「被爆二世からは逃げられない」 普遍的な課題と向き合うためにも
宮地さんも大阪の地から、再び運動と関わり始めた。前編で紹介した「被爆二世訴訟」にも原告として加わっている。長崎地裁、そして福岡高裁で、援護を受ける権利を訴えた原告側の主張が退けられたが、2024年3月、最高裁へ上告した。
宮地さんの1つ年下の弟は、2019年に63才で他界。大学生の時に1カ月続いた40度の高熱に苦しみ、就職後も体力が続かず苦労した。宮地さんが郷里を離れた一方、両親を近くで支えてくれた「恩人」だったが、最期は脳腫瘍に侵された。「弟のことを考えると、遺伝的影響を連想してしまうのは確かです。考えざるを得ない」
被爆二世への遺伝的影響はあるはずだ。そう確信する一方で、「影響の程度は、一人ひとりによって異なるのではないでしょうか」と推察する。
人が病気を患う要因はたくさんある。加齢やウイルス、飲酒や喫煙といった生活習慣、本人が育った環境にも影響を受けるだろう。被爆二世の場合は、数々の要因が考えられる中で、親の被爆による遺伝的影響というリスクが加えられたのではないか、と宮地さんは考えている。同じ被爆二世の中でも、親が被爆した距離や浴びた放射線量によって、影響の度合いも変わるかもしれない。
原爆放射線による遺伝的影響のリスクは確定していない。しかし、否定もされていない。
宮地さんは言う。「被爆二世になんの手立ても講じないことで、重大な健康被害が引き起こされるおそれがあるのではないでしょうか。いくらかでも遺伝的影響の可能性があるならば、それは戦争を遂行し、原爆投下に至らしめた国に責任があると、私は考えます」
宮地さんも、大久保さんと似た言葉を口にする。「被爆二世からは逃げられない」。その根本にあるのは、「そもそも差別は許されない」という信念だ。大阪の被爆者団体に「遺伝の問題には触れるな」と拒まれた話は前編で伝えた通りだが、加えてこうも言われていた。「部落差別は理由なき差別で、被爆者への差別は、理由がある」。被爆者はいつ病に侵されるかわからない健康状態に置かれており、現に多くの病に苦しんでいる人も多い。遺伝的影響も、認められずとも否定されていないのだから、差別されることには「理由がある」という意味での発言のようだった。
しかし、宮地さんは強く反論する。「教員時代、障害の有無で子どもを区別せず、同じ教室で学んでいました。障害は、あってもええんですよ。病気がある子、勉強ができる子もできない子もいる。お互いを尊重し、障害や病気がマイナスに作用しないよう手立てを講じることが大切だと思います。だから、被爆者や二世の問題も、援護施策があれば支えられる。安心感がうまれて、差別も乗り越えられるはずです」
この言葉は、「遺伝の問題には触れるな」という声に対する明確な答えだと思う。押し黙り、隠してしまえば差別がなくなるわけではない。むしろ問題を訴え、医療や生活の保障を獲得していくことで、差別を生む社会が変わっていく。大阪被爆二世の会の活動を支えてきたのは、そんな信念だったのだろう。
結論は出ない。「モヤモヤ」は続く。それでも被爆二世としての人生は続くし、続けざるを得ない。大阪被爆二世の会を率いた2人の50年を支えてきたものは、「反差別」「反放射能」という、誰もが向き合うべき普遍的な課題と対峙する意志ではなかっただろうか。
ただ自分たちを救おうとするだけではない。被爆者の子どもという立場から社会を見つめ、あらゆる境遇で苦しむ人たちがより良く生きられることを目指す思想がそこにあった。彼らが「被爆二世」と名乗って声をあげた理由ともいえるだろう。
その思想は、私にとっても道しるべになるような予感がした。
(次回更新は未定です)
広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。