フィクションの世界のなかや、古い歴史のなかにしか存在しないと思われている「魔女」。しかしその実践や精神は現代でも継承されており、私たちの生活や社会、世界の見え方を変えうる力を持っている。本連載ではアメリカ西海岸で「現代魔女術(げんだいまじょじゅつ)」を実践しはじめ、現代魔女文化を研究し、魔術の実践や儀式、執筆活動をおこなっている円香氏が、その歴史や文脈を解説する。
第2回が円香氏が魔女になったきっかけを、人類学的な文脈や実際の儀式の実践、現代魔女の成り立ちとともに紹介する。
魔女になるきっかけ
私が本格的に現代魔女術を実践し始めたのは2018年頃だ。
それ以来、日本で現代魔女術の歴史や文化の紹介をしている。
自分が魔女であることを自己紹介すると決まって「それってどういうこと?」という顔をされる。無理もない、のだけれど、別にその言外に特段の意味があるわけでもない。魔女術の実践をし、魔女の研究をしているだけである。
あるいは、そのことを伝えると「幼いころから魔女にあこがれていたんですか?」と訊かれる。
実を言うと、私は子供の頃から魔法少女のアニメをほとんど見ずに育ち、魔女にも魔法にも、占いにも、憧れどころかまったく関心を持ったことがなかった。意外に思われるかもしれないが、私はどちらかといえばそうした占いやおまじないの類に対して、嫌いとは言わないまでも、無関心に生きてきた。
そんな私が魔女という存在に関心を持つようになったのは10代後半、大学生時代のことだった。きっかけは文化人類学者の鍵谷明子先生である。
魔女になった文化人類学者との出会い
大学生だった当時、私は美術を勉強しながらも、一方で文化人類学と女性学に強い関心を持っていた。そんな折、鍵谷先生による「差別と不浄観」についての講義を受講する機会を得た。
鍵谷先生は、1981年から30年以上にわたり、インドネシアのライジュア-サブ島で魔女信仰に基づく女性文化をフィールドワーク、研究してきた。ライジュアの社会は「二重単系制社会」と言われる親族システムからなる社会で、その社会を構成する個人は母系と父系両方の集団に帰属している。先生は、島に伝わる名前を出すことも憚られるほど畏れられている魔女の伝承や、母系集団の女性たちが強力な発言権を持つライジュアの社会構造、イカットと呼ばれる手織り布を通じた姉妹と兄弟の絆など、ライジュアの地において魔女信仰と女性の力がいかに密接に結びついているかということについて研究していた。
なんでも彼女は文化人類学者としてこの島を長く調査しているうちに、図らずとも島民たちから「魔女の化身ではないか」と疑われるようになったという。この外国からやってきた女性はいつも魔女のことを我々に尋ねる、これは信仰心を試されているのではないか…というわけだ(このエピソードについては先生の著書『インドネシアの魔女』に詳しい)。
先生は講義の中で「差別の根源にはおそれがある」と話していた。
伝統社会を対象とした人類学的研究から、女性だけが出産能力を持つという事実が女性差別の根源にはあり、男性はその出産能力を脅威と捉え、嫉妬や畏怖、羨望の感情を抱きながら、それを管理・抑制する形で家父長制を成立させてきたのではないか?という説も紹介されていた。
男性優位の社会においては、男性が逆立ちをしても持つことのできない女性の出産能力に対抗すべくさまざまな仕掛けをおこなってきた。鍵谷先生は伝統社会の秘密結社や象徴的出産模倣の儀礼等の具体例を紹介して、様々な示唆が得られると話していた。女と子供が排除される秘密結社、そしてその秘密結社内で行われる儀式ではアナロジーを用いて、男性たちが血や痛みを演出し、象徴的に出産の真似事をする。月経は特別に強力な意味を持つものとされ、赤不浄は「月経中の女性」を宗教的・儀礼的に「不浄な存在」と見なし、月経にまつわる女性の身体性を制御し排除する家父長的構造の一部として機能してきた。人間社会にはこのような女性の身体を不浄と扱い、おそれを抱いて排除する仕掛けが存在する。その最たるものが「魔女」というレッテル貼りであり「赤不浄の習俗」だと先生は言った。
