ディープ・ニッポン 第12回

小笠原(4)ジョン万次郎のイベント、ランスのバー、クレム&ルディ、上部フローラとの面会、出島

アレックス・カー

移住者たちとの対話

 母島から戻った日の晩、小笠原ビジターセンターでジョン万次郎についての講演会が開かれ、マシュー・ペリー提督、ウィリアム・ホイットフィールド船長、ジョン万次郎の末裔三人が講演を行いました。それぞれ、ペリー提督五世のマシュー・ペリーさん、ホイットフィールド船長六世のスコット・ホイットフィールドさん、ジョン万次郎五世の中濱きょうさんです。

 彼らは「国際草の根交流センター(CIE)」という日米間の相互交流団体に携わっています。小笠原に来るのは今回がはじめてとのことでしたが、これまでにもCIEの活動で数回、アメリカと日本の両国でイベントを開催しています。

 講演では、まずペリー提督と同じ名前の五世マシュー・ペリーさんが、ペリー提督の小笠原と江戸の旅を振り返って、家宝として代々伝わる提督愛用の、金でできた懐中時計を参加者に見せてくれました。

 次に中濱京さんが、万次郎の足跡と功績を紹介しました。たとえば日本初の英和辞典を編纂したのは万次郎だそうです。京さんは講演の最後に、百八十年前のジョン万次郎の鳥島漂着以降、ずっと続いているペリー、ホイットフィールド、中浜の三家の友好関係を語りました。

 1870年に江戸から再びアメリカへ渡ることができた万次郎は、フェアヘイヴンの地で二十三年ぶりにホイットフィールド船長と再会します。万次郎の没した二十年後、1918年には、長男の中浜東一郎さんが、父親の受けた多大な厚意への感謝の印として、フェアヘイヴンに日本刀を寄贈しました。太平洋戦争開戦前年の1940年には、東京の帝国ホテルで「平和の使節」と名付けたパーティも開かれました。出席者には、スコット・ホイットフィールドさんの祖父で、当時の駐日アメリカ大使だったグルー大使の夫人(ペリー提督の孫)と、京さんの祖父である中浜清さんもいました。

 長きに渡って歴史を引き継ぎ、友好関係を育んでいる三家の話は、世界的に見ても稀な例だと思います。

左からスコット・ホイットフィールドさん、中濱京さん、マシュー・ペリーさん

 これまで私はペリー提督の浦賀来航が日米関係の幕開けだと思っていましたが、実は浦賀から千キロ離れた太平洋近海の小さな島でその絆は芽生えていたのです。

 イベントの夜、ビジターセンターの会場は地元の人たちで満席になり、質疑応答の時間は客席からたくさんの手が挙がりました。その中で、私は一人の若いアメリカ人男性と仲良くなりました。彼はクレム・マシューという名で、数年前に英語教師として父島に来て、島の女性と結婚し、今では子供もいます。現在はサーフボード店に勤めて生計を立てているという「新島民」です。

 イベントが終わった後、クレムさんと一緒に私はヤンキータウンへ繰り出しました。主の大平ランスさんの作るジントニックを前に、ランスさんも交えてカウンターで雑談に興じていると、別の若い男性がバーに入ってきました。クレムさんの友人のルディ・スフォルツァさんでした。お父さんがイタリア人、お母さんが日本人のルディさんも父島に住んでいて、通訳やライターの仕事をしながら、島についてのアートブックを製作したり、展覧会を企画したりしています。

 二人とも小笠原が大好きで、この地の自然のすばらしさを熱心に語ってくれました。人口減少の時代、地方の命運はクレムさんやルディさんのような移住者にかかっています。

 小笠原の人口は平成31(2019)年をピークに、令和以降は毎年約1%減少しています。減少はまだ小幅で、日本の地方、特に離島としては珍しく、小笠原は元気な状態を維持できています。

 その状態に一役買っているクレムさんとルディさんの懸念の一つは、空港建設です。外部との移動手段が船しかない小笠原では、病気やけが人が出た場合、自衛隊などに救急を頼む必要があり、妊婦は数カ月間、島から離れなければなりません。また、六日間に一便の東京―小笠原のフェリーだけでは、観光地としての発展も限られます。不便なアクセスに悩む小笠原村は、東京都に対して空港の建設を要請していますが、世界自然遺産の小笠原に大きな滑走路を建設すれば、自然環境に多大な悪影響をもたらします。

 飛行機が毎日行き来するようになれば、日本のどこにでも見られるような乱開発や不動産投資が活発化することは、容易に予想できます。それによって島の環境と生活が激変してしまうことを、二人は憂いていました。

 私は前日にバーを訪れた時の反応から、ランスさんにはボニン・アイランズから来ていたSJC(横浜にあったセント・ジョセフ・カレッジ)の生徒たちの話は避けて、クレムさん、ルディさんと会話を続けていました。宿に引き上げる時刻となり、彼らとメールアドレスを交換してバーを出ようとした時に、ランスさんが一枚の紙を渡してきました。そこにはアメリカにいるチャールズ・セーボレー(Charles Savory)の電話番号が書いてありました。

ヤンキータウン外観
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ディープ・ニッポン

オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!

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プロフィール

アレックス・カー
東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』(ともに集英社新書)、『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。
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