ディープ・ニッポン 第18回

徳島(2)

アレックス・カー

三木家住宅に残る「裏」の歴史

 前回で記した八幡の大杉を後にして、再び険しい山道を上がり、山の上にある三木家に到着したのは夕方で、あたりは暗くなり始めていました。小雨が降り、山肌からはうっすらと霧が湧いています。三木家住宅は祖谷の私の家「篪庵ちいおり」より一回り大きい立派な茅葺き屋根の木造民家で、手入れが隅々まで行き届いています。霧の中に立つ茅葺き屋根の三木家住宅は、まさに俗世間とかけ離れた隠れ家でした。

三木家住宅

 三木さんがまず屋内を案内してくれました。三木家住宅の土間からは篪庵と同じように茅葺き屋根の裏側を見ることができますが、座敷の上には天井が張られています。また座敷は、板張りの篪庵とは異なり畳敷きです。奥の方に主人しか入れない「入らずの間」もあって、まさしく庄屋屋敷でした。

 家の敷地から一段下がったところには、大麻の畑があります。周囲は柵で囲われ、入口に素朴な鳥居が立っています。薄暗がりの中、霧に包まれた畑には聖なる気配が漂っていました。

三木家の大麻畑。この麻を織って「麁服(あらたえ)」として大嘗祭に献上する

 忌部氏の一族は、奈良時代から阿波の麻植おえ郡(現在の吉野川沿いと木屋平を含んだ地域)に暮らし、麻織りの布を宮中に献上していました。奈良の正倉院には「阿波の麻植郡に住む戸主忌部為麻呂が天平4(732)年に納めた」旨が記された布が保管されています。

 忌部家と麻は強く結び付けられ、天皇即位の大嘗祭に神服として、麻で織った布「麁服あらたえ」を献上することになりました。『古語拾遺』や宮中儀式を定めた『延喜式えんぎしき』(927年)には、このことが詳しく書かれています。献上は中世まで続きましたが、南北朝の混乱により京都への運搬が困難となり、1338年からは止まり、さらに応仁の乱(1467年)の戦禍によって大嘗祭そのものも途絶えてしまいました。

 その後、大嘗祭が江戸幕府によって復活したのは1687年、実に221年ぶりのことでした。この時、神祇官が徳島藩に麁服の織り所である忌部神社の所在を問い合わせましたが、藩は「不明」と回答しています。ちなみに忌部神社は存在していましたが、徳島藩が幕府による介入を恐れたゆえかもしれません。ともあれ大嘗祭に麁服を欠くわけにはいかないため、しばらくの間は神祇官が別の場所で「忌部所作代」として代わりのものを作り続けていました。

 その後、三木さんの祖父である三木宗治郎さんの働きかけが実り、大正天皇即位(1915年)の大嘗祭からは、再び本拠地の三木家が麁服献上の務めを担うようになりましたが、それは1338年から実に577年ぶりの再開でした。それから約百年間、大正、昭和、平成、令和の天皇四代の大嘗祭は、三木家の畑で栽培した大麻を布に織って、麁服として宮中に献上しています。

 大嘗祭は平均して25年間隔ですから、三木家にとっても一代一度の大仕事です。宮中から麁服の依頼が入ると、三木家の畑で大麻の栽培が始まります。その作業は儀式を伴った仰々しいもので、三木さんは奈良時代の習わしに従って「御殿人みあらかんど」、作業に携わる近くの住民たちにも「御衣みぞひと」という役職名が与えられ、畑に入る時は特別な装束を身に纏います。麻が成長するまでの約百日間は、カメラを設置して二十四時間の監視体制が敷かれるそうです。

 大麻を収穫したら、干した茎を煮沸し、皮を剥いて糸を紡ぐ作業を経て、近くの山崎忌部神社で巫女姿の織り女が四反の布を織ります。最後に麁服を唐櫃に納め、それが皇居に運ばれます。

 大嘗祭では「悠紀ゆき殿」と「主基すき殿」という二つの仮の神殿が建てられ、その中で新天皇が践祚せんその儀を行うことになっています。その時に阿波忌部の麁服(麻)と三河(愛知)から献上される繪服にぎたえ(絹)が悠紀殿と主基殿の中で使用されます。儀式は深夜、秘密裏に行われるため、それらの布がどのような役割を果たしているのかは分かりません。天皇が身に纏い、アマテラスなどの祖霊と一つになるという説もあります。
 三木さんから説明を聞きながら、私は英国王室を描いたネットフリックスの人気テレビドラマ『ザ・クラウン』の中にある、興味深いシーンを思い出しました。2000年代初頭、当時のブレア首相が王室の経費節約のためエリザベス女王に訳の分からない宮殿の役職を廃止にするよう提案します。訳の分からぬ役職とは、「世襲制の大鷹匠」「君主の手を洗う司」「ウォッシュ湾海軍大臣」「白鳥の番人」といったものです。これに応じた女王が職人たちを呼び出し、それぞれの仕事の内容を尋ねます。伝統的な衣装を身に付けた職人たちは、古い書籍を見せながら、先人たちの思いと数百年続いてきた自分たちの務めを、女王の前で誇らしげに説明します。

 女王は次にブレアと謁見した時に「国民が我々に求めるのは神秘、不可思議、象徴、超越的なものです。宮殿の役職には、貴重な専門知識、世代を超えた知恵の集積があります」と、首相の依頼を断ります。

 日本の天皇制にもこれと同じような時代を超越した神秘性が宿っていると私は思います。深夜の悠紀殿、主基殿で何が起きているか、我々には知る由もありません。しかしながら大事なことは、遥か昔、神話の時代から天皇践祚の際には麁服が必要とされてきたということです。そのために阿波の国、木屋平の山奥にある畑は聖域として、柵と鳥居で仕切られているのです。

 さて、平安朝の公家だった忌部氏が木屋平の僻地に流れた背景には、忌部氏が時代の「敗者」だったことが挙げられます。忌部(斎部)広成が『古語拾遺』を書いたのは、宮中祭典を掌握しているはずの忌部氏が、中臣なかとみ氏(後の藤原氏)により徐々に押し出され、祭祀から外されるようになってきたためでした。『古語拾遺』は忌部家の復権を目的に書いた「裏」の歴史書だったため、記紀に記された正統的な「表」の歴史とは異なる内容になりました。

『古語拾遺』を書いた直後に、忌部氏は中臣氏に完全敗北を喫して、表舞台から姿を消します。唯一残ったのが、麁服の奉献でした。阿波の山が大麻の栽培に適していたため忌部家は木屋平に根を下ろし、その後は地方の豪族として長きにわたって繁栄しました。中央政権とかけ離れていたため、争いに巻き込まれることもなく、奇跡的に今日まで生き残ってきたのです。

 八十代後半の三木信夫さんはテレビドラマで描かれた「水戸黄門」のような雰囲気を持った紳士で、平安公家の流れを汲んでいると思わせる貫禄がありました。同時に、自ら作ったパワーポイントのスライドで歴史や祭礼について私たちに説明してくれるといった、現代性も身に付けておられます。

三木信夫さん

 三木さんによると、平家落人おちゅうどが四国の山を越えて祖谷へ逃れたのは、阿波忌部が木屋平にいたためだったといいます。そもそもなぜ都育ちの平家が秘境の祖谷まで来られたのか、私も以前から不思議に思っていました。しかし、阿波忌部の手引があったと考えれば、確かに腑に落ちます。祖谷だけでなく、つるぎ町にある王太子おうたいし神社の平家伝説との繋がりも、これで見えてきます。

 四国エリアには山深い阿波(徳島)とともに、都に近い讃岐(香川)もあります。讃岐は徳島の急峻な地形とは違って、平坦で豊かな地域です。たとえば善通寺に生まれた空海は、裕福な一族の出身でした。讃岐は昔から、そのような人物を輩出する恵まれた風土だったことがうかがえます。一方、阿波の山間部は過酷な環境で農作物の収穫も限られた貧困の地でした。それゆえに、時代の敗者だった忌部氏と平家落人はこの地に流れ着きました。奥地だからこそ「裏」の歴史もこの地に残ったのです。

三木信夫さんとアレックス・カー

(つづく)

構成・清野由美 撮影・大島淳之()

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オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!

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プロフィール

アレックス・カー
東洋文化研究者。1952年、米国生まれ。77年から京都府亀岡市に居を構え、書や古典演劇、古美術など日本文化の研究に励む。景観と古民家再生のコンサルティングも行い、徳島県祖谷、長崎県小値賀島などで滞在型観光事業や宿泊施設のプロデュースを手がける。著書に『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』(ともに集英社新書)、『美しき日本の残像』(朝日文庫、94年新潮学芸賞)、『観光亡国論』(清野由美と共著、中公新書ラクレ)など。
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