この授業が、私と魔女との最初の重要な接点となる。魔女という概念が、私が関心を抱いていた女性学と人類学と繋がったのである。後になって気が付くことだが、1940年代にはじまった現代魔女運動は文化人類学や民俗学の研究に大きな影響を受けている。
なにより、魔女が自分と関係のない遠い世界の過去の事やおとぎ話の中の話ではなく、社会構造や性差別、霊性といった複雑な要素が絡み合った存在であることを知り、人生ではじめて魔女という言葉に関心を持った。
もっとも、文化人類学の授業を受けていた頃の私は、まだ魔術や占い、魔女の実践に直接関わろうという意図は全くなかった。私が実践に踏み出してしまうのは、それから7年ほど後の話である。しかし、この授業で学んだ視点が、後に現代魔女の世界に足を踏み入れた際、私が魔女について何かを考える上での知的基盤となったことは間違いない。
ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』とスパイラルダンス
私にとってもう一つの重要な経験となったのは、この時期にダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』を読んだことだった。このエッセイは1985年に『社会主義評論』に掲載され、広く「女性」という概念自体を再考するきっかけを提供し、第三波フェミニズムに影響を与えた。
『サイボーグ宣言』においてハラウェイは、現代の人間は技術と一体化した「サイボーグ」であるとし、従来のカテゴリーや二項対立的思考を問い直す可能性を探っている。
彼女の考えにおいては、女性は本質的にひとつのカテゴリーをなすものではない。彼女が重視したのはアイデンティティではなく〈アフィニティ=親和力〉によるつながりを作っていくことであり、女や人種、自然といった既存のカテゴリーに縛られない存在である「サイボーグ」が、そのアフィニティのありうべき主体として語られていた。
キメラのように自然と技術が不純に絡まり合ったサイボーグという考えは、私に新たな視点をもたらしてくれた。ハラウェイは科学技術の発展が社会や私たちの身体の在り方と切っても切り離せないほど絡まりあっていることを強調すると同時に、人間例外主義的な世界観を批判している。
そのなかで彼女は、サイボーグを「アイロニカルな神話」として描き、SF小説のようなフィクションを使った実践をおこなっているのだが、とりわけ私の印象に残ったのは彼女が唐突に女神や魔女について語っていたことだ。ハラウェイは欧米の反核運動「リヴァモア・アクション・グループ」に言及し、そこに関わった魔女たちについて触れた。そして、結びにはこう宣言する。
どちらもスパイラルダンスのなかに拘束されてはいるものの、わたしは(どちらかというと)女神よりはサイボーグでありたい。
ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』
私はこの時点でスパイラルダンスという言葉を知らなかった。後にわかったことだが、現代の魔女達が踊るダンスのことである。このダンスは最盛期には千人規模で行われており、チャントを唄いながら全員が手を繋ぎ、渦巻のような動きをするダンスとして知られている。また、この魔女達のダンスは欧米の政治的な運動、特に反核運動の中で踊られてきたものでもあった。このテキストに触れた体験は私の心に引っ掛かり続けた。
そこから約7年が経過し、20代半ばになった頃、映像やVRをはじめとした芸術の分野で活動していたその当時の私は、ふとしたきっかけで魔術に関心を持ち、様々な魔術の本を読み、西洋占星術、タロット、易、四柱推命など複数の占術を学んでいた。もっとも、いきなり超自然的な現象に関心が芽生えたというわけではなく、占術の持つストーリーテリングの手法や、占いのなかで人の心がどのように変化していくのかということに関心を持っていた。魔術的実践は、私の芸術に関わる想像力を強く刺激した。
そんな中、偶然に、ある意味では必然に、現代魔女の世界の著名人スターホークの著作『聖魔女術(スパイラルダンス)』を読んだのだ。これは本当に衝撃的な読書体験で、自分が長い間探していたものに出会ったと感じた。
