手探りで始めた、大阪での活動
「実は金銭的なことで生活が立ち行かなくなって……37歳の時に仕事も辞めて、友人たちとの連絡も絶ってしまったんです。宮地たちには不義理なことをしました」
37.3度を記録する猛暑日だった。早々にアイスコーヒーを飲み干した彼は、水が入ったグラスを手に取りながら淡々と質問に答えてくれた。エネルギッシュで饒舌な人柄を勝手に想像していたが、語り口は柔らかく、穏やかな印象を受けた。大久保さんは、運動から離れたことを仲間に申し訳なく感じているようだった。仕事の事情で岐阜に移ったのは、15年ほど前だという。
聞きたかったことは、大阪被爆二世の会をつくった理由だった。交流会での発言にもあった通り、大久保さんは18歳まで広島で暮らし、大阪に移り住んだ。入学した年に、原爆映画の上映会で被爆二世の青年に出会ったそうだ。
「とにかく同じ被爆二世を探して、何か会をつくろうということで動き出しました。2人じゃ何もできへんから、という理由ですね。国に医療保障を求めるとか、そんな目的は特になかったですよ。何もわからない、手探り状態でした」
部落解放運動や障害者問題に取り組むグループなど、あらゆる社会活動を入り口にして被爆二世とつながっていった。人づてに被爆二世を探して、会に参加するよう呼びかけたのである。準備会の結成集会には、約50人が集まった。
「時間がない、お金がない。運動を続けていく大変さは、これに尽きました」。それでも金銭的な問題で生活が立ち行かなくなるまで23年もの間、運動を続けた。その中で深めてきたのは、被爆二世やその後の世代に対する補償が必要だという考えだ。会が1975年に発行した機関紙『「被爆二世」 創刊号』(大阪被爆二世の会(準))の中で、大久保さんは被爆二世4万7755人のうち18.8%が肝障害などの「大病」を患っていたこと(広島県・市が実施した調査、1974年発表)に触れ、次のように綴っている。
《「二世問題には触れないで!」「そっとしておいてほしい。」「健康・実態調査?。差別を拡大するつもりか!」健康や、就職・結婚差別などの恐れから出るこれらの言葉は、痛い程私の胸に響いてくる。しかし、我々は黙っている事は出来ない。不健康であれば、その補償を! 安心して働ける職場を!(中略)黙って、不安と恐怖の中で生きていくことは堪えられない》
広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。