【短期連載】ある音楽家の "ステイホーム" 第8回

ステイホーム ~内と外の繋がる世界②~

「弾き籠る」生活の日常と非日常に思いを馳せる
黒田映李

 

「3、鱒の鮨ふたたび。お馬さんから見えるもの」

 観衆のない京都競馬場で、不安定なお天気に泥まみれの舞台となった、桜花賞。それから約一カ月経ち、東京競馬場で開催された牝馬限定クラシック第2弾・オークス(優駿牝馬)は引き続き無観客で、晴れ渡る空の下に行われた。

 「薔薇香る東京競馬場では…」ラジオのアナウンサーは相変わらず、季節の移り変わりとそこから見える風景を、実況に盛り込んでいる。府中にある東京競馬場内にはバラ園があって、ちょうど今、咲き誇っているそうだ。

 

 オークス開催日の午前中、出走馬を持つ馬主さんが再び、鱒の鮨を届けてくださった。その数日前、「また食べたいですかー?」とくださった問いかけに、私は大きくYesと答えてしまっていたのだ。両面サクラ色でジューシーな身に包まれた鱒の寿司。試合前のワクワク感と、皆で現地を訪れているような気分をプレゼントしてくれる。牝馬同士の闘いは華やかでたおやかなのに、“ステイホーム”下で持ち合わせていた唯一のアルコール、ビールは、今日の鱒の鮨にはなんだか似合わない。

 

 

 新型コロナウイルス感染防止対策としての、無観客開催。馬主さんを含めた関係者の立ち入りも、馬とジョッキーの移動も制限されたままだ。馬主さん、調教師さん、厩務員さん、ジョッキー、そして競走馬。皆が一堂に会することができなくとも、細心の注意が払われ、レースは継続されている。

 歓声の無い試合が続く中、レース中に怪我を負い、虹の橋を渡っていった馬もいた。落馬が発生し怪我を負ったジョッキー、急遽その乗り替わりを担ったジョッキー、そして怪我から復帰したジョッキーもいた。一方のネット上には何時も、何か起きればその様子を心配し見守る人々、人馬の健闘をねぎらうファンの声が溢れている。競馬観客の世界は、馬券を楽しみに勝負にくる人々と、勝ち負けは関係なくただただ馬が好きである人々、その雰囲気を楽しみに集う人々と、それぞれにいるように映って見える。

 

 オークスの一週前は、近年最強の馬だと謳われているアーモンドアイが重賞レースを軽やかに制した。先シーズンの年度代表馬は、リスグラシュ―。いずれも牝馬である。馬の世界も人の世界も、女性の活躍をどこか頼もしく見てしまうのは、私が女だからなのだろうか…。“競争の世界”はどの分野にも通じる部分があって、その者が生まれ持つ個性と育成の過程がどれほど大切か、男女の差とはどのような部分で出てくるものなのか、馬の世界からも学びを得ている思いでいる。

 

 そして、毎度あっさりと勝っていく馬の姿を見ては、伝説の名馬・ディープインパクトの姿が浮かんできて、しばし彼に思いを馳せる時間が訪れる。

 勝利を重ねるサラブレッドの堂々とした立ち居振る舞いは、人のそれに見えるオーラと同じようにまぶしく輝いて見えて、実際に会った時の印象はすさまじい。競走馬としても種馬としても素晴らしい成績を残し、昨夏この世を去った、ディープインパクト。彼はどんなオーラを纏っていたのだろうか。走っている姿はさることながら、引退した後の姿にも会ってみたかったなと、切に思う。

 ディープインパクトの父であるサンデーサイレンスは、競走馬としての馬生をアメリカで終えた後、偉大すぎる種牡馬となる運命を背負い来日した。この馬がいなければ、今日の日本の競馬クオリティーはなかったとも言えるほどの功績を遺している馬だ。

 この父子は偶然にも同じ3月25日生まれ。そして、夏にこの世から旅立っている。…“運”や“縁”も勝負に勝つことの要素であると言われるが、そこには、目に見えない何かも働いていることがあるように、感じることがある。

 

 

 ヨーロッパの小さな女子達には、馬に憧れる時期がきまって訪れるという。ドイツでピアノを教えていた当時、どうしてそれが馬なのか、生徒さんに訊いてみたことがある。美しく艶やかなたてがみと、すっと伸びる長い首に足、その大きさとやさしさに惹かれるのだと、その少女ははにかみながら語ってくれた。

 とあるお店の文房具売り場を覗くと、ポニーのペンケース、ポニーの消しゴム、ポニーのパレット、ポニーの学校用リュックと、確かに、目立つ場所に置かれている“ポニーグッズ”。そこに暮らしていた当時は不思議な気持ちで客観的に眺めたものだったが、今あのコーナーに立ったならばきっと、違った視点で観察をすることとなるのだろうか。

 

 

 私は今、馬の美しさと強さに惹かれ、その馬生に関わる人々の繋がり、それぞれのドラマに感動してはまってしまっている。そんな気持ちももうすぐ半年を迎える最近、野生の馬の生態を動画に見て涙することもある。…馬が好きなのか。それともただただ、馬の生態を通じて自然や実生活、音楽現場での沢山の方々との繋がり、触れ合いを恋しく感じているのだろうか。

 

 これまでの人生でとりわけ持って来なかった“趣味”というものに、「馬をみること」を加えてみてもよいかなと、思う。

 

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【短期連載】ある音楽家の

新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、その最初期から影響を被った職業のひとつが、芸術を生業とする人たちであった。音楽、絵画、演劇……。あらゆる創作活動は極めて個人的な営みである一方で、大衆の関心を獲得することができぬ限りは生活の糧として成立し得ない。そんな根源的とも言える「矛盾」が今、コロナ禍によって白日の下に晒されている。地域密着を旨とし、独自の音楽活動を続けてきたあるピアニストもまた、この「非日常」と向き合っている。実践の日々を綴った短期連載。

プロフィール

黒田映李

愛媛県、松山市に生まれる。

愛媛県立松山東高等学校、桐朋学園大学音楽学部演奏学科ピアノ科を卒業後、渡独。ヴォルフガング・マンツ教授の下、2006年・ニュルンベルク音楽大学を首席で卒業、続いてマイスターディプロムを取得する。その後オーストリアへ渡り更なる研鑽を積み、2014年帰国。

現在は関東を拠点に、ソロの他、NHK交響楽団、読売交響楽団メンバーとの室内楽、ピアニスト・高雄有希氏とのピアノデュオ等、国内外で演奏活動を行っている。

2018年、東京文化会館にてソロリサイタルを開催。2019年よりサロンコンサートシリーズを始め、いずれも好評を博す。

故郷のまちづくり・教育に音楽で携わる活動を継続的に行っている。

日本最古の温泉がある「道後」では、一遍上人生誕地・宝厳寺にて「再建チャリティーコンサート」、「落慶記念コンサート」、子規記念博物館にて「正岡子規・夏目漱石・柳原極堂・生誕150周年」、「明治維新から150年」等、各テーマを元に、地域の方々と作り上げる企画・公演を重ねている。 

2019年秋より、愛媛・伊予観光大使。また、愛媛新聞・コラム「四季録」、土曜日の執筆を半年間担当する。

これまでにピアノを上田和子、大空佳穂里、川島伸達、山本光世、ヴォルフガング・マンツ、ゴットフリード・へメッツベルガー、クリストファー・ヒンターフ―バ―、ミラーナ・チェルニャフスカ各氏に師事。室内楽を山口裕之、藤井一興、マリアレナ・フェルナンデス、テレーザ・レオポルト各氏、歌曲伴奏をシュテファン・マティアス・ラ―デマン氏に師事。

2009-2010ロータリー国際親善奨学生、よんでん海外留学奨学生。

ホームページ http://erikuroda.com

 

 

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