ロサンゼルスへ
2018年の夏、私はロサンゼルスに留学した。南カリフォルニア大学で一年間VRの滞在研究を行う機会を得たのだ。
私が最初に多くの現代魔女たちと出会ったのは、この留学でロサンゼルスやサンフランシスコに滞在していたときだった。ふとしたきっかけで私はロサンゼルスの魔女のお店を訪れた。魔女のお店には儀式の道具、蝋燭、占星術や魔術の書籍、タロットカードからローブ、箒、ハーブまで様々な物が売っている。壁には緑色の草に顔を覆われた男「グリーンマン」が飾ってあり、様々な神々のブロンズ像が置いてある。お母さんと一緒にタロットカードを買う中学生くらいの子がレジ係に質問をしながら会計をしていた。
毎日が晴れで強い日差しを浴びるカリフォルニアではみんなサングラスをしていて、露出が激しく、タトゥーを沢山いれた様々な年齢の魔女の人々が部屋に集まってくる。お店の奥で儀式が始まるのを待つ人々は20代から60代までと幅広い。大きな祭壇があり、狐の毛皮のようなものも置いてあるが触ってはいけない気がしたので遠くから眺めていた。
儀式の時間がやってきた。そこに現れたのは黒いローブを着て腰にナイフをぶら下げた集団だった。彼らは太鼓を叩き、瞑想を誘導し、女神ヘカテの詩を歌い、私たちをお店の外に案内して儀式をリードしていった。私たちは箒をくぐって儀式の会場に足を踏み入れた。その時の私はすでに現代魔女に関する本を何冊か読んでいたが、実際の魔女の儀式に参加したのは初めてだった。その儀式が行われたのは満月の夜で、40人くらいの人たちが野外で大きな火を焚いていた。儀式の後にはポトラック・パーティが開催されていた。この時に抱いた「不思議な気持ち」は忘れられない。その後、私はそのお店に毎月通うようになり、そこで多くの魔女達と出会った。
アメリカの西海岸にはとても多くの魔女がいる。ロングビーチでは「ペイガンプライド」というペイガンや魔女達が集まる大きなイベントが開催されていて、数百人が参加していた。公開儀式がタイムテーブルで行われており、様々なカヴンや流派が野外で数十人規模の参加型の儀式を行っていた。多くの出店があり、魔術の道具やハーブ、マンドラゴラなどの不思議な植物も売っていた。テントでは様々な魔術や占星術、太極拳に関するワークショップ等が行われ、盛り上がっていた。本屋さんには沢山の現代魔女の本が並び、可愛いイラストなどのついた初学者向けの多くの本も山のように出版されていた。その雰囲気は、現代魔女文化に先行してイギリスの魔術師たちを中心に隆盛した「儀式魔術」文化のそれとは、だいぶ違うものなのだった。
すでにその時、私はこの文化に深く魅了されていた。しかし、まだ決定的ではなかった。私に「魔女になる」ことを本格的に決意させた契機、それは他でもない「スパイラルダンス」への参加だった。
スパイラルダンス
ソーウィンの日、私はサンフランシスコでスターホークらが主催する儀式に参加する稀有な機会を得た。会場は荘厳な雰囲気に包まれ、多くの祭壇が設えられていた。そこには多くの写真や手紙、詩が飾られ、それらが亡き人々や先祖たちの存在を静かに物語っていた。ケルトの暦に基づくソーウィンとは魔女たちにとってのお正月であり、同時にお盆でもある。この日、生者と死者の世界を隔てるベールが薄くなり、向こう側の人々とこちら側の世界が束の間繋がり、共に時を過ごすのだ。
丁寧に言葉が述べられ、サークルが作られ、エレメントの呼び出しやチャントの詠唱が厳かに執り行われた。丁寧なセッティングの中で儀式は最高潮を迎える。スパイラルダンスだ。皆と同じように私は隣にいた人の手を握る。一匹の大蛇が渦を巻くように、参加者たちは円を描いて回転し始める。踊りながら、目の前を次々と通り過ぎていく人々の表情が、まるで走馬灯のように私の網膜に焼き付いていく。溶けてゆく輪郭を感じながら、私たちは繰り返されるチャントを口ずさみ続けた。
