街の女達とも、すぐに仲よくなれた。いや、若くて何者でもない私は、彼女達にとって、都合のよい遊び相手ではなかったかと今にして思う。
何人かの女達は、就職が決まったとか、ちゃんと結婚することになったとか言って、皆、離れていった。十八のチンピラとまともに付き合う女はいなかった。ただそれだけの話だ。
社会に貢献する気も、生きるに値する価値も見出せなかった。
そして、もう一つ小さな理由があった。
僅(わず)か十七歳で亡くなった同級生Kのことだ。
高三の冬、受験をひかえた私に一枚のクリスマスカードが届いた。そして、年が明けた一月二十五日に、カードの送り主のKは、あっけなく死んでしまった。
私は、その少し前、友人達と東大病院に入院していたKを見舞った。
友達以上の仲ではなかった。三年C組の私の一つ斜め前に座っていたのがKだった。
私は、ノートや教科書、エンピツまでもよくKに借りた。Kはとても静かで、当時にはめずらしい黒縁の眼鏡が似合う子だった。
人は簡単に死んでしまう。
私は葬儀の席で、人目もはばからず、大声で泣いた。泣きながら西武線の線路沿いを駅まで歩いた。人に奇異の目で見られた。
身近な同級生が、この世から消えてしまった。明日から、もう朝の挨拶も、気軽な冗談も言えない。下校の時、その後ろ姿を追う事だって出来はしない。
こんな理不尽な事が起こってよいのか、私も、多分、何かで簡単に死ぬのだろう。
早く死ねば、早くKに会える。
おっと、話が濡れてしまった。その後にいろいろな事情があって、私はこの業界の近くをウロウロしていた。
初めは、どさ回りのコメディアンであった。気楽で良かった。暫(しばら)く肝臓病を患(わずら)って入院していた、コメディアンの山本修平(これが私の本当の師匠)さんが回復して、相方を探していた時に、先輩に紹介されたのが縁で、地方のキャバレー回りの相方をすることになった。
ネタは「斬られの与三郎」「貫一とお宮」とか十本くらいあったが、最後の落ちは皆同じだった。
着物とカツラをまとった師匠が女形で曲とともに舞台に登場し一踊り、後から出た私が着流しなんかで師匠に文句をつける。その間に女形の師匠は、ホステスを蹴散らし、客のビールなどを勝手に飲んで笑いを取る。
私に匕首(あいくち)で胸を刺されると、着物の合わせ目から布地の血が出て、その先に万国旗が繋がって出てくる。
連載では、シティボーイズのお話しはもちろん、現在も交流のある風間杜夫さんとの若き日々のエピソードなども。
プロフィール
おおたけ・まこと 1949年東京都生まれ。東京大学教育学部附属中学校・高等学校卒業。1979年、友人だった斉木しげる、きたろうとともに『シティボーイズ』結成。不条理コントで東京のお笑いニューウェーブを牽引。現在、ラジオ『大竹まことゴールデンラジオ!』、テレビ『ビートたけしのTVタックル』他に出演。著書に『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』等。