いま、現在進行形で貨幣と書物は姿を変えつつあります。本論はその変化を捉えつつ、どこが変化し、何が変化していないのかをあとづけようとするものです。貨幣も書物もあまりに身近なので、その変化は見えづらく不可視化されています。しかしその変化は、私たちの生活を大きく変えつつあります。
この変化を象徴するのが、スクリーンショット(いわゆるスクショ)、そして仮想通貨とブロックチェーンによる金融界のデジタルトランスフォーメーション(DX)です。スマホやパソコンがあれば誰でもできるスクリーンショットと、2019年のバブルで巷の話題になり、取引に関わったことはなくても名前くらいは聞いたことがあるという人が増えた仮想通貨とブロックチェーン、これらについて分析することで、現代における不可視化とはどういうことなのかを明らかにしようと思います。
キーワードは「手間(フリクション)」です。
スクショと複製
動画を見ているときでも、ウェブサイトを閲覧しているときでも、電子書籍アプリやマンガアプリを開いているときでも、スマホのスクショをすることで、自分が見ている画面をそのまま撮影できる場合があります。著作権保護のために何かしらの対策がなされている場合、警告表示が出たり、撮影された画像が何も写っていない真っ暗だったりします。
スクショではなく、スマホをもう一台用意して、撮影したい画面を撮影すれば、警告表示もスクショ対策もすり抜けて、多少画質が悪くはなるものの、画面の写真を得ることはできます。かつてテレビ画面を写真に撮ったり、録音機でテレビの音を録音したりしたことと同じです。それは、紙の書物をコピー機にかけたり、1字ずつ書き写しても同じことのはずです。しかし本当に同じことであれば、サービス提供者もスクショ対策をしたりはしないでしょう。では何が違うのでしょうか。
スクショとスクショ以外のコピーで異なっているのは「手間」です。もう一台スマホを用意して、画質を気にしながら画面を撮影するのも、テレビに映した動画を撮影するのも、録音機を用意して録音するのも、手間がかかります。紙の本をコピーするのも、スマホでスクショをするよりは面倒でしょう。1文字1文字を書き写すのは1ページ分だけでもかなりの作業量になります。
スクショが不可視化しているのは、この「手間」です。スクショできないものをスクショしようとしたときにだけ、ユーザーはこの「手間」を意識することができます。
ところで、複製(コピー)しようとすると警告が出るものがもうひとつあります。紙幣です。紙幣をコピーしようとすると警告が表示されます。最近の精巧なコピー機を使って一万円札を何十枚もコピーすることができれば、何十万円分の贋札を作れてしまうことになります。現在のコピー機はこの贋札偽造を防止するために、読み取り(スキャン)の段階で警告を出すプログラムが組み込まれているのです。
コンテンツや紙幣をコピーさせたくない企業や政府は、プロテクトをかけたり法律で禁止したり警告を表示させることで、ユーザーに「手間」を意識させます。「手間」があることによって、ユーザーはその「手間」を発生させる「仕組み」を意識することになるのです。
キャッチミーイフユーキャン
2002年に公開された、レオナルド・ディカプリオとトム・ハンクス主演の映画『キャッチミーイフユーキャン』は、天才詐欺師として知られるフランク・アバグネイルと彼を追い詰めたFBI捜査官カール・ハンラティという実在の人物を題材にした作品です。
フランクはアメリカで一般的な小切手を偽造してアメリカ全土とヨーロッパを飛び回り、カールを翻弄します。フランクは最初、航空会社の小切手を手作りで偽造し、偽造した小切手を銀行で現金化していました。やがてフランクの偽造手段は小切手を作る機械を購入する大掛かりなものになり、結局その機械から足がついてカールに逮捕されることになります。逮捕されたフランクはその天才的な偽造の手腕を買われ、FBIの顧問として活躍することになります。
アメリカでは日本の銀行などの金融機関のように「振り込み取引」が一般的ではなく、ある口座にある貯金から一定の金額を小切手に書いて渡す「小切手取引」が普及しています。フランクが詐欺師として成功できたのは、この小切手が一般化しているからでした。現在もアメリカでは小切手が普及しているためにデジタル化が進まないという問題があります。