空間そのものが力強い高揚感に包まれていた。恍惚感と体感が私たちを包み込み、誰一人として手を離すことなどできない緊張感があった。自分とダンスを踊る数百人の人々が一つの大きな流れとなり、たまに引っ張られたり、たまに左右に引き裂かれそうになるが、強くお互いの手を掴んで踏ん張る。お互いの境界線が曖昧になっていく。まるで私たち全体がひとつの大きな波として海原を波打っているかのような感覚だった。
この体験を機に、私は現代魔女の世界へと深く足を踏み入れていった。魔女たちの踊るスパイラルダンスは、私の人生を大きく震わせ、不可逆的に変えてしまった。
そもそも現代魔女とはなにか
ここまでだいぶ特殊な経験について書いたが、これがあるひとりのアジア人が現代魔女になった経緯だ。
私が出会った「現代魔女」とは何だろうか。一言で言えば、現代魔女運動とは、自らを「魔女である」と標榜する人々による運動である。「私は魔女だ」というその宣言は、多くの人々を戸惑わせるかもしれない。魔女は物語のなかの存在だと思われているし、現代の魔女のイメージはステレオタイプの魔女のイメージ―三角帽子の老婆や邪悪な存在―とは大きく異なるからだ。さらに、キリスト教が国家の基盤にあるアメリカ合衆国やヨーロッパの国々ではその標榜はあまりにも挑発的すぎるのもある。アンチキリストだと考えられても不思議はない。事実、彼らは50年代に公の場に登場した時からスキャンダラスに扱われ、タブロイド紙に追いかけられ、多くの嫌がらせをうけてきた。この理由から、現代魔女たちの多くは悪魔崇拝者と混同されることを嫌う傾向がある。
現代魔女は、その言葉の過激なイメージとは裏腹に、多くは非常に牧歌的な吟遊詩人たちだ。1940年代に誕生した現代のペイガン運動の一部として、彼らはそれぞれが独自に、時に連帯しながら、宗教的・霊的・文化的実践を行ってきた。モダンペイガンは、西洋社会において長らく支配的であったキリスト教に代わる、新たな霊性の探求を目指すオルタナティブな霊性運動である。その背景には産業革命以降の近代化がもたらした自然との乖離や、既存の宗教体系への懐疑がある。その上でモダンペイガンたちが試みているのが、古代の多神教や自然崇拝の伝統、アニミズムを現代的に解釈し、再構築することだ。
現代魔女たちも、キリスト教以前の多神教、自然崇拝、アニミズムなどを信仰し、魔術や儀式を行う。彼らは、年に4回もしくは8回の「サバト」と呼ばれる月や太陽のサイクルに基づいた祝祭を行い、古代の異教信仰や民間伝承を現代的に解釈し、再構築した実践を行っている。儀式では神々やスピリット、祖先らとワークを行い、スペル(呪文)を通じて魔術を行っていくのだが、これは一般にフリーメイソンを連想させる言葉「クラフト」と呼ばれる。彼らの実践には儀式魔術の伝統も取り込まれている。
元々、現代魔女文化の中で最も影響力があったウイッカは魔女の「宗教」だった。しかし、全ての現代魔女がウイッカであるわけではない。現代魔女の中には現代魔女術を単に「技術」であると捉えるものもいれば、「スピリチュアルな実践」、あるいは生き方の「道」のようなものとして表現する場合もあり、文化のとらえ方自体も流派や魔女によって異なる。
こうした実践はかつて現代魔女復興運動という言葉で表現されていた。その言葉の通り、20世紀に過去の様々な民間伝承や神話、当時の文化人類学から得た知見、要素を接ぎ木することで生まれた古くて新しい実践である。しかし、研究が進んでいくなかで単に古代にあった信仰や儀式をそのまま復興したものではないことがわかっている。これは現代魔女が、その始祖の一人であるジェラルド・ガードナーのような特定の人物によってでっちあげられたもの、というわけではない。むしろ、多くの現代魔女たちによって編まれた、新しくリクリエイトされた宗教、霊的実践だ。
「魔女」という言葉は多義的だ。この言葉は本来、共同体の「外部」に位置づけられた者たち、すなわち「私たちの仲間ではない者」「反社会的な存在」「社会転覆を目論む邪悪な存在」「逆さまのことを行う不自然な奴ら」に対して投げかけられた侮蔑語であった。それは排除と蔑視の言葉であり、同時に恐れの対象を指し示す言葉でもあった。
