エミール・クストリッツァは、一九五四年、旧ユーゴスラビアのサラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ領)出身。父はセルビア人、母はモスレム人だ。
一九九一年にユーゴスラビア紛争が勃発した。セルビア人とクロアチア人が戦い、それに行き場を失った、多くのモスレムの人々がいた。父や母が生まれ、また自分が生まれた土地で繰り返される戦闘。死者二十万人。避難民二百万人。オリンピックの行われたサラエボは瓦礫と化した。
当時三十代であったエミール・クストリッツァは何を感じたのか。
「オン・ザ・ミルキー・ロード」では、多くの人々が死ぬ。村人も兵士も、そしてコスタの友達も。いやそれだけではない。村はすべて破壊された。
地雷が埋まっていた場所ではたくさんの羊が死んだ。
カメラが引くと、その地を包むおびただしい量の石が画面を覆う。
十五年の月日をかけて、コスタが運んだのである。もう二度とこの地に地雷などを埋めさせないために。
コスタのいるまわりの、ほんの少し(たたみ三畳ほど)の空間がぽっこり残るだけである。
ミルクを運ぶ男、コスタの最後の仕事は、大量の石を運ぶことだけであった。
映画の中には印象的なシーンがある。
ミルク屋に驚くほど大きなゼンマイ時計があり、これが常に狂っている。直そうとしても、長針がくるくるまわり、人が近づけない。直しにかかろうものなら、その大きな歯車に人を巻き込んでしまう。まるで人間を拒否するように。
しかし、今週は、本を読んだり、映画を観たり、腰の重い私にしてはよく動いた。
「オン・ザ・ミルキー・ロード」のほかに、映画をあと二本観た。一つは、偶然BSで放送していた「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(一九九九年)だ。ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブは、何年か前、来日公演を観に行ったことがあった。
このバンドは、散り散りになっていたキューバのバンドのメンバーとアメリカのギタリスト、ライ・クーダーらで結成された。映画はそのドキュメンタリーで、五十年間、進歩から取り残された国キューバでそのほとんどが収録された。映画の最後は、アメリカのカーネギーホールで終わる。ピアノは八十歳になった、ルベーン・ゴンサレス。ボーカルも年老いたイブライム・フェレール。
曲は、ノリの良いたぶんサルサで、イブライム・フェレールのリードに合わせてアドリブのように歌う。
そういえば、その歌は「オン・ザ・ミルキー・ロード」で村の民がみんなで歌う曲にも似ている。クストリッツァの出身・旧ユーゴスラビアのサラエボとキューバ、何千キロも離れている地だ。不思議だ。
もちろん、私は人並み外れた音痴だから、割り引いて聞いてほしい。
音痴は遺伝なのだ。父が歌うと、飼い犬のペスが吠えかかった。
そして、もう一つ。「どついたるねん」の阪本順治監督の「エルネスト」だ。副題に「もう一人のゲバラ」とある。これは、監督が私のやっているラジオに来るので、先にビデオで観させてもらった。
映画は事実にもとづいていて、ボリビアに生まれた日系二世がゲバラとともに、人民解放戦争に突き進んでいく様子が描かれている。
チェ・ゲバラは、一九五九年、実際、日本を訪れていて、広島の平和記念公園で献花している。その際、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書かれた石碑の文言には「なぜ、主語がないのか」と尋ねたそうだ。
阪本監督は約一か月のキューバ滞在で、体調を崩した。
ホテル付きのメイドさんが、痩せていく阪本監督を心配して、袋からサンドイッチを出し、大きく一口食べてから監督に差し出した。
すこし妙に思ったが、ありがたくいただいた。後にわかるのだが、そのサンドイッチはメイドさんの唯一の昼飯だったのだ。
今のキューバで、庶民の月給は平均で二千四百円である。
社会主義で唯一成功した国と言われているが、所得は低い。
病院も学校もタダであるが生活は苦しい。
しかし、町は秩序が保たれ人々は穏やかに暮らしている、と聞く。
このほかに、伊集院静さんの本を三冊読んだ。サントリー創業者、鳥井信治郎のことを書いた新刊「琥珀の夢 小説
鳥井信治郎」上・下巻と、二〇〇一年、今から十六年前に書かれた「ごろごろ」である。
どちらも感銘を受けた。しかし、紙幅の都合により、これは次回にしよう。
連載では、シティボーイズのお話しはもちろん、現在も交流のある風間杜夫さんとの若き日々のエピソードなども。
プロフィール
おおたけ・まこと 1949年東京都生まれ。東京大学教育学部附属中学校・高等学校卒業。1979年、友人だった斉木しげる、きたろうとともに『シティボーイズ』結成。不条理コントで東京のお笑いニューウェーブを牽引。現在、ラジオ『大竹まことゴールデンラジオ!』、テレビ『ビートたけしのTVタックル』他に出演。著書に『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』等。