徳島県美馬市の木屋平周辺は祖谷と違って観光地化しておらず、旅館や温泉、飲食店はほとんどありません。三木家を訪ねた日は、そこからいちばん近いところにあったゲストハウスを予約していましたが、三木家から車で三十分もかかりました。三木家では現当主の三木信夫さんとの話が盛り上がって、宿に着くころには夕食時間をとっくに過ぎていましたが、事前に遅れることを伝えてお弁当を用意してもらうことができました。夜が更けるにつれて雨は勢いを増して土砂降りになり、その晩は強い雨音を聞きながら眠りにつきました。
朝になると雨は弱まり、宿の周りの山々からは霧が湧き上がっていました。湿度の高い日本では、どこでも霧を見ることができますが、徳島の山の霧はほかの地で見られるものとは違うように思います。景色全体が霞む、やさしく朧気なものではなく、霧に濃淡があって、縞状、球体、竜やタコのような、さまざまな模様や形が凛々しく浮き上がってくるのです。霧の流れが速いことも徳島の特徴で、霧のかかっていないところは遠くの稜線までがはっきりと見えます。
早いもので、私がはじめて祖谷を訪れた1971年から、すでに半世紀以上が経過しました。その時以来、祖谷渓の霧は私にとって夢想の世界であり続けています。祖谷の私の家「篪庵」の縁側に腰掛けて、霧を眺めることはいまでも最高の贅沢です。刻一刻と姿を変えていく「雲の踊り」を見ていると、バレエを鑑賞しているような気分になります。この日、木屋平で見た景色にも、よく似た雰囲気がありました。
木屋平の東に隣接する神山町は近年、まちづくりや若者の移住で話題になっている地域です。私たちは峠道を抜けて神山町に入り、国道193号を南下しました。このあたりは地方創生で脚光を浴びている中心地とは離れていて、人気のない山道が続きますが、ところどころにある小さな集落には「かくれ里」の気配が漂います。
緩やかなカーブの登り坂を進んでいくと、イチョウの大木が植わった展望スペースがあり、そこから集落を一望することができました。
なだらかな山に包まれるように、十数軒の民家と畑が集まっていて、絵に描いたような田園風景です。
イチョウのそばに設置された看板から、そこが「中津」という集落で、木は「満月イチョウ」と呼ばれる集落のシンボルであることが分かりました。背後に迫る山の麓には鳥居が立ち、古い石段が山奥へと続いています。この先にあるという「神通滝」の参道のようです。鳥居のすぐ脇には扉の開いた小さなお堂があって、鄙びた木造の地蔵尊が安置されていました。
オーバーツーリズムの喧騒から離れて──。定番観光地の「奥」には、ディープな自然と文化がひっそりと残されている。『ニッポン景観論』『ニッポン巡礼』のアレックス・カーによる、決定版日本紀行!