しかし、その一方で「魔女」という言葉は、19世紀以降、ロマン主義の影響を受けながら実に多様に解釈され、夢と想像力を掻き立てる存在としても機能してきた。それは幻想的な存在であり、自由や欲望をもつ女性の象徴であり、さらには反抗や解放の象徴ともなった。
現代魔女は「魔女」という言葉が持つ力と挑戦性を積極的に取り入れることで、長らく抑圧と迫害の対象であったその称号を、自己解放と社会変革の象徴として再定義したのである。
「魔女という言葉にはわれらの過去の一部がつまっている。それを忘れて放棄するのは危険だろう」
「わたしは魔女という言葉が好きだ・・・・・・鋭さがあるから」
「わたしがこの言葉を使うのは、力を持つ女性を語っているからだ。女性に力を付与する言葉はほかにほとんどない」。
「わたしの女性としての、ワイルドで自由で強力な自己を強調してくれる」
「自分を魔女と呼んだ瞬間が、わたしの人生で最も魔術的な瞬間だった」
「どのみち魔女と呼ばれるのだから、プライドを持って自ら名乗るほうがいいだろう」
『月神降臨』1985年質問状
現代魔女について取材してきたジャーナリスト、マーゴット・アドラーの著書『月神降臨(Drawing Down the Moon)』では1985年にペイガンたちに質問状を配り、195通の回答を得た結果の一部を読むことができる。現代の魔女たちによれば、多くの人々が「魔女」という言葉を使う理由は、その言葉の挑戦的な性質にある。現代魔女の世界には「恐れは力だ」という有名な言葉がある。彼女たちは、まさにその言葉が示すように、魔女やウイッチクラフトという言葉から人々が不安を抱く気持ちを逆手に取っているのである。また、本来社会転覆を目論む邪悪な意味を持つ「魔女」は、「現代魔女」の文化の中で意味をずらし、社会の規範に挑戦し、人間と人間でないものの境界を跨ぎ、自然との深いつながりを持ち、世界に手を加えることができる技術を持つ存在として再定義されている。
とはいえ、こうした説明だけでは現代の魔女たちのイメージはまだ具体的な像を結ばないかもしれない。今日の彼らは言うなれば吟遊詩人的な存在だ。彼らは歌を歌い、神話を愛し、詩を愛し、アートを生み出す。彼らは神々に祈る芸術家であり、地球に基づくスピリチュアリティを実践する。彼らは野外で共に瞑想し、火を囲んで踊り、感情が大きく揺さぶられる経験を共有する。特定の聖地や絶対的なグルや経典といった権威が存在しないため、コミュニティは分散しており、それぞれが地域、あるいは流派ごとに、小さなグループを作っている。
その上で現代魔女たちには彼らを「現代魔女」たらしめている、いくつかの要素がある。
魔女の信経
現代魔女術の大きな特徴のひとつは、神が定めた法、例えば原罪や救済の概念を否定していることだろう。彼らは輪廻転生を信じているが死後の世界に対しては楽観的だ。カルマをことさらに強調することもなく、従来の宗教よりも個人の自由が重視され、ほかの宗教や考え方に対しても多元主義の立場をとることが多い。
魔女の信条として最も有名な一節はこの文章である。
《魔女の信経》は八つの言葉で足りる
誰も害さない限り、あなたの望むことをなせ。
ドリーン・ヴァリアンテ『魔女の聖典』
これはウイッカン・リードもしくは、魔女のクレド(信経)と呼ばれている(ただし、ウイッカ以外の魔女は必ずしもこれに準じた信条を持っているわけではない)。
現代魔女には聖書のような経典が存在せず、ドグマも存在しないので、様々な考えが接ぎ木されパッチワークのように知識や実践が編まれているのも特徴である。ウイッカにはヌーディズムや性に対する大らかな態度、女司祭が司祭と少なくとも同等の地位で儀式をリードすることなど、一神教から見ればかなり急進的な要素が多数含まれていた。そのため、現代魔女術は一神教の支配的な西洋社会において、オルタナティヴなスピリチュアリティを提示するものとして受け止められた。あるいはこの運動を、従来の一神教やキリスト教が支える社会構造に対する挑戦としても理解できるだろう。
