問題は他国でも問題になっており、日本でも元自衛官の女性が実名での告発に踏み切っている。

実際の戦闘を描いた、映画『ノーザン・リミット・ライン 南北海戦』

 最後に映画を一つ紹介しておきたいと思う。すでに述べたようにドラマだけではなく映画でも、現在の韓国軍をテーマにしたものはほとんどない。朝鮮戦争の映画はたくさんあるのだが、その後といえば前回とりあげたベトナム戦争に参戦した韓国軍を描いた『ホワイト・バッジ』ぐらいだった。
 その意味でも2015年に公開された『延坪海戦』(邦題『ノーザン・リミット・ライン 南北海戦』、キム・ハクスン監督)は貴重な作品といえる。これは韓国軍と北朝鮮軍の実際の戦闘を描いた映画である。
 日本語版のタイトルは何やら勇ましいが、これはとても悲しい映画である。2002年6月29日に韓国と北朝鮮の間で起きた戦闘(第2次延坪海戦)では、韓国軍の兵士6名が戦死している。艇長ユン・ヨンハ大尉(28歳)をはじめ、亡くなったのは全て20代の若者であり、そのうちの最年少は大学在学中に徴兵で入隊した20歳の兵士だった。

 「僕たちは全員が生きて帰ることを願っていた」
 
 映画は主人公のこの言葉から始まっている。
 ちょうどワールドカップの日韓大会が行われている時だった。海上警備中の哨戒艇の中で軍務中の兵士たちも、サッカーの試合が見たくてたまらない。
 6月4日のポーランド戦のファン・ソノンの初ゴール、6月10日のアメリカ戦のアン・ジョンファン、そして6月14日、決勝トーナメント進出を決めたポルトガル戦でのパク・チソンのゴール。
 映画の中で兵士たちが隠れて見ていたテレビ画面を見ていると、20年前の熱狂の日々が蘇ってきてしまう。私もその渦の中にいた。準決勝で惜しくもドイツに破れたものの国民的熱狂は収まらなかった。最終戦はトルコとの3位決定戦であり、それが行われたのが6月29日だった。
 延坪沖の哨戒艇の海軍兵士たちも、その日はテレビで試合を見る許可を艇長からもらっていた。遠い外国にいたわけではない。韓国の領域内で国防の任務に当たる彼らの元にも、当然ながら放送の電波も国民の熱狂も伝わっていた。
 ところが、彼らは最後の試合を見ることはできなかった。
 その日の午前9時54分、北朝鮮の警備艇が突如北方限界線(NLL)を侵犯してきた。韓国側の哨戒艇は退去警告を繰り返したが、北の警備艇は退かないばかりか、なんと銃撃を仕掛けてきたのだ。

20年前のワールドカップの熱狂と、彼らを記憶すること

 映画の前半はほのぼのとしたエピソードも多い。厳しい将校とやんちゃな兵士。後輩をいじめる先輩もいれば、優しい先輩もいる。韓国の男性の中には海軍に憧れる人もいるが、そのプライドが感じられる場面もある。
 でもそんな日常は瞬時にふっとぶ。
 映画の後半では戦闘シーンが再現されている。艇長が戦死した後には、副官が片足を失ったまま抗戦の指揮をとるのだが、彼とて実戦の経験などない。すでに休戦から半世紀、平時の軍隊にあって戦闘は不測の事態であり、それによる死は全くの想定外だ。ましてや期限付きの徴兵で入隊した兵士たちのほとんどは、時間さえ過ぎれば満期除隊の日が来ると本人も家族も信じていたはずだ。

 韓国の映画ポータルサイトには、最年少で亡くなった兵士と訓練所で同期だったという人の書き込みがあった。 
 
 本日午前、昌原でこの映画を見てきました。泣いてしまうだろうと思って、人があまりない時間を選んだのですが、思ったより観客はたくさんいました。
 故パク・ドンヒョク兵長とは訓練所で同じ小隊にいました。一緒に訓練して、寝食をともにした同期でした。
 最後に会ったのは第二艦隊配置後の休暇の時で、一緒にカムジャタン(ジャガイモの辛いスープ煮)を食べました。海軍の制服は真っ白なので、そこに汁がとばないように、気をつかいながら食べた記憶があります。
 映画は12歳以上観覧可としたせいで、実際の戦闘ほど悲惨ではありませんでした。そのまま再現したら12歳可にはできなかったでしょう。私が艦隊の医務兵から聞いた話では、ドンヒョクの状態はさらにひどく……。

https://movie.naver.com/movie/bi/mi/reviewread.naver?nid=3943536&code=102272&order=#tab

 映画は韓国で封切られた2015年6月以降、観客数は当初の予想をはるかに上回る累計で600万人超となった。ただ、作品としてはあまり評価されずに、むしろ政治的に語られることが多かった。
 映画の中にも描かれているように、遺族にとっては金大中大統領(当時)が国のために犠牲となった兵士たちを訪れることもなく、ワールドカップの閉会式のために日本に行ってしまったこともショックだったし、またワールドカップの余韻の中で犠牲者が忘れられていくこともつらかった。もうこんな国にはいたくないと、他国に移民してしまった家族もいる。
 映画がむしろ政治的な対立を煽ったという人もいるが、果たしてそうなのだろうか。少なくとも私はこの映画を見なければ、あのワールドカップの熱狂の影で壮絶な戦死を遂げた人々たちに思いを寄せることはなかった。
 事件のことはもちろん知っていたし、テレビの緊急速報の文字も鮮明に覚えている。でも亡くなった彼らの年齢や背景を知ったのはずっと後、映画を見たのがきっかけだった。
 映画の最後には実際の記録フィルムが使われているのだが、その一つを見て身体が震えた。戦闘で亡くなったユン・ヨンハ大尉が、その2週間前に船上でワールドカップに関するインタビューに答えていたのだ。
 「競技場には行けませんが、全ての国民と一緒に代表チームのベスト16進出を心から応援しています」(2002年6月14日、MBCニュース)
 映画ではキム・ムヨルが彼の役を演じたが、実際のユン大尉はそれよりもずっと童顔だった。

 子どもを軍隊に入れる親たちが心配するのは、慣れない軍隊内での生活やイジメ問題もさることながら、やはり「実際の戦争」である。韓国と北朝鮮の間には1953年7月に休戦協定が結ばれているが、それ以降にも軍事境界線付近での衝突は起きており、両軍の兵士が犠牲になっている。
 「なるべく南北関係がよい時に軍隊に行ってほしい」
 文在寅政権下に南北関係が好転したかに見えた頃、そんな声もよく聞いた。兵士の家族や恋人たちが南北間における不測の事態を望まないのは当然だろう。
 「アーミーは今こそ朝鮮半島の平和を祈る」と、JINさんの入隊について語るBTSファンの気持ちもまた同じだと思う。

 第9回
第11回  

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プロフィール

伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』『続・韓国カルチャー 描かれた「歴史」と社会の変化』(集英社新書)好評発売中。
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語られなかった、軍隊の話