京都の中心は古来、御所のある場所と目されています。京都市の「左京区」「右京区」は、御所の玉座で南を向いて座る天皇の目線からとらえられているため、現代でも東側が「左」、西側が「右」となっています。京都に都が置かれた八、九世紀から、京都の盆地の中で唯一開けている南側は奈良、大阪に面した表玄関でした。
一方、北側、つまり天皇の背後には山が迫っており、その先には別の国である「丹波」と「越前」がありました。「鯖街道」で京都と繋がっていた福井と京都北部には広大な文化圏が存在しています。このエリアを包括する特定の名称はありませんが、御所の背裏ということで、私は「裏京都」と名付けました。
京都に「裏」を付けると違和感を覚える人はいるかも知れません。しかし、ここの「裏」は徳島を旅した時の「裏祖谷」と似たようなとらえ方です。「裏祖谷」の回では祖谷の東側にある剣山を越えて、さらに東の「西阿波」一帯を旅しました。そちらの市町村である美馬市や上勝町は、実は祖谷よりはるかに便利な場所で、祖谷の方が秘境であり「裏」であると以前は目されていました。しかし、現在は「かずら橋」など名所のある祖谷の方が有名になり、祖谷が「表」で、剣山より東があまり知られていない「裏」というようにイメージが逆転しています。
「裏」には輝かしい表舞台に見られない、奥深いものが残っています。そのため、私はあえて福井と丹波を「裏京都」と呼ぶことにしました。今回の旅は、京都に近いのに京都から遠い、そのような「裏京都」の探訪です。
見渡す限りの苔、苔、苔
起点は福井です。私たちは多くの人が目指す永平寺ではなく、その東奥にある「平泉寺白山神社」に向かいました。
平泉寺白山神社は福井・岐阜・石川の三県をまたぐ白山の南西の麓に位置しており、いにしえより白山信仰の要衝の一つでした。白山信仰の由来は原初的な山岳信仰にありますが、平安初期に密教が広まるとともに、それと習合し、明治時代までは「平泉寺」という寺院、明治以降は「平泉寺白山神社」という神道の社として、いまに伝えられています。
白山信仰では、白山に登る三つの巡礼道は「禅定道」と呼ばれ、「馬場」という拠点にそれぞれの寺院がありました。北は石川県・加賀馬場の「白山比咩神社」、南は岐阜県・美濃馬場の「長瀧寺」、そして南西にあるのが福井県・越前馬場の平泉寺でした。
平泉寺の起源は奈良時代まで遡ります。717年、行者の泰澄が白山の山頂を目指す途中、近くの池に女神の白山大神が現れたことから、白山を拝むこの地に社を建てたと伝えられています。そこから越前でも有数の大寺院に発展し、千三百年の時間の中で波乱に富んだ歴史を刻むことになります。
そのドラマについては後述するとして、まずはいまの姿を記すことにします。
田んぼと畑が続く風景の中にひっそりとある「下馬の大橋」と呼ばれる場所が、平泉寺の参道の始まりです。
この参道はかつて、白山へ続く禅定道の起点でもあり、境内でも途切れることなく、遠方にある白山の山上まで通じていました。現在、参道は千年の昔から続く旧参道と、近年になって自動車用に作られた新参道の二つになっていますが、特筆すべきは旧参道の「菩提林」です。約一・二キロメートルに及ぶゆるやかな旧参道は、車がすれ違うことができないほどの道幅で、その両脇には樹齢数百年のスギやブナなどの老木が立ち並んでいます。「菩提」とは、修行に入る前に煩悩を断ち切り、悟りの境地に至ることを意味する言葉です。社に向かって右側に残る石畳は、室町時代、近くの九頭竜川の河原から修行僧が運んできたものとのこと。林と呼ばれてはいますが、夏でもうっそうとした森であり、厳粛な気に満ちています。
長い参道の先に、二、三軒のそば茶屋があり、そこから「精進坂」を上り「一の鳥居」「二の鳥居」をくぐりながら境内に入っていきます。一の鳥居と二の鳥居の途中、細い脇道を入った先に「御手洗池」という林泉がありました。泰澄が白山の女神を見た池というのが、この林泉で、旧名の「平清水」が「平泉寺」の由来になったとされています。