現代魔女たちの霊的実践は、自然環境、例えば木や水、大地、炎の中に内在的な神性を見出す。これは超越的な父なる神や宗教組織内での女性蔑視、抑圧的なドグマに疑問を投げかけるものだ。ダンスを通した肉体や自然の賛美、変性意識を使用して直接神々と交流しようとするシャーマニックな実践は、欧米の抑圧的な一神教へのカウンターカルチャーとなって広まることとなった。
社会運動との接続
現代魔女文化の端緒は英国にある。現代魔女文化の中でも最も大きな影響力を持つ宗派「ウイッカ」は英国で生まれた。ウイッカは書籍によって広まり始め、60年代には実践者がアメリカへと渡り、各地にカヴンが生まれ始める。この文化は1960年代後半から70年代にかけての社会変革の波と共鳴し、急速にアメリカ国内に広がっていった。キリスト教と家父長制の結びつきを批判したフェミニスト神学の流れは、女神信仰を女性のエンパワーメントの象徴として取り入れた。80年代には自然との調和を目指して、反核運動や環境運動に積極的に関わる現代魔女も多く現れた。こうしてもともとは「豊穣の宗教」として考えられてきたウイッカは、アメリカにわたったことによって、80年代ごろから「自然宗教」としての側面を強めていく。これは現代魔女史におけるとても大きな変化である。
女神崇拝とエコロジー運動、フェミニズムの邂逅によって生じたこの流れを「エコロジカル・フェミニズム」の運動として見るむきもある。また、アメリカ西海岸の現代魔女の特徴としては、一神教世界の中で居場所がなかったクィアのウィッチクラフトが大きく発達したということが挙げられる。レズビアン、ゲイ、トランス、ノンバイナリ―の魔女達は英国伝統派ウイッカとは別に、西海岸の地においてそれぞれの流派や実践を編み出すようになっていた。
また、現代魔女たちの歴史観は魔女狩りの被害者を異教の宗教の実践者や賢女と見立てる点など、多くの点で、実際の歴史家の魔女狩りの歴史と異なっていた。しかし、現代のペイガン/魔女たちには、内部から詳細に自分たちの文化を精査する自己批判の文化もある。初期の代表的な著者がエイダン・ケリーとマーゴット・アドラーだ。彼らは現代魔女文化において語られていた歴史認識や魔女解釈を、緻密に、時に批判的に検証し、ウイッカがどこからやってきたのかを詳細に研究した。その結果、現代の魔女たちがとらえる魔女の歴史に関しても、時代を経ることに必要な軌道修正や新たな接ぎ木が行われていった。そして元々のウイッカ神話は象徴的な神話と考えられるようになっていった。これについては後の回で詳しく解説する。
こうした過程を経て、今日の彼らは必ずしも近代の魔女狩りの犠牲者たちとの直接的な実践のつながりを主張するわけではなくなっているが、現在もフェミニスト魔女の一部は「自分たちはお前たちの殺し損ねた魔女の孫娘」であるというニュアンスを自身の定義に含ませている場合もある。これは被害者の8割以上が女性であった歴史的な大虐殺、魔女狩りを女性に対する迫害と捉える立場から、過去に「魔女」として殺されてしまった女性たちへの連帯を示し、自分たちは生き延び、声を上げる存在だと表明する女性解放のスローガンだ。
しかし、私たちのような現代魔女が魔女狩りという残虐な悲劇の被害者の声を代弁することが可能なのか?そもそも、魔女狩りで殺された人々は魔女だと言えるのか?といった疑問は尽きない。歴史上の魔女狩りで「魔女」と名指され、殺されてしまった人々は決して魔女術を行った人々ではなかった。彼らは他者を傷つけるような害悪魔術を行った人々ではなく、大半が身寄りがなかったゆえに社会のスケープゴートにされた孤独な人々だったということは、今日の歴史研究において明らかになっている。つまり、私たちがまずしなければならないのは彼女たちの名誉挽回なのだ。こうした歴史上の「魔女」として殺された人々と私たち現代魔女とのあるべき関係性については追ってまた触れる。