ともあれ、フランクが小切手を手作業で偽造し始め、のちに機械化したことに注目しましょう。小切手を発行する機械を入手して、正式な小切手と機械的には同じものを「発行」できるようになったフランクは、結局その機械の在り処を突き止められることでカールに逮捕されてしまいます。いわば、フランクは手作業の限界に突き当たって機械化したことで、尻尾を掴まれてしまったのです。
手間と機械化
スマホで動画や電子書籍をスクショできないとき、どうしてもその画像が欲しければ、ひとはもう一台のスマホを、あるいはとにかくカメラ機能のあるものを用意して、スクショと同様のことをします。要するにその画像を「撮影」します。「スクリーン」を「ショット」するわけです。逆を言えば、そのようにすることでスクショを禁止されていてもスクショと同様のことはできてしまうのです。スクショを禁じている動画や電子書籍のプラットフォームのロックをなんとか解除して、意地でも同じスマホでスクショを撮ることさえ、技術的には可能です。いずれにせよ、それは面倒な「手間」をかけることです。動画や電子書籍のプラットフォーム側としては、そのような「手間」をユーザーに強いることで、スクショを回避することが目的です。さきほど書いた通り、この「手間」は普段は不可視化されています。
小切手にしても、それが現金化される(通用する)小切手になるためには、手間をかけて偽造したり、同じ小切手を「発行」できる機械を購入したりする必要があるわけで、それ相応の手間がかかります。いわば、この「手間」が小切手の機能を担保することになります。
誰かが構築し、誰かが運用している「仕組み」は、それがうまく回っていて、そのルールに従って利用している間は、利用者にはあまり「手間」を感じさせません。しかしその「仕組み」に逆らうようなことを試みると「手間」がかかるわけです。
低フリクション化
現代の銀行業界がテクノロジーによってどのような変革を被っているのかを紹介している『BANK4.0』によると、現在から未来にかけてのキーワードは「低フリクション化」です。
たとえば少し前まで私たちは自分の口座にあるお金をどこかに送金したくなった場合、銀行の窓口で伝票に記入し、捺印して手続きをする必要がありました。それがATMの導入により窓口に行く必要がなくなり、さらには電子決済の仕組みが実現され、スマホで振り込み手続きをすることができるようになりました。現在は過渡期なので、オンライン振り込みをするためには口座開設のために支店に足を運ぶ必要がありますが、これも「支店に足を運ぶ」という手間(フリクション)を軽減しようという流れによって、近い将来には過去のものになる可能性があります。
現に、支店の出店数が少ないアフリカやインドなどでは銀行側の機会損失を回避するために、来店なしで口座を開設できるサービスが普及して成功しています。取引のために支店窓口に足を運ばないで済む人が増えたことで銀行は取引量を増やすことができるし、ユーザーは何時間もかけて支店に行く「手間」を節約できるのです。
これは「手間」を減らす「仕組み」です。これによって人々はますます不可視化(ブラックボックス化)に気づきにくくなっていきます。
デジタルトランスフォーメーション
口座開設のために銀行側が求めるのは、従来は身分証明書などの公的な書類でした。現在でも日本で口座を開設しようとすると口座を開設する人の身分証明書が求められます。しかしモバイルデバイスが普及し、ECなどの取引が一般化していると、公的な身分証明書がなくとも、その取引履歴によって支払い能力が保証されます。銀行は安全な取引のために、ユーザーの身元を確認する必要があるのですが、その「身元」が従来の公的な書類である必要はないという考え方が支持されつつあります。
