八人のボンクラ仲間は、三人がもう去った。それ以外にも、勉強の出来た堀内も、少し不良っぽくおしゃれだった紅林も。
私はこの五月で六十九になるのだが、皆、早すぎはしないか。
太田直は中学時代から同じクラスで、いつも二人でジャレあっていた。
背は、私より低いが、眉がキリっと締まり、浅黒い肌はツヤツヤと光って、男でも惚れてしまいそうな顔をしていた。
それが、五十手前で、一人、地方のアパートで死んだと仲間から電話があった。
連絡がないので訝った弟が、アパートを訪ねたところ、一週間も前に亡くなっていたのがわかった。後に、そう知らせてくれた。死因は聞いていない。
太田とは、心を通わせていたと思うのだが、時折、スーッと距離が出来ることもあった。
卒業してからの音沙汰は、仲間からも伝わってこなかった。
仕事で東京近郊の都市を回っているらしかった。結婚もしていなかったそうだ。
学校でははしゃいでいたが、彼の家に何度か遊びに行った時の記憶はぼやけている。家の前に大きな畑が広がっていたのが印象に残っている。
ただ、中学二年生の時、彼の望みだったかは忘れたが、私たちは下校の折、よく手をつないでいた。それは中学二年のほんの短い期間で、高校になってからはそんなことも忘れて遊んだ。
私は彼の通夜にも葬式にも行っていない。
八人のうち、元気でいるのは、私をのぞいて三人。
長田は、フィリピンのセブ島で暮らしている。彼は都内の区役所に勤めていた。私は彼の働いていた出張所で以前、戸籍謄本を取ったことがあった。
「真(まこと)、税金をちゃんと払ってるか」などと冗談めかして言われた。
長田はそのころ、東京のクラブに出稼ぎに来ていたフィリピンの女性と親しくなり、彼女が国に帰った後、何年も仕送りを続け、セブ島に大きな家を建てた。数カ月に一度は、セブ島を訪ね、二人の子どもを設けた。結婚もしたのだが、両親にそのことを話しておらず、父親が亡くなった後、五十歳を越えて役所をやめて、今日までセブ島暮らしを続けている。
一年に一度、東京に年金をもらいに来るが、そのついでに、私たちと飲んだりもした。
大谷は、去年と一昨年の冬、二度にわたって右足を骨折したが、今は治って、ニューヨークで暮らしている。
大谷も、中学、高校と六年間、同じクラスであった。
母親と二人暮らしの大谷に、「銀座に行くけど、付き合ってヨ」と頼まれたことがあった。
中学生の私は、まだ銀座に行ったことがなかったが、友の真剣さに押されてついて行った。
銀座の一流の洋服店、そこには大谷の父親が仕立て屋として働いていた。洋服をスマートに着こなした、背の高い父親は、私たちをレストランに招待してくれた。私は生まれて初めて、エビグラタンを食べた。
表面が薄く焦げたエビグラタンの器が熱くて、クリームの味が舌にとろけた。
大谷は本妻の子ではなかった。
私は世の中は複雑で簡単には生きられないと思った。
この進学校で高卒なのは、私と大谷だけである。
彼は、高校を出て、船乗りになった。世界の海と町を渡り歩いて暮らしてみたいと思ったそうだが、会社とのトラブルで一年もたたないうちにやめてしまう。
次に彼の選んだ仕事はドラマーだった。ジョージ川口について、アメリカに行ったりした。実際に彼のたたいたドラムがアルバムに残っているらしい。
いろいろあった大谷が最後に選んだ仕事は、エージェントである。なんでも、日本のコマーシャルの撮影隊に世界の山や街、その撮影にかなった風景を紹介するのだ。
ニューヨークに居を構えて、飛行機のなかで知り合ったステキな奥さんともう二十年以上、暮らしている。
先月も雪を撮りたいという依頼を受け、スロベキアまで行ってきたそうだ。
連載では、シティボーイズのお話しはもちろん、現在も交流のある風間杜夫さんとの若き日々のエピソードなども。
プロフィール
おおたけ・まこと 1949年東京都生まれ。東京大学教育学部附属中学校・高等学校卒業。1979年、友人だった斉木しげる、きたろうとともに『シティボーイズ』結成。不条理コントで東京のお笑いニューウェーブを牽引。現在、ラジオ『大竹まことゴールデンラジオ!』、テレビ『ビートたけしのTVタックル』他に出演。著書に『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』等。