【短期連載】ある音楽家の "ステイホーム" 第10回

ステイホーム~内の世界③~

「弾き籠る」生活の日常と非日常に思いを馳せる
黒田映李

 

「3、夢の記録と、心情の変化」

 

 緊急事態宣言解除から数週間たった6月中旬、不思議な夢を見た。

 

 リハーサルを終えた後、本番を弾いた記憶がないまま終演後の会場に立っていて、お客さまと演奏の余韻を共有して、お言葉を頂いている。夢の中では、この日のリサイタルプログラムを考えて構成することまで、数日前のシーンとしてしっかり行っていた。

 

 舞台袖にいるのに暗譜をしていない。

 プログラムが違っていることを告げられても、既に舞台にいる。

 

 そんな夢は、これまでも時折見ることがあった。しかし、本番の記憶がすっぽりなくなるシナリオは初めてで、終演後のシーンに虚無感と共に立っている私は、指先の使用感や体の疲労感をどうにか求めようとしている。夢の中からどこかまた、別の夢の中へ来てしまったのだろうか。リアルに移り変わる心情、罪悪感。現実世界で目覚めて続く動揺も、長く大きなものだった。

 

 本番で弾かないことがここまで数カ月続くことは、この数年、なかった。気付かない内に自分の中に負の気持ちがあるのかもしれないし、コンサート出演のキャンセルや延期の知らせは個人のみならず、音楽界全体からも日々受け取っていて、そこから抱く不安も大きいのかもしれない。

 

 心の整理整頓にJ.S.バッハの音楽を求める。

 パルティータ・第2番の楽譜を出してきて、丁寧に弾いてみた。

 

・・・・・・・・・・・・

 

 ハ短調のこの作品は、重厚な和音をかき鳴らすことで幕が明け、淡々と進行するメロディー、ニ声の厳格なフーガ、この三つの流れを辿る“シンフォニア”を第一曲に持つ。続いてアルマンド、ク―ラント、サラバンド、ロンドが置かれ、終曲にあるカプリッチョは6つの組曲を締めくくるに相応しい躍動感に満ちている。全6曲あるパルティータ作品の中でも、第2番は全体的にバランスの良い、重厚な作品であるように感じる。

 ピアニスト、マルタ・アルゲリッチが奏でるこの曲は、数ある音源の中でも特別惹かれるものがある。爽快に駆け巡る、野生的な情熱のバッハ。自ら弾き終えたタイミングで探して数年ぶりに聴いてみると、何か負の胸の内を吹き飛ばしてくれる思いがした。続けて沢山の音楽を聴きたい欲求に駆られて、数カ月ぶりにオーストリアのクラシック・ラジオチャンネルをつけた。

 

 ラジオ・シュテファンスドム

 

 オペラ「ラ・ボエーム」のミミのアリアが聴こえてくる。続けてチェコ生まれの作曲家、ヤン・ラディスラフ・ドゥシークの壮大なコンチェルトが流れてくる…

 

 こうなる前の世界では、このラジオチャンネルをよく聴いていた。しかし自粛期間に入ってからは、自分が探究したい曲の音源を探して聴いてみることはあったものの、少しのニュースを挟んで四六時中クラシック音楽が聴こえてくるこのチャンネルを流すことに、積極的な気持ちになれないでいた。

 

 ラジオ内の短いニュースの中で、EU内や一部諸国で国境封鎖が解かれる情報が読みあげられた。芸術の世界にも、自らの心にも少しずつ、音楽再開の動きが表舞台に出て広がってくるのだろうか。久しぶりに耳にするドイツ語と、冷め行くマグカップの珈琲の香りと共に、近未来を思う。

 

 

「4、音楽指針」

 

 世界四大ピアノコンクールに挙げられる中の二つ、ショパンコンクール、エリザベート王妃コンクール。双方ともに、今年の開催を一年先へ延長することを発表した。

 

 ショパンコンクールの審査委員長・ポポヴァ=ズィドロン氏は会見のコメントにて、“この一年間で芸術的レパートリーを広げること”、例えばショパンの協奏曲ならば全2曲を勉強すること等、芸術的なチャレンジを伴った勉強を推奨すると語られていた。

 また、アーティストにとって孤独は時に必要なものであり、自主的に音楽の解釈を深めることのできるこの状況は、アドバンテージと見ることもできるとも、言葉を残した。

 

 ウィーン楽友協会は、6月5日に公演の再スタートを切った。この日、楽友協会に集まったのはウィーンフィルハーモニーの団員と、ピアニストであり指揮者のダニエル・バレンボイム。そして客席には、限定100名の聴衆の方々が、間隔を空けて着席した。再開の日の演目に掲げられたのは、モーツァルトのピアノ・コンチェルト第27番と、ベートーヴェンのシンフォニー5番「運命」。「運命」は、ウィーンフィルがロックダウン前の最後の公演で演奏していた作品であったから、再会の日もプログラムに組み込まれたという。

 

 楽友協会の大ホールは「黄金のホール」と呼ばれ、現代の建築音響工学が成立する以前の設計で作られた直方体の形をしている。奏者も聴衆も間隔を取り、最小限の人数で公演再開を切ったこの日のホール内は、これまでになく音が響き渡り奏者も聴衆もすっぽり包まれて、感動的な音楽時間が流れたと報じられた。

 

 

 一方、日本国内の動きはどうなっているのだろうか。

 

 オーケストラ団体や音楽祭の運営費は、演奏会を開いた入場料で賄っているという所も多くある。公演が滞っている期間、複数団体が団体自体の存続危機にあり、クラウドファウンディングで支援を募る動きもよく見かけた。あまりに多くの団体が支援を求めざるをえない状況には、支援のとり合いとならないのかという声も上がっていたほどだ。

 芸術に対しての国の給付金や支援金の対応策は最近ようやく固まってきたが、やはりこの分野に対しての支援は、総じてゆっくりである印象は拭えないでいる。

 

 それからしばらく経って、客席を間引いて公演を再開する動きと、オンラインで無聴衆公演を放映する動き、それらを組み合わせた取り組みが見られるようになってきた。

 オンラインを含め、新しい発表の形を探すことには、支援金が出るというニュースも出てきている。

 

「秋の公演はある予定だよ。」

 

 こんな知らせを頂いたのも、ちょうどこの頃だった。

 これまで続いた演奏会キャンセルの知らせに、まだ知らせの届いていないものも「きっと行われないのだろう」という思考に陥ってしまっていた中、久しぶりのポジティブな言葉には戸惑いが先行して、しばらくしてから、喜びの感情が湧いた。

 

 “保ち続ける”

 “今後に長く残って行かないような新しいことはしない”

 “お客さまからしても、隣同志となった見知らぬ聴衆の方々と密集して座り、その音楽の振動や息遣いを共有することが本当の意味でコンサートを堪能することである”

 

 とある経営者さんが語ってくださった言葉には、共感して安堵する自分がいる。

 

 これからこのウイルスに対する薬やワクチンができるまでは、人々がその場に応じて距離を保つことに配慮する世界が続くのであろう。そんな中で芸術界保持の在り方としては、人数制限を設けた会場や、オンライン公演が置かれるのであろうと思う。

 

 この中に、私はどのように参戦していくのだろう。

 どんなポリシーを持って、何を行うのだろう。

 

 もう少しだけ悩む時間が続きそうだ。

 

 

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 第9回
【短期連載】ある音楽家の

新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、その最初期から影響を被った職業のひとつが、芸術を生業とする人たちであった。音楽、絵画、演劇……。あらゆる創作活動は極めて個人的な営みである一方で、大衆の関心を獲得することができぬ限りは生活の糧として成立し得ない。そんな根源的とも言える「矛盾」が今、コロナ禍によって白日の下に晒されている。地域密着を旨とし、独自の音楽活動を続けてきたあるピアニストもまた、この「非日常」と向き合っている。実践の日々を綴った短期連載。

プロフィール

黒田映李

愛媛県、松山市に生まれる。

愛媛県立松山東高等学校、桐朋学園大学音楽学部演奏学科ピアノ科を卒業後、渡独。ヴォルフガング・マンツ教授の下、2006年・ニュルンベルク音楽大学を首席で卒業、続いてマイスターディプロムを取得する。その後オーストリアへ渡り更なる研鑽を積み、2014年帰国。

現在は関東を拠点に、ソロの他、NHK交響楽団、読売交響楽団メンバーとの室内楽、ピアニスト・高雄有希氏とのピアノデュオ等、国内外で演奏活動を行っている。

2018年、東京文化会館にてソロリサイタルを開催。2019年よりサロンコンサートシリーズを始め、いずれも好評を博す。

故郷のまちづくり・教育に音楽で携わる活動を継続的に行っている。

日本最古の温泉がある「道後」では、一遍上人生誕地・宝厳寺にて「再建チャリティーコンサート」、「落慶記念コンサート」、子規記念博物館にて「正岡子規・夏目漱石・柳原極堂・生誕150周年」、「明治維新から150年」等、各テーマを元に、地域の方々と作り上げる企画・公演を重ねている。 

2019年秋より、愛媛・伊予観光大使。また、愛媛新聞・コラム「四季録」、土曜日の執筆を半年間担当する。

これまでにピアノを上田和子、大空佳穂里、川島伸達、山本光世、ヴォルフガング・マンツ、ゴットフリード・へメッツベルガー、クリストファー・ヒンターフ―バ―、ミラーナ・チェルニャフスカ各氏に師事。室内楽を山口裕之、藤井一興、マリアレナ・フェルナンデス、テレーザ・レオポルト各氏、歌曲伴奏をシュテファン・マティアス・ラ―デマン氏に師事。

2009-2010ロータリー国際親善奨学生、よんでん海外留学奨学生。

ホームページ http://erikuroda.com

 

 

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