いずれにしても、こうして現代魔女の実践は、単なるスピリチュアルな実践を超えて、政治的な活動としての側面を持ちながら、様々に枝分かれしていった。現代魔女にはアナーキスト的な思考があり、それぞれの考えや生き方を尊重し、他人のやり方に干渉しない傾向がある。過去には魔女間の考え方の違いから激しい論争があったのだが、結果的には棲み分けて、魔女によりばらばらの考えを持っている。大局的に見ると、大地と調和のとれた生き方を志す点や内在的な神性を重視する点は共通しているだろう。それと同時に彼らは魔女狩りという虐殺に対して、明らかに不正義が行われ、不当な扱いであったという認識を共有し、魔女狩りの被害者に着せられた汚名を払おうとしている。
近年では学問の領域でもモダンペイガンや現代魔女は研究が進んでおり、ロナルド・ハットンをはじめとする多くの研究者が現代魔女文化について調査している。しかし、もともと現代魔女たちのコミュニティには閉鎖的な傾向があるため、外部からその文化をよく知ることはなかなか難しい。また、現代魔女文化の核心はやはりその儀式と実践であり、その本質についてきちんと知るためには、やはり自らもまた儀式に参加し、魔女術を実践しなければ難しい。魔女術の実践には秘密とされていることや、参加者のプライバシーに関わってしまうようなことも多い。
次回以降では私自身が魔女術の実践とその経験を通じて得たものについて、私に書けることのみを書いていこうと思う。
(次回へつづく)
参考文献
鍵谷明子『インドネシアの魔女』(学生社、1996年)
スターホーク『聖魔女術 スパイラル・ダンス』(鏡リュウジ+北川達夫訳、秋端 勉 監修、国書刊行会、1994年)
マーガレット・マレー『魔女の神』(西村稔訳、人文書院、1995年)
ドリーン・ヴァリアンテ『魔女の聖典』(秋端 勉 訳、国書刊行会、1995年)
ジャネット ファーラー『サバトの秘儀』(ヘイズ中村訳、秋端 勉 監修、国書刊行会、1997年)
マーゴット・アドラー『月神降臨』(江口之隆訳、秋端 勉 監修、国書刊行会、2003年)
エイダン・A・ケリー『Inventing Witchcraft: A Case Study in the Creation of a New Religion』(Thoth Publications、2008年)
ロナルド・ハットン『The Triumph of the Moon: A History of Modern Pagan Witchcraft』(Oxford University Press、1999年)
ロナルド・ハットン『The Witch: A History of Fear, from Ancient Times to the Present』(Yale University Press、2017年)
ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ——自然の再発明』(高橋さきの訳、青土社、2000年)
ダナ・ハラウェイ、サミュエル・ディレイニー、ジェシカ・アマンダ・サーモンスン『サイボーグ・フェミニズム 増補版』(巽孝之編、巽孝之・小谷真理訳、水声社、2001年)
まどかしとね「魔女と蜘蛛とサイボーグ」(ZOZO Fashion Tech News、2023年)
まどかしとね「サイボーグ魔女宣言」(BCCKS、2024年)

フィクションの世界のなかや、古い歴史のなかにしか存在しないと思われている「魔女」。しかしその実践や精神は現代でも継承されており、私たちの生活や社会、世界の見え方を変えうる力を持っている。本連載ではアメリカ西海岸で「現代魔女術(げんだいまじょじゅつ)」を実践しはじめ、現代魔女文化を研究し、魔術の実践や儀式、執筆活動をおこなっている円香氏が、その歴史や文脈を解説する。
プロフィール

まどか
現代魔女。アーティスト。留学先のLAでスターホークの共同設立したリクレイミングの魔女達に出会い、クラフトを本格的に学びはじめる。現在はモダンウィッチクラフトの歴史や文化を日本に紹介している。未来魔女会議主宰。『文藝』『エトセトラ』『ムー』『Vogue』『WIRED』などに現代魔女に関するインタビューや記事を掲載。2023年から逆卷しとねとキメラ化し、まどかしとね名義でZINE『サイボーグ魔女宣言』を発売。笠間書院にて『Hello Witches! ! ~21世紀の魔女たちと~』を連載中。