平成消しずみクラブ 第2回

いいんだヨ、これで

大竹まこと

 壁際に長身の男が所在なさげにフラーと寄りかかっている。永六輔さんかなと思うが、そんなはずはない。もう一年も前に亡くなっているのだから。
 そういえば、永六輔さんは本当にたくさんの芝居を観ていた。私が今までに観に行った芝居でも、気がつけば永さんの姿が近くにあった。
 私に小言を言ってくれる人が又一人減ってしまった。
 客電が落ちて、劇場が暗くなりはじめた。
 舞台に薄く照明が入った。夕暮れなのであろう。全体がうすぼんやりしている。
 先ほどの男は、もうそこにいなかった。
 舞台には、私が昔の昔に住んでいたような安アパートが建っている。物語は昭和の終わり頃、私達が青春を送ったような設定になっているらしい。
 不思議なのは、その安アパートの真上を上(かみ)から下(しも)に大きな歩道橋がかかっていることだ。橋にも街灯が弱くまたたいている。
 歩道橋の上(かみ)から初老の男がゆっくり中央に歩いてくる。照明はまだ上がりきっていなかったが、深く帽子をかぶった男が誰か、もうその歩き方だけで私にはわかっていた。
 男は中央あたりで止まった。けっして中央ではない。シンを少しはずしている。とくに、劇団出の役者は正面をきることが出来ない。
 物語が何かを別にして、長年舞台に立っていた者は、何故だかそんな風に立ち止まるのだ。
 欄干に両手をついて、腰を伸ばすようなそぶりをして顔を上げた。自分の思い通りには生きられなかった屈折した初老の男の正体が浮かぶ。
 風間杜夫である。
「知(とも)仁(ひと)」。芸名でない奴の本名が唇から漏れて、苦く甘い液が口腔に広がった。
 風間の芝居を観るのは、何十年ぶりだろうか。

 四十五年前、私達は今日の舞台のような安アパートで暮らしていた。
 知仁とは、同じ大手劇団の養成所の同期であったが、小沢昭一などが所属していたその劇団がもめて、私達は首を切られた。
 劇団員でもない私達は文句も言えず、よけいにいきりたった。養成所に納めた金を取り戻して、勝手に劇団を作った。
「ドイツ表現主義にのっとり、我々の劇団の名を『表現劇場』とします」
 一緒に劇団を作った、今も続いているコントグループ・シティボーイズのメンバーの「きたろう」が私にはわからないことを言って、劇団事務所のアパートを祐(ゆう)天(てん)寺(じ)の駅近くに借りた。
 その安アパートに、私と風間、そしてもう一人のメンバー、斉木しげるが転がり込んでくる。
 風間が実家から米をかっぱらってきて、三人で炊いたご飯にマヨネーズ、少しの醤油をたらして、食った。うまかった。
 まるで、貧乏の固まりのような生活であった。家賃をためたら、大家が腹いせに風呂のフタを全部持っていってしまった。それだけのせいではないが、風呂が沸くのに、三時間もかかった。ガスもれもしていたのだ。
 舞台のセットがグルリと回って、シーンはカラオケのある小さなバーに変わる。ミラーボールが回り、風間がバーのママ役の女とカラオケを始めた。家族にもアイソをつかされた男の唯一のはけ口なのであろうか。

 

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連載では、シティボーイズのお話しはもちろん、現在も交流のある風間杜夫さんとの若き日々のエピソードなども。

プロフィール

大竹まこと

おおたけ・まこと 1949年東京都生まれ。東京大学教育学部附属中学校・高等学校卒業。1979年、友人だった斉木しげる、きたろうとともに『シティボーイズ』結成。不条理コントで東京のお笑いニューウェーブを牽引。現在、ラジオ『大竹まことゴールデンラジオ!』、テレビ『ビートたけしのTVタックル』他に出演。著書に『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』等。

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