二の鳥居は頭に三角の屋根を被っています。これは比叡山ゆかりの「山王鳥居」(笠木の上に三角形がつく形式)で、額に書かれた「白山三所大権現」の字は、天台座主の公遵法親王の筆と伝えられています。神仏習合がはっきりと分かる鳥居です。
境内は建物がほとんど見当たらない閑散とした空間で、そこに木漏れ日が差し込んで、地面の苔を照らしていました。この苔庭こそが、菩提林と並ぶ平泉寺の大きな特徴です。ぶ厚い緑の苔は、旧参道の両脇に広がる菩提林の足もとから広がっていました。
なぜ平泉寺の苔がこんなにも美しいのか、本当のところは分かりませんが、きっと湿気が多く、冬は厳しい寒さに覆われる福井県の自然風土が、苔に適しているのでしょう。どこまでも苔が続くそのスケールと、苔自体が持つ強烈な緑色は、「苔寺」として有名な京都の「西芳寺」を遥かに上回っているように感じます。司馬遼太郎は『街道をゆく 越前の諸道』で、苔寺を平泉寺と比べて「笑止なほど」とまで述べています。
静謐な姿の平泉寺ですが、千三百年の歴史は、美しさとはかけ離れた現世的な闘いの連続でした。
白山信仰に端を発し、巡礼の拠点となった平泉寺と白山比咩神社(加賀)、長瀧寺(美濃)はその後、互いに入山料などの利権を巡って数世紀にわたり争いました。そして1172年、比叡山延暦寺による講堂落慶を機に、天台宗の寺院となった平泉寺が時の勢力を得て、次第に他を圧倒していきます。
最盛期の十六世紀初頭には、大講堂を中心に、四十八社、三十六堂の塔頭が付属する巨大宗教都市に発展しました。境内には左右に広く石垣が積まれた高台が残っていますが、最盛期の室町時代には、ここに京都の三十三間堂より長い四十六間(八十三メートル)の巨大な拝殿がありました。
境内の周りには、石垣に囲まれた枡の目の町が築かれて六千もの院坊が存在し、八千人の僧兵が領地を守っていたそうです。この僧兵という存在が、当時の平泉寺の立ち位置を示しています。僧兵とは軍事集団で、比叡山延暦寺と同じく、宗教的権威をまといながら、時の政治を軍事力で支配する大寺院システムの象徴でした。
戦国時代、織田信長は大きな政治力を持った比叡山延暦寺を敵とし、焼き討ちを行います。越前を支配する朝倉氏と敵対していた信長にとっては、朝倉氏と近しい平泉寺も同じく滅ぼすべき政敵であり、そのような背景から引き起こされた越前一向一揆(1574年)により、平泉寺は焼き尽くされ、壊滅的なダメージを負います。
その後、豊臣秀吉の手で復活を果たすものの、江戸時代には六坊二寺という、往時とはくらべものにならないほどの小規模な寺院となりました。幕末まではその状態を維持できましたが、明治の廃仏毀釈で仏教寺院としての性格を失い、寺領はさらに縮小し、多くの建物が取り壊されて「平泉寺白山神社」という神社に還ることになりました。
神社の禅定道にある脇道に、納経所跡があります。昔は六十六か所の神社に法華経を納めながら旅をする習慣があり、ここはその遺跡です。その道沿いの低い石垣の上に、無数の壊れた仏像が散らばっている場所がありました。打ち壊された地蔵や観音など石仏の一体一体は、どれも首の部分で切断されていて、何ともいいがたいインパクトを放っています。
それは、おぞましい廃仏毀釈の一端を表す証拠です。今日、多くの神社仏閣では、廃仏毀釈の傷跡はきれいに拭い取られ、何もなかったようになっていますが、ここは違っていました。歴史の証拠をそのままに伝えている平泉寺白山神社には、敬意を払わなければなりません。
現在、境内にはささやかな拝殿のほか、二、三のわびた小さい脇宮が残るくらいで、宗教都市として栄えた面影はありません。しかし、境内は隅々にまで手入れが行き届き、目の障りになるような金属製の手すりや看板、ファンシーな置物の類は一切ありません。見渡す限りの苔、苔、ふかふかと豊かな苔で、社全体が自然の中にふっとたたずんでいます。このような環境こそが神社だと私は思います。
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