巨大な火山からできた、霊気漂う半島
旅のはじまりは、九州大分県の国東半島に決めました。
国東半島は一つの巨大な火山「両子山」から形成された半島です。航空写真で見ると、山の形はほぼ円形になっていて、中央の山頂部から半島の外縁部にかけて、谷間を表す線が放射状に延びています。
国東半島に伝わる話として、718年に両子山西側の麓にある宇佐神宮の祭神、宇佐八幡神の化身である仁聞菩薩が半島全体に二十八の寺を開基したことから、半島独自の「六郷満山」文化が発展していったといわれています。六郷満山の「六郷」とは両子山の谷筋に沿って開けた「田染」などの六つの郷を指します。これらのほとんどは、宇佐神宮の荘園でした。
起源は神話時代であり、仁聞菩薩が実在していたかも定かではありませんが、宇佐神宮から始まった神仏習合の信仰は半島全体に伝わり、後に修験道の場としても流行ることになりました。
両子山は百万年前に活動を止めた死火山ですが、国東半島が位置する大分県には「地獄めぐり」で有名な別府温泉、隣接する熊本県には活火山の阿蘇山があります。
私の友人でアメリカ人のウィリアム・ギルキーは神秘学の研究者で、中国、インド、日本に長く住みました。1980年代にギルキーと私は亀岡の宗教法人「大本」の国際部で働いていました。彼はヨーロッパのスピリチュアリズムをはじめ中国の八卦、日本では恐山のイタコから大阪下町の占い師まで、幅広い対象について研究を行っていました。大本の初代教祖、出口ナオと組んで宗教の基礎を固めた出口王仁三郎にも興味を持ち、王仁三郎の予言書について、大変分かりやすい説明をしてくれたことを覚えています。
そんなギルキーがある時、私に言いました。
「日本の国土は不安定です。地震は日常的に起こるし、火山は噴火するし、温泉地では地下から熱湯が沸き上がってくる。絶えず大地の深層から伝わってくる震動は『霊気』と言い換えることができる。日本人は不安定な風土によってスピリットに敏感になり、その繊細な感覚が日本独自の『神』の概念につながっていったのだと思います」
四十年近く前に聞いた話ですが、それから私も自分なりに仏教と神道の探求を続けました。ギルキーの影響を受けたせいか、神社仏閣を訪れる時も、ただ建造物の美しさを見るだけでなく、根底に流れる「心霊パワー」をいつも感じ取ろうとしてきたように思います。
ギルキーの「大地不安定説」から考えると、国東半島一帯には両子山の地下深くから発せられた霊気が、ずっと漂っているように思えてきます。今回はその心霊パワーを追いかける旅になることでしょう。
唯一無二のサンドイッチ型の町
旅の出発地点は半島の南に位置する杵築市でした。大分県には、豊後竹田、日田など歴史ある町が数多くありますが、国東半島周辺でいうと、杵築の城下町だった旧市街は江戸時代の風情を残す唯一の場所といえます。町の構造はユニークで、城下町は町を東西に貫く「谷町通り」沿いに商家が並び、その通りを武家屋敷の集まった二つの高台が挟み込んでいます。この構造は「サンドイッチ型」という珍しいものだそうです。
九州では士農工商の身分を厳しく取り締まっていた歴史がありますが、中でも杵築では武家屋敷のある丘の上を、文字通り「上流階級」エリアとして、地形的にも上下関係をはっきり区別しました。
杵築の見どころは、下の商人の町と高台を結ぶ石段の坂道です。大小ある中で「酢屋の坂」「塩屋の坂」「勘定場の坂」「番所の坂」は観光にたえるように整備され、坂道沿いの石垣や土塀が美しく、上からの見晴らしも見事です。
谷町通りは電線を地中化しており、通り沿いはすっきりとしています。味噌店の「綾部味噌醸造元」や、竹・木工製品の「萬力屋」などの老舗が残り、昔の商店街の面影も感じられます。
ただし、全国各地の歴史的な場所と同じく、この町にも近年の日本が直面した「運命の岐路」を見ることができます。すなわちヒューマンスケールの町並み保存か、モータリゼーションに対応した道路の拡幅か、という葛藤です。
平成の初期、町の東西を結ぶ都市計画道路の「宗近魚町線」を整備した時に、谷町通りの幅員を十六メートルに広げて、「便利な」商店街にしようという構想が立ち上がりました。しかし、杵築独自の風情が損なわれることを懸念した地元の人たちが、計画の見直しを行政に求めました。その結果、道路の拡幅は十二メートルに抑えられ、環状道路を旧市街の外側に通す案で落ち着きました。その後、まちづくり交付金などを活用して江戸時代の雰囲気を取り戻すことを主眼に、谷町通りと武家屋敷エリアは段階的に復活を遂げました。
坂から見える土壁、畳石、茅葺きと瓦葺き屋根の連なりには、なかなかの風情があります。十六メートルの幅員拡幅プランを早期に止めていなければ、寺院や屋敷などいくつかの文化財は残っても、町はコンクリートの箱型建造物であふれ、歴史と文化は灰色の中に埋もれていたことでしょう。
その一方で、唯一無二のサンドイッチ型の町にはどこか物寂しさも感じました。道路の拡幅は十二メートルまでに留めたものの、見た目は少しガランとしています。江戸時代に商家が立ち並んでいた時は、人がすれ違えるほどの幅で、それゆえに活気があふれていたはずです。その名残の道として考えると、十二メートルの幅員は、むしろ異様な広さだといえます。
ガランと物寂しく見える原因の筆頭は、幅員以上に、日本各地で起こっている人口減少でしょう。そして、その次に整備の方法自体が持つ課題が来ると私は考えます。交付金で歴史的建造物の修復や観光交流センターなどは整備されましたが、町を活気づけるソフト面、つまり宿、レストラン、カフェなどが谷町通りにはあまり見当たらず、「資料館」としての町になりつつあります。
地域創生の多くのケースに当てはまる話ですが、きれいな町並みに直した後、どのように人間味と生活の匂いを取り戻していくかは大きな宿題です。杵築の城下町が「運命の岐路」を乗り越えたことに安堵を覚えますし、城下町を救ってくれた市民には敬意を払います。しかし、今後を考えると心配になります。
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