日本で話題になり普及したPayPayなどのQRコード決済(電子決済)に先んじて中国で普及しているAlipayは、運営元のアリババグループによるEC事業および芝麻信用というサービスと連携しています。芝麻信用は、ECやAlipayでの購買行動を評価してランク付けを行います。ユーザーは自分の信用スコアを損なわないために取引や支払いを円滑に行う努力を求められます。この行動履歴と信用こそが、これからの時代の「身元」になっていくというのが『BANK4.0』の主張です。これまで公的な身分証明書を得られないかった人々が、モバイル革命によって口座を開設できるようになり、金融機関から融資を受けられるようにもなっていく、この動きは金融包摂(ファイナンシャルインクルージョン)と呼ばれています。
ユーザーに円滑に取引を行ってもらうことによって銀行側はユーザーの「身元」をよりよく把握できるようになります。そのために、銀行側は自社のサービスのフリクションを低減させるべく技術を進化させていき、それによって優良なユーザーを多く獲得できるようになる、という仕組みです。言うまでもなく、フリクションが低減するほど、ユーザーは仕組みの存在を感じなくなり、自分が利用しているシステムは不可視化されていきます。このように、金融(ファイナンス)のフリクションを低減させる技術(テクノロジー)はファイナンス+テクノロジーで「フィンテック」と呼ばれます(なお、アリババグループのように金融業務に進出するテクノロジー企業をテックフィンと呼びます)。
ここまで書いてきたフィンテックの興隆は、電子決済とEC、そしてモバイル革命によってもたらされたものです。これは金融のデジタルトランスフォーメーションと呼ばれています。ユーザーの「信用」は、後述するブロックチェーンという技術によって管理されるようになります。
デジタルトランスフォーメーションによって人々の「手間」は機械化され、不可視化された「仕組み」はますますブラックボックス化されていくことになるのです。
仮想通貨バブル
2017年から2018年にかけて巷を騒がせた事件がありました。仮想通貨バブルと、そのバブルの崩壊、そして仮想通貨の大手取引所コインチェックがハッキング(クラッキング)を受け当時のレートで580億円分の仮想通貨が流出した事件です。ビットコインとブロックチェーンの技術は国籍を含めて一切素性のわからないサトシ・ナカモトを名乗る人物が2009年にインターネット上に発表した論文に基づくもので、その後少しずつ利用者を増やしてきました。コインチェック事件で被害を受けたのは、ナカモトの理論に基づく仮想通貨でした。
電子マネーと仮想通貨はよく混同されます。どちらも物理的な現金ではないという点、つまり電子的で仮想的なものであるというところは共通しています。電子マネーと仮想通貨を「ぜんぜん別のもの」と説明する人もいますが、普通の人にとっては「物理的な現金ではない電子的で仮想的なものである」という共通点だけで両者を同じものとみなすのに充分でしょう。しかし、電子マネーと仮想通貨を「ぜんぜん別のもの」とすることにもまた充分な理由があるのです。
電子マネーと仮想通貨
電子マネーと仮想通貨とが「ぜんぜん別のもの」である理由は、その思想的な背景にあります。現在の貨幣は各国の政府や中央銀行が発行し管理しています。日本で流通している現金(通貨)は当然、日本の政府が管理するということです。
よく言われることですが、一万円札の製造コストは三十円もしません。三十円のコストで作られた紙を渡して一万円の値段のモノを買う、という特殊な交換が成立するのはなぜでしょうか。それは、その「紙」が日本政府と日本銀行の「お墨付き」のある特別な紙だからです。一万円の値段のものと、その「お墨付き」のある「紙」に、同じ価値があると考えられているからです。
この「お墨付きのある紙」が過剰に大量に世の中に出回ったり、人々が日本政府や日本銀行をぜんぜん信じなくなってしまうと、一万円で買えたはずのものに対してもっと多くの「紙」が必要になったり、まったく買えなくなったりします。経済学ではそうした事態をインフレーション、ハイパーインフレーションなどと呼びます。そのようなことを起こさないように、日本政府と日本銀行は貨幣の流通量をコントロールしているのです。一般の人が紙幣をコピーしてはいけないのは、紙幣の流通量を日本政府と日本銀行だけがコントロールする原則に抵触するからです。
電子マネーは、日本政府と日本銀行に対する信用(お墨付き)に裏打ちされたこの貨幣を電子的な別のシステムに入金(チャージ)したものです。これに対して、仮想通貨は特定の政府の信用(お墨付き)を必要としません。その代わり、サトシ・ナカモトがビットコインとともに提唱したブロックチェーン技術が「お墨付き」になります。電子マネーと仮想通貨が「全然違う」のは、この「信用」の根拠がまったく異なるからです。
しかし全然違うはずの電子マネーと仮想通貨は、デジタルトランスフォーメーションの結果、ユーザーの「信用」を保管するブロックチェーンと、そのブロックチェーンを管理するフィンテック(あるいはテックフィン)が発行元の「信用」を担うことによって、やがて一続きのしくみになろうとしています。このところ話題になっているフェイスブック社による仮想通貨「リブラ」や、中国が推進している「デジタル人民元」は、デジタルトランスフォーメーションの大きな試みとして注目されています。
技術によってお金の姿は変わりつつあります。しかしこれらは一般のユーザーには単に便利になっているというかたちでしか体験されず、裏側がどうなっているかは掘り起こさなければわからないブラックボックスなのです。
スクショ文化とは何か
こうしたブラックボックス化の進展を象徴するのが、スマホの普及によってとりわけ若年ユーザー層に生まれつつある「スクショ文化」と呼ばれるものです。これは文字どおり、スマホのディスプレイの表示をスクショして送るというものです。
モバイル革命の結果として、大きなファイルサイズの画像を気軽に共有できるほどに回線速度もデバイスの処理能力も向上しました。しかしまだ、スクショからそのスクショの出自まで辿ること、つまりリバースエンジニアリングすることは比較的手間がかかります(これは顔認識機能と写真加工技術によって「盛る」写真が一般化していることにも関係しているでしょう)。
スクショの問題は、スクリーンショットというパッケージによって、そのページのURLやソースなどが不可視化されてしまうということです。ウェブページはHTMLによって記述されているので、ソースを表示させてそのページの成り立ちを確認することができます。ソースの確認は、ブラックボックスを「開ける」ことです。逆に悪質な場合、ソースを書き換えて改変されたウェブページをスクショし、人を欺くことも可能なのです。
あるページを表示したブラウザをスクショした場合、その画像にはURLが写り込むことがあります。スクショを送らずにURLを送れ、と頼んだのにURLが写り込んだスクショを送られた、という話をよく聞きます。画像で送られた文字列は目で見て手で打ち込み直さないといけないので手間がかかる、URLを送ってくれればコピーアンドペーストをするか、単にクリックするだけで済むのに、「スクショ文化」に慣れた若い世代には、それが通じないという話です。
もう少しAIによる文字認識技術が発達すれば画像で送られたURLでもそのまま開いて確認できるようになるでしょう。実際、光学文字認識技術(OCR)を搭載したアプリ、たとえばGoogle翻訳のアプリなどで、URLの写り込んだ画像をスキャンすると、URLを読み取ることができます。
これはこれで、その操作を可能にするパッケージが、その背後にある技術をブラックボックスに入れて不可視化しているということです。技術が進歩すると、機械が賢くなり、それを使うヒトはどんどん愚かで軽率な行動ばかりするようになる、と思われるかもしれません。しかしそのブラックボックスは誰かが作ったものであり、不可視化されたところに収益のシステムを仕込むこともできるのです。
次回以降は、数十年ごとに貨幣と書物の歴史を遡り、不可視化の技術がどのように展開してきたのかを辿っていきます。前回と今回は主にモバイル革命(モバイルデバイスの普及と、インターネットの高速化)を分析しました。今後はパソコンとインターネットの登場と普及、金融取引の電子化、第二次世界大戦とコンピューターの登場、第一次世界大戦と大恐慌、電信のための海底ケーブルが敷設されて世界が情報的に高速で繋がり、新聞が鉄道の普及と輪転機の導入によって大量に流通するようになる過程を辿ります。
※次回は11月24日配信予定です。