日本ではどのような分野にも「裏」と「表」というテーマが付き物です。一般性を持つ「表」と、秘められた「裏」、勝者と敗者、いまと昔、公式の見解と別の解釈など、あらゆる出来事に当てはまります。なかでも皇室や神道の歴史には、解釈の相違や異論などの表と裏が多く見られます。
現在の神道は「記紀」(712年の『古事記』と、720年の『日本書紀』)に書かれている神話や儀礼が基本となっていますが、これに相対する古代の歴史書がもう一つ、日本には存在します。それは平安時代初期の807年に忌部(斎部)広成が書いた『古語拾遺拾遺)』です。忌部家の歴史は大和王朝が初期国家として成立し始めた西暦500年ごろまで遡ります。記紀が編纂される数百年前から、忌部氏は宮中の祭具を作りながら祭典に尽力していました。『古語拾遺』には、記紀にはない神話や歴史的事実が記されており、神道哲学では「裏」にあたる資料となります。
徳島県の木屋平には、その忌部氏の末裔である「阿波忌部氏」の直系子孫が「三木」という姓で暮らしており、現在も天皇即位の儀式の一つ「大嘗祭」で、麻を織った反物を献上する役割を担っています。
私は大学時代、天皇家の王権の象徴として受け継がれてきた鏡、剣、勾玉という「三種の神器」について研究をしていた時に『古語拾遺』に行き着き、表立った歴史書では語られていない記述を見つけました。奈良・平安時代、忌部家の祭官は三種の神器のうち鏡と剣の二つを新天皇に渡す任務を与えられていました。現在、鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮、勾玉は皇居の中で安置されていることになっていますが、それぞれの神器にまつわる逸話が、『古語拾遺』には豊富に述べてありました。そのような『古語拾遺』ゆかりの忌部家が、阿波の山奥に住んでいると知った時は、さすがに驚きました。
2023年夏に「全国重文民家の集い」というNPO法人の総会にゲストで招かれました。ヨーロッパには数世紀にわたってシャトーやパラッツォに住む旧家が多くありますが、日本でお城に住んでいる殿様は一人もいなくなり、歴史的な大邸宅もほとんどが住まいから資料館などに変わっています。重文民家の集いは、国指定の重要文化財の住宅に住む人たちの集まりで、極めて特殊な組織です。私は時々、会員の方が住んでいる重文民家を見学させてもらっていました。七月の総会時に三木家住宅の現当主である三木信夫さん(86)は代表幹事を務めており、「祖谷からも近いし、遊びに来てくださいよ」と声をかけてもらっていました。それ以来、ずっと三木家住宅が気になっていたこともあり、今回の徳島取材で訪ねることにしました。
オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!