ディープ・ニッポン 第12回

小笠原(4)ジョン万次郎のイベント、ランスのバー、クレム&ルディ、上部フローラとの面会、出島

アレックス・カー

アメリカと日本のグレーゾーンで育った人々

 その翌日は最終日、父島から船の出る日でした。この日は帰るまでにどうしても会っておきたかった、ある人物の家を訪ねることに決めていました。その人はSJCの卒業生である上部ノブオ(Nobuo Uwabe)さんのお姉さん、上部フローラ(Flora Webb)さんです。フローラさんは二見港の前で「民宿がじゅまる」を営んでいます。

 1876年の日本領土宣言以降、父島では日本人の入植者が増えていきました。一方で、元々の住民だった欧米人とポリネシア系の人たちも依然として残っていて、1882年に欧米系島民はみな、日本国籍を取得しました。初期の移民団の家族は、Webbを「上部(うわべ)」、Savoryを「瀬堀せぼり」、Washingtonを「大平」のように姓を日本風の読み方に変え、英語教育を受けるためにグアム島や横浜のSJCに子供たちを送り出すようになります。

 彼らは太平洋戦争時、1944年の強制疎開で日本系島民と一緒に本土へ行かされてから、大変な苦労をしました。一つは戦時中の日本で欧米系の人間として存在していたこと。もう一つは言語の問題でした。小笠原では八十年近くに渡って日本人と欧米人が共生し、結婚を通して、混合の文化が育まれました。多くの欧米系島民はキリスト教の信徒で英語を話していましたが、当時の写真を見ると服装は着物と浴衣です。

 そこから英語と日本語の標準語、そして八丈島の方言との折衷言語のような方言が生まれました。英語の中に日本語の語彙が混じったり、反対に日本語の中に英語が入り込んだりする独特な言葉です。たとえば自分のことを「ミー」、相手を「ユー」と呼び、「あなたたちはどこに行きますか?」を「ユーたちはどこに行くんだい?」と話す具合です。小笠原諸島は動植物だけではなく、文化と言語のガラパゴスでもあったのです。

 終戦後、小笠原諸島という名はボニン・アイランズに戻され、アメリカ海軍の進駐基地となりました。当初、米海軍当局は本土に疎開した島民が島へ戻ることを一切禁じていましたが、戦前にSJCに通っていたフレッド・セーボレー(Fred Savory)が「自分たちはアメリカ人だ」と、海軍に帰還を強く訴えました。その甲斐あって1946年には欧米系島民のみを対象に帰還許可が下ります。

 1946年から約二十年間、ボニン・アイランズは米海軍の管轄下にあり、島での教育は英語で行われました。到着した日に私が見た小笠原聖ジョージ教会も、当時の米海軍によって建てられたものでした。私がSJCでボニン・アイランズ出身の生徒たちと会ったのも、ちょうどそのころ(1964−66年)です。

 それでも戦後の小笠原では、沖縄と同じように、日本の領有権は残っており、沖縄が返還された1972年の四年前、1968年に日本への返還が突然決定しました。「ボニン」という名は再び「小笠原」に変わり、島民はアメリカ国籍と日本国籍のどちらを取るか、難しい選択を迫られました。この時、島民の多くがアメリカやグアムに移り住みましたが、日本国籍を選んだ数人は、いまも小笠原に住んでいます。そして、その一人が上部フローラさんです。

 返還後、戦前の住人だった多くの日本人島民も島に戻ってきました。近年は、そのような歴史とは関係なく、小笠原が好きで新たに本土から移住してきた人たちも増えています。島の中では戦前の日本人と欧米系住民を「旧島民」、それ以降に来た人たちを「新島民」と呼んでいますが、現在、90%は新島民になります。ガイドの島田さんや、宿「ロックウェルズ」マスターの佐藤さんは新島民です。このように、日本人側が最近の移民として「新島民」になっているのは、非常にユニークな歴史です。

 フローラさんの家を訪ねると、彼女は懐かしそうに昔の思い出を語り始めました。私が弟のノブオさんとSJCの同輩だったこと、米海軍関係者の家族であったこと、そして何より日本語と英語の両方を話せることに親しみを感じてくれたのだと思います。クロゼットの引き出しから昔の新聞記事の切り抜きや古い写真を次々と取り出して、見せてくれました。若き日の着物姿のお父さんの写真、1960年代に米海軍が発行したフローラさんの学生証、返還直後の1968年に「本土へ就職第一号」という見出しで彼女を紹介した新聞記事の切り抜きなどがありました。

昔を懐かしむ上部フローラさん

 フローラさんの言葉には独特なボニン訛りがあり、「私は昔、ちょっとフェイマスだったのよ」というように、英語と日本語が入り混じっていました。おそらく一般の日本人、そしてアメリカ人にとっても聞き取りづらいものだと思いますが、私には子供の時のハワイの言葉や、横浜時代のSJCの生徒たちとの会話が思い出され、懐かしい気持ちになりました。

 フローラさんと話していて何より印象に残ったのは「国籍」の話です。返還当時、小笠原の住民たちは日本国籍でも、アメリカ国籍でもなく、彼らの身元を保証するものは米海軍の発行した「ボニン諸島住民証明書(Bonin Islands Resident Certificate of Identity)」だけでした。返還前にフローラさんはグアム島の高校に進学しましたが、それは本土の日本人には考えられない選択肢だったことでしょう。

 自身の証明書と一緒に、1970年に立法されたアメリカの法律のコピーもありました。そこには「ボニン・アイランズの人たちはアメリカ国籍を取得する権利がある」という記述がありました。しかし有効期限は1972年です。1968年に日本国籍を選択したフローラさんは、アメリカに住むことはまったく考えていなかったといいます。「この法律はいまでも有効なのでしょうか?」と聞かれても、私には答えようがありません。「旧島民」はアメリカと日本との間のグレーゾーンに生まれ育ち、どちらにも属さない人たちで、彼らが抱いた不安は、いまもずっと残っています。

 フェリーの乗船時間が近付き、お礼を言って立ち去ろうとした私に、フローラさんはそれらの古い資料や本を手渡してきました。こんな貴重なものはいただけないので断ろうとしたら、彼女は「いえ、あなたに保管してもらいたいの」と言いました。

 十二歳で来日して以来、私も英語と日本語の間のグレーゾーンでずっと暮らしてきました。フローラさんがはじめて会った私を信頼して、大事な資料を託してくれたことは驚きであり、その責任を重く受け止めました。そういえば前夜、ヤンキータウンのランスさんが、頼んでもいないのにチャールズ・セーボレーの連絡先を教えてくれたことにも特別な思いを感じました。

 フローラさんの家を出て、いよいよ帰りの「おがさわら丸」に乗船する時間になりました。港には島民の人たちが大勢見送りに来てくれていました。その中に、フローラさん、ガイドの島ちゃん、ロックウェルズのマスターの佐藤さんら、今回お世話になった人たちがいて、こちらに手を振ってくれていました。

 おがさわら丸が出航した後は、その傍らをレジャーボートが十数艘、並走して盛大な送り出しのセレモニーが始まります。どこから来たのか、ボートの数はどんどん増えて二十艘あまりになりました。船上で手をふったり、踊ったり、逆立ちしたり。最後には海に飛び込んでのお見送りです。これは、おがさわら丸が出航する時の風物詩であるそうですが、小笠原とのお別れは、とても賑やかで手厚いものでした。

見送りの風景

 帰りの船の中では、イベントで仲良くなったCIEのメンバーたちと、ウィスキーを飲みながら会話が弾みました。そこにはナサニエル・セーボレー五世のセーボレー孝(Jona Savory)さんもおられました。孝さんは旧島民のリーダーの一人でもあり、彼から島のことをいろいろ聞くことができました。今回の旅でマシュー・ペリーさん、スコット・ホイットフィールドさん、中濱京さん、そしてセーボレー孝さんという、歴史上の人物の末裔たち一同に出会えたことは、私にとって、思いもよらない巡り合わせでした。

 私が横浜のSJCに通っていたのはもう六十年も前のことなのです。SJCで聞いたボニン・アイランズの名前も記憶の彼方に埋もれていましたが、遠い昔の「縁」が小笠原と私を引き合わせてくれました。フローラさんやランスさんたちには強い親しみを覚えますし、子供時代を過ごしたハワイを思わせる島の町並みと自然、そこで出会った人たちは、私には以前からの知り合いのように懐かしく感じられました。私はまた小笠原に戻ってきたいと思います。その時には「俺だってボニン・アイランダーだからな」と言いたいものです。

おがさわら丸の船上にて。左からセーボレー孝さん、中濱京さん、スコット・ホイットフィールドさん、アレックス、マシュー・ペリーさん
小笠原編 関連地図

(小笠原編おわり)

構成・清野由美 撮影・大島淳之


1 2
 第11回
第13回  
ディープ・ニッポン

オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!

関連書籍

ニッポン巡礼

プロフィール

アレックス・カー
東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』(ともに集英社新書)、『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。
集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル
プラスをSNSでも
Twitter, Youtube

小笠原(4)ジョン万次郎のイベント、ランスのバー、クレム&ルディ、上部フローラとの面会、出島