ある日、いきなり大腸がんと診断され、オストメイトになった39歳のライターが綴る日々。笑いながら泣けて、泣きながら学べる新感覚の闘病エッセイ。
朝の5時に、汚物にまみれてベッドに放置されている。これは病院の対応が悪いのではなく、人手の足りない時間帯に、わたしが自分にぶっ刺さっている5本のチューブのうち、お尻から伸びる1本が抜けかかっているのを興味本位で引っ張ってしまった自業自得の結果である。
「かわむらさんごめんね、あと30分待って」
「はい、本当にすみません……」
わたしは今、それなりに露出度の高い格好でベッドに横たわっているが、そこに色気やエロといった要素は微塵もない。もし鏡があれば、ボケーっと介護を待つ情けない中年の姿が映るだけだろう。
病人は、往々にしてみっともない。院内を行き交う人を見て、窓ガラスに映る自分を見て、そう思う。みんなだいたい猫背で、パジャマやスウェットでよたよたと歩き回るし、髪はボサボサそしてペタペタだ。しかもおまけに、なんだか臭い。わたしなんて入院してから1週間が経つが、チューブだらけの身体のせいで、ただの1度もシャワーを浴びられていない。頭がかゆい、かゆすぎる。しかし、それは致し方ないというか、急性期病院の入院病棟では当然のことだろう。今ここで優先されるべきは生命の維持であり、見た目の美しさはそれと関連しないからだ。
わたしが入院しているこの病院は、急性期病院というらしい。それは病院名ではなくて、いわゆるカテゴリのようなもの。日本の病院は急性期病院、回復期病院、慢性期病院の3種類に大別されるようで、それぞれの病院が有する機能や目的は、名称から想像できるものからかけ離れていない。急性期病院にいる人は、みんな違って、みんなやばい。あまり考えたくはないけれど、退院できなかった人だって決して少なくはないだろう。
そんな場所において、ただ生きられる以上に尊いことがあるだろうか。見た目がなんだ。臭いがなんだ。化粧品だの服だの、これまで自分がいかに些末な事柄に興味関心を抱き、注意を払い、時間や金銭をあてがっていたのか、その愚かさに対してある種の愛しさすら覚えてしまう。まつ毛の束感がうまく出せたところで、イエベ、ブルベがわかったところで、生存率はこれっぽっちも上がらない。
それでも、今、願いがひとつ叶うのなら、わたしは化粧をして、好きな服を着て、背すじを伸ばして、香水をつけて、街を闊歩したい。新宿の伊勢丹本店に行きたい。実のところ、ずっと伊勢丹のことばかり考えている。資生堂が誇る最高級ライン、クレ・ド・ポー ボーテのパウダーをタッチアップして、大好きなBYREDOで香水を買いたい。まつ毛だってできるだけいい感じに上げたいし、わたしはこれでもブルベ冬だ。
昨日は朝から夕方まで本当に体調が悪くて、嘔吐を重ね、もう楽になりたいと思いながらも、伊勢丹の高揚感を伴う空気が心から恋しかった。まあ、たぶんわたしの願いはwishではなくhopeの類で、あと2週間も経てばきっと難なく叶うだろう(化粧品や香水を買う財力が残されているのかはさておき……)。ただし、そのあたりでがんのステージが判明して、それに応じた抗がん剤治療が始まる段取りになっている。治療の苦しみは、今のわたしにはまだわからない。
何もわからない。自分のステージも、これからどうなるのかも、一体いつまで生きられるのかも。気を抜くと涙がにじむ。けれど、わたしは退院して、そして伊勢丹へ行く。何も買えなくたっていい。急性期病院を出て、些末でちっぽけな日常に戻る。わたしは着飾ることに希望を見る自分をくだらないとは思わない。くだらなくてたまるものか。
ようやく小康を得た昨晩、洗顔シートで顔を拭いて、化粧水をつけて、乳液をつけて、ワセリンを塗った。気休めでも構わない。わたしがやりたいから、やる。左隣のベッドのおばあちゃんが「おーい、トイレだよ〜」と看護師さんを呼んでいる。外はまだほの暗い。汚物にまみれても、みっともなくても、まだ負けない。
(毎週金曜更新♡次回は10月18日公開)
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写真は、昨年12月に行ったフィンランドの地下鉄にて。滞在中に高熱が出て、9日間の旅程の半分ほどは一人っきりでホテルで寝込んでいたのだった。思えば、昨年末からずっとツイていない。もっと言えば、ここ2年ほどふらふらと低空飛行し続けているような気もする。
ある日、いきなり大腸がんと診断され、オストメイトになった39歳のライターが綴る日々。笑いながら泣けて、泣きながら学べる新感覚の闘病エッセイ。
プロフィール
ライター
1985年生、都内在住。2024年5月にステージⅢcの大腸がん(S状結腸がん)が判明し、現在は標準治療にて抗がん剤治療中。また、一時的ストーマを有するオストメイトとして生活している。日本酒と寿司とマクドナルドのポテトが好き。早くこのあたりに著書を書き連ねたい。