ディープ・ニッポン 第9回

小笠原(1)横浜SJCの伏線、竹芝からの出発、父島到着、ペリー提督、ジョン万次郎、小笠原の歴史

アレックス・カー

ジョン万次郎が導く小笠原の「縁」

 父島には数奇な歴史があります。16世紀以降、日本、スペイン、アメリカ、イギリスなどの船が度々訪れていますが、ペリー来島時の父島はイギリスの領土でした。しかし、19世紀までは島に居住者はいませんでした。17世紀当時、江戸幕府は島の存在を知り、ここが自分たちの領地ととらえたようですが、鎖国中とあって、本土から遠く離れた島に強い関心を示すことはありませんでした。1675年に幕府は探査船を父島と母島に出していますが、その報告書には「無人ブニン島」と記されており、それが後に欧米人によって「ボニン」と発音されるようになったといいます。

 1827年、父島に上陸したイギリス軍艦「ブロッサム」のビーチー艦長が、港の木にイギリスの領有を宣言する銅板を貼り付けました。1830年にはハワイ駐在英国領事の勧めで、欧米人五人とハワイ系の約二十五人からなる移民団が父島で暮らすようになり、その時からボニン・アイランズはイギリス領となりました。

 移民団のリーダーを務めていたのは、アメリカ人のナサニエル・セーボレー(Nathaniel Savory)でした。父島に来たペリー提督はセーボレーから50ドルで土地を購入し、ここをアメリカ海軍の管轄下に置きました。その時に部下のケリー艦長を母島に送り、母島もアメリカ領土としました。小笠原諸島には曖昧ながらイギリス領も残っていましたが、この時に事実上アメリカの植民地に転換したのです。

 ペリーはナサニエル・セーボレーを小笠原の総支配人に任命して父島を去り、浦賀へと向かいました。幕府に一年の猶予を与えて開国を要求し、翌1854年に再び黒船でやって来ると、横浜で日米和親条約を締結。これをもって二百十五年続いた江戸幕府の鎖国の時代は終止符を打たれます。

 現在、小笠原諸島は日本の領土で、「ボニン」ではなく「小笠原」と呼ばれていますが、この名前にも背景があります。

 1722年に浪人の小笠原貞任さだとうが幕府に文書を送って、小笠原諸島の領有権を訴えました。貞任いわく、「小笠原諸島は桃山時代に曽祖父の小笠原貞頼が発見した無人島で、豊臣秀吉(もしくは徳川家康)から所領をたまわったものである」と主張したのです。父島、母島などの名称は、その時の文書にあったもので、それがいまも用いられています。しかし奉行所が調査したところ、文書の内容はほかの探検録と大きく異なるもので、小笠原貞頼の存在も確認できませんでした。1735年に貞任は身分詐称により、幕府より追放処分を受けました。

 父島の扇浦海岸近くの高台には、この小笠原貞頼を祀った「小笠原神社」があります。神社へと続く階段の周りにはガジュマルやヤシの木が茂り、境内は静寂に包まれています。ここにひっそり立っている「開拓小笠原之碑」は、1876年に明治政府が小笠原諸島を日本領土と宣言した際に、品川から持ち込まれたものです。当時は日本領土であることの裏付けとして、小笠原貞頼の「発見」が掘り起こされ、それにちなんで諸島の名前もボニンから小笠原に変わりました。

開拓小笠原之碑

 この話は、青森で見たキリストの墓と同様の「湧説ゆうせつ」の類と思われます。根拠のない物語がにわかに湧き上がって独り歩きし、やがて「歴史的事実」へとすり替わっていく。もしかしたら小笠原貞頼その人でさえ、架空の人物かもしれません。しかし、貞頼が島を発見したという湧説は、その後の「歴史」の礎となりました。

 島の歴史や文化について、さらに知りたくなり、海岸沿いにある「小笠原ビジターセンター」を訪ねることにしました。

小笠原聖ジョージ教会

 館内では、ちょうどジョン万次郎の特別展が催されていました。ジョン万次郎こそが、小笠原の歴史に登場するもう一人の日本人です。

 実をいうと私はジョン万次郎のことは軽く知る程度で、詳しい来歴は今回の展示で、はじめて理解することになりました。展示されていた年表によると、土佐国・中ノ浜の漁師だった万次郎は、1841年に四人の友人ともども海に流され、小笠原近海の無人島「鳥島」に漂着しました。そこをアメリカ捕鯨船のウィリアム・ホイットフィールド船長(Captain William Whitfield)に救出され、その船でハワイまで連れていかれました。

 鎖国中の日本へ帰ることは容易ではなく、万次郎は十六歳の時に四人の友人をハワイに残し、ホイットフィールド船長とともにアメリカ東部マサチューセッツ州の港町、フェアヘイヴンへ向かいます。ホイットフィールド船長は万次郎を学校に通わせて、語学や造船、航海の技術を学ばせました。それから約十年間、捕鯨船で働いた万次郎は世界中をまわり、1851年に琉球経由で日本に戻ることになります。帰国を認めてもらうため、薩摩藩と江戸幕府の長崎奉行所などで一年半の取り調べを受け、生まれ故郷の中ノ浜に帰ることがかなったのは1852年のことでした。

 万次郎の帰国は絶妙なタイミングでした。翌年にペリー提督を乗せた黒船が浦賀に来航すると、通訳を必要とした幕府は大慌てで土佐の万次郎を江戸へ呼び、武士に格上げして「中浜」という苗字を与えました。万次郎は一年後の日米和親条約締結の際にも、交渉に関与しています。その後、1860年に公で初のアメリカ訪問となる遣米使節団の一員として、勝海舟や福沢諭吉らとともに咸臨丸でアメリカに渡りました。

 小笠原の父島では、ペリーの来島からしばらくの間、ナサニエル・セーボレーと欧米人の住民たちは、アメリカの管轄下で静かに暮らしていました。しかし、幕府は次第にこの地に関心を示しはじめ、1861年に万次郎は幕府の依頼を受けて、ボニン諸島の開拓調査で再び咸臨丸に乗り込みます。幕府の主な目的は、父島が日本領土であることを住民たちに通達することでした。万次郎を起用した理由は、彼が鳥島へ漂着したことや、その後の航海の経験でボニンへの知識を持っていたこと、現地の欧米人との通訳ができることでした。また、万次郎はナサニエル・セーボレーとも知己でした。

 1862年に幕府は八丈島から三十八人の日本人入植者を送りましたが、世は幕末の動乱期。翌年には入植者全員を引き上げることになり、約十年後の1876年、ようやく明治政府が小笠原諸島を日本の統治下に置くことをイギリスやアメリカに正式通達します。小笠原神社の石碑はその時に運ばれてきたものでした。

 展示を見終えてビジターセンターを出ようとした時、受付で翌々日の特別イベントに参加するか尋ねられました。こちらは何も知らなかったため、逆に「どんなイベントですか?」と聞くと、ジョン万次郎の展示に合わせて、なんとペリー提督、ホイットフィールド船長、ジョン万次郎、ナサニエル・セーボレーの子孫が一同に集まるとのこと。小笠原では実に百八十年来の再会となるそうで、なるほど、ようやくフェリーに乗っていた外国人グループの謎が解けました。

 思い起こすと、SJCで一緒に勉強した仲間にはセーボレーという名の生徒もいました。SJCは2000年に閉校しましたが、現在も同窓会のサークルは活発で、頻繁に連絡を取り合っています。私はSJCのネットワークを通して同級生全員にメールを送って、ボニン・アイランズにつながる生徒の名前や現在の情報について、提供を求めました。するとすぐに小笠原出身の上部ノブオ(Nobuo Uwabe)、ヘンリー・ワシントン(Henry Washington)、リロイ・セーボレーとチャールズ・セーボレー兄弟の名前を教えてもらうことができました。この兄弟こそが、ナサニエル・セーボレーの子孫にあたる人でした。

 これは奇跡としかいいようがなく、六十年前にSJCで聞いた「ボニン・アイランズ」という言葉によって結ばれた小笠原との深い「縁」を感じました。

(つづく)

構成・清野由美 撮影・大島淳之

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オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!

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プロフィール

アレックス・カー
東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』(ともに集英社新書)、『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。
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