生死をさまよう難産に、兄の死……「死ぬまで二世はやめられへん」
母親が被爆者だ。広島に原爆が投下された後、親族を探すために爆心地付近を歩き、「入市被爆」した。大久保さんを産む時には、母親が死ぬか、赤ん坊が死ぬか……生死をさまようギリギリの難産だったそうだ。母子ともに無事だったが、出生時の大久保さんの体重はわずか約1800グラム。まだ珍しかった保育器の中で、なんとか成長した。しかし、小学生になってからも倦怠感が強く、遠足や運動会では毎回早退して寝込んでしまった。1つ上の兄がいたと聞いているが、産まれて間もなく亡くなったという。家族は、大久保さんの体調に気を遣いながら育ててくれた。
今から10年ほど前に脳梗塞を発病し、麻痺が残って車いす生活に。持病の糖尿病に加えて、心臓も患った。遺伝的影響かは「わからない。……ただ、こういうからだだから仕方ないなと思って」生きてきた。
岐阜に移ってからは、国に委託されて自治体が実施する被爆二世健診を受けるなどして仲間を探した。「岐阜被爆2世の会」メンバーと出会い、再び運動に関わり始めたのが数年前。会員はまだ3人だが、2024年2月には岐阜を含めた8団体とともに、被爆二世への援護措置を求める要望書を厚労省に出した。
被爆二世自らが声を上げる。このうねりを50年前の大阪でつくり出した人が今も運動を続けていることに、私は率直に敬意を抱いた。そこには驚きと疑問も入り混じる。投げ出すこともできたはずだ。なぜ、そうまでして運動を続けるのか?
「死ぬまで二世をやめられへんから……。国は『被爆二世問題はない』という立場でいつまでも援護をしませんが、私は被爆二世も『原爆被害者』だと思っています。遺伝の問題だけでなく、親の生活苦や不健康が私たちの負担としてふりかかってきました。被ばくは怖い、と言うだけじゃなくて、影響を受けた人の救援抜きに『反放射能』の立場は取れない、と私は思うんです」
大久保さんと宮地さんはその後、大阪で再会。かつての会員も含めて集い、「それぞれの場所で頑張っていこう」と励まし合ったという。
広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。