『アメトーーク!』で展開された西成高校への偏見と差別
「じゃあ、今日の動画、観るよー」と中村の声かけで、教室のカーテンが閉められる。
2019年2月14日放送の「アメトーーク!〜高校中退芸人〜」。ここに、西成高校を中退した女性芸人が登場した。
「行ってたところが、西成高校で……」
「ヤンチャな子が多くて、机と椅子が鉄パイプでくっついていて」
この発言の後、テレビ画面には机と椅子が金属で固定されているイメージ図が映る。
「窓ガラスも破られんように、プラスチックのゴムになっていて」
「トイレットペーパーも盗まれるから、職員室に取りに行かないと」
「9クラスあったけど、卒業時は5クラスに」
語られるエピソードごとにイメージ図が入り、「不良生徒の対策」などのテロップが付く。
MCの宮迫がさっと分け入る。
「大阪の人はわかるけど、西成は、僕らの学生の頃にそっち方面は行かんとこうって、みんなで言うてましたね」
千鳥・大悟も便乗する。
「道歩いていた時、道できれいな10円を12円で売っていたおっさん、おったよ」
動画が終わり、教室が明るくなるや、女子生徒が声を上げる。
「西成だけやん、高校名、出してんの」
中村が問いかける。
「本当にそうやね。どう思う? 知らない人がこれ、見たら?」
「行きたくない」と男子。「誤解される」との声も。
中村がエピソード一つ一つに踏み込んでいく。
「机と椅子がくっついていたって、どう思う? やばいと思うよね。でもこれは当時の大阪府の高校、全部、そうだった。西成だけみたいな言い方やよね」
当時、“荒れる高校”に悩まされた府教委の苦肉の策だったのか。
「窓が全部、プラスチックのゴムのわけないやん。補強するために、一部はそうなっていたかもしれないけど」
「話、盛ってるやん」と生徒。
トイレットペーパーも職員室で管理していたのは盗まれるためではなく、悪戯防止のため。卒業時に4クラスも消滅するなんてあり得ない。テレビで披露されたエピソードの一つ一つがいかに事実と違うのかを丁寧に説明する。そして、中村は問いかける。
「大阪の人はわかってるけど、そっち方面に行かんことってどう?」
「なんで、西成だけ出すんやろ」と男子の声をきっかけに、教室から声が上がる。
「全部、めっちゃ、話、盛ってんとちゃうか」
「名誉毀損やな」
憤りなのか、悔しさなのか、重い空気を肌に感じる。中村がさらに問う。
「みんな、西成やからっていう経験ない?」
すぐに複数から声が上がる。女子生徒が話し出す。
「ある。道頓堀のグリコ下でタムロしてた時、制服着てたから、『うわっ、西成や』って」
「それで、どうしたん?」
「無視。大人の対応した。けど、あれ、すごいやばかったよね」
この日、生徒たちが書いた感想は一様に、テレビ番組への批判と悔しさに満ちていた。
「西成高校は今、こんなに成長しているのに、こうやってバカにされると、僕は今、気分がとても悪いです。今まで僕も友達に、西成高校って言っただけでバカにされたことはいっぱいあります。でも、自分は西成高校がよかったから別にいいです。テレビ番組に一言、言いたいです。今の西成、見ろ!」
「西成高校ってワードだけで、あることないことを地上波で流したり、西成高校の人だから、西成に住んでいるからとか、ほんま、要らんと思う。制服で遊んでて、『うわっ、西成や』って言われた」
「私は生まれてからずっと西成に住んでいて、高校を聞かれて『あー……』と、とても嫌そうな顔をされることもありました。確かに西成には酔っ払って大声を出す人もいたりするけれど、人としてとても良い人が多いし、何かあった時に守ってくれる人情にあふれた楽しくてあたたかなところなので、こんな言い方をされるのは気分が悪くなりました」
多かれ少なかれ、生徒たちが理不尽な視線を浴びている日常が、感想から浮き彫りになって行く。西成や西成高校についてよく知らない人たちが勝手な決めつけと偏見で、平気で差別的言辞を高校生に投げつける。動画を見たことによって、愚弄や揶揄の対象とされていた悔しさを生徒たちはどんどん発信して行く。
差別を隠す、オブラートにくるみ見えないようにと「配慮」をする学校もあるかもしれない。あるいは上から「これは差別だ!」と、不当さを教え込む教育現場もあるかもしれない。
西成高校はどちらにも与しない。敢えて番組を見せることで、この社会に厳然とある「西成差別」を直視させる。その上で、当事者である生徒たちの心に何が生まれるのか。その怒りや悔しさは真っ当なものであることを、生徒たちは学ぶ。
「差別をする方がおかしいやろ」
自分達を取り囲む社会の問題に、「主体的に」気づいていくことが反貧困学習の大きな目的だとしたら、1年5組の生徒たちはまさに、そうした主体になっていた。
一方、教員たちは吐露された一人一人の言葉から生徒の現実を知り、寄り添って行こうとする。これが西成高校の「反貧困学習